キャンディ

「ラウ、ラウ!おかえりなさい!」
「ただいま、レイ。いい子にしていたか?」
飛び出してきた体を抱きとめ、笑みを返す。こうやって自然に笑えるようになったのはいつからだろうか。昔は軽く抱き上げるほどに小さく頼りなかった背中は、今はしなやかに成長し、少年らしい健康さで彼の腕に飛び込んでくる。
「俺、もう子供じゃないです」
いつもと同じように聞き返す言葉は、彼にとっては少し不満らしい。大人びては見えるものの、丸さの残った頬に浮かべる拗ねた表情はまだまだ子供のものだ。
今はムウの家に転がり込んでいるラウだったが(とはいっても家賃も食費も半分ずつ納めているのでルームシェアに近いのかもしれない)、もともとはこの白く広い家に居た。
今はレイとギルバート2人になってしまってはいたが、かつて暮らした家の空気というものは意識よりも感覚を過去に引きずり戻していくものだ。
「ギルバートは、」
「ギルならもうすぐ帰ってくると思います。今日は学会の研究発表があるからって、朝早く出かけていきました」
そうか、と呟いてラウは荷物をソファに下ろす。ラウの住むコロニーと、この古い家はシャトルでないと行き来が出来ない。取材帰りに立ち寄ることを継げ、2,3日滞在するつもりで居た。デイバックの中には少しの着替えと、取材のためのモバイルノートとカメラ、それにお土産が少し。
「今日は食事に出るのかな」
「わからないけど・・・ラウが帰ってるのなら、ギルが作りたがるかも」
広く開いた窓からは、微かに潮の香りのする風が舞い込んでくる。このコロニーは観光を謳っているだけあって、景観が美しい。それはこの家を出た数年前とさほど変わったようには見えなかった。
「それは楽しみだ」
あながちうわべだけではなく本心から呟けば、少年は無邪気に笑ってソファに腰掛けた。どうも、話したいことが山ほどあるらしい。言いたいことをたくさん溜め込んで、ここまで自分を素直に慕ってくれているのを見ると、逆に緊張してしまうのだけれど、とラウは傍らに腰を下ろしてレイの方へ向き直った。
「さて、今日はどんな話を聞かせてくれるのかな」
あのね、と。
彼は嬉しそうに声を弾ませて口を開いた。





結局のところ、
と、昨日遊んだ友人との話、1ヶ月前の、3ヶ月前の、あるいは半年前のレイと言葉の中で再会しながらラウは思う。
甘えているのだろう。私は。
「それでね、シンは砂糖より蜂蜜のほうがおいしいんだって、言って」
途切れることの無いレイの言葉は続いている。心地よくさえ感じるその雨を浴びながら、彼にとってはめまぐるしく感じるその日常を、しっかりと脳裏に刻みつけようとしていた。
ムウと過ごす事を決め、居心地の良いこの家を出るときでさえ、レイもギルも、自分を引き止めることはしなかった。それは諦めなのか許容なのか、しかし甘えていたことは確かなのだ。
「ラウ、もしかして疲れている?」
言葉を切ってレイが心配そうに首を傾ける。
いや、と否定しかけるも取材の疲れは自分が思うよりも深く体を侵食しているのかも知れなかった。知らず知らずにため息でも吐いていたのだろうかとレイを見やれば、その気配に気づいたのか彼は小さく笑った。
「ラウのこと、わからないけど分かります。俺と貴方は、多分良く似ているから」
「レイもムウも、同じ事を言う」
「俺は、フラガさんとは違う」
むっとしたように少年の唇が歪む。
「俺、まだ彼のこと全部は許せたわけじゃないんです。・・・もちろん、貴方が彼を大事に思ってるのも知ってます。ただ、ラウを最初に傷つけたのがあの人だって、俺は」
「レイ」
「あの人は貴方を殺しかけたんだ!」
「・・・レイ」
声を荒げて叫んだレイに驚いて、思わず手を取る。白い指が手のひらに食い込むほど握り締められ、爪が刺さりかけている。
硬く硬直したそれを、ゆっくりと解いてやれば泣きそうな顔をしたレイが胸へとすがり付いてきた。
「もうあんなのは嫌です」



もともと、軍人として所属していた部隊を退役する羽目になったのも、ムウのせいだ、というのは分かっている。
それをレイが恨むのも、消えない傷が残ったのも、それに対してムウが自分に負い目があるということもすべて、分かっていた。
すべてを許すということは、即ちラウにとっては今までの自分のあり方を全て否定するということで。それでもこの生き方を選んだのは、多分。
「お前をおいてはいかないよ」
守るべきものを見つけてしまったからだろう。
「ラウ」
「そんな顔をするなレイ。…私はもう軍人ではない、いや、戻れないと言ったほうが正しいかな」
人ではなく、戦いのための部品として生み出されたラウの生きる意味は、即ち戦うことだった。壊れたら廃棄されるだけの・・・意思を持つことすら許されぬ。
戦争のための人形。有能な遺伝子を掛け合わせて作られた人工の命。
法律外で作られた彼に、人として生きることなど許されていないはずだった。
「私はここにいるよ」
そんな彼を、もう何処にも行かないでくれと懇願するようにすがり付いてくる細い腕。…レイもまた、人のおろかさの生み出した産物であり、自分の何よりも近い位置にある魂であると。
あながち、互いに響きあうのは間違いでもないらしい。
「もう何処にも行かないから」
引き裂かれそうになる息苦しさを感じながら、小柄な体を抱きしめ、髪を撫でる。不安そうに揺れる瞳も、まだ少年らしさを残した声も、レイは年々成長するごとに自分の面影を色濃く受け継いでいく。
彼が、それを何処まで受け入れるのか、ラウは不安だった。
「レイはレイだ、それを忘れるな」
「ラウも、ラウです。俺は貴方ではないし、貴方もフラガさんとは違う」
「ああ、わかってるさ」
わかっている。
繰り返し言い聞かせるように呟けば、レイはやっと安心したらしい。ためらいも無くラウの頬へ唇とつけ、べったりと甘えた体で体を預けてくる。
「…いつまでもムウに負い目を感じさせるのも、私も苦しいんだ、わかってくれ」
「でも、」
明らかに不満の声を漏らしてレイ。
「戦時中にあいつと対峙したことも、結局私が討たれて使い物にならなくなったことも、…いや、違うか。あれの父親が私たちを作ったことがそんなに憎いか?」
「・・・俺は、・・・ラウが苦しいところ、たくさん見てきました。それが全部あの、あいつの、」
「そうだな、私も恨んださ。生きる術を失って、使い物にならなくなって、お前などいくらでもスペアは用意できるのだから棄てるだけだとまで言われて。人の愚かしさを、自分の醜さを」
でも、と硬質な硝子の目に柔らかな光を浮かべて彼は笑う。以前の自分であれば、どうしてこんな顔が出来ただろうか。
「泣いたのはムウだったな」
あの男は、憎悪の塊と貸した壊れかけの自分を目の当たりにして、泣いたのだ。
すまない、と。
幸せにできなくてごめんと、子供のような顔で、声で、自分の討った相手に向かって。
「レイ、人を憎むのはそれ相応の覚悟がないと出来ないんだ」
この身が滅びるまで人を憎み、苦しみ続けるのと、全てを捨て、己の存在意義を失ってでも赦すのと。ラウはすがり付いて泣くムウを前に選択をする余地など無かったのかもしれない。
「やっぱり、フラガさんはずるい」
俺はやっぱり嫌いです、とレイが子供らしい素直さでぶすくれたのを見て、ラウはそう言ってやるな、と小さく笑って細い金糸に指を絡ませた。
せめて、この子には戦いを知らず、最初から最後まで幸せに過ごして欲しいと思うのは身勝手というものだろうか。まるで父親だな、なんて人並みに自分の親ばかさを笑い、腕に甘える暖かさを抱きしめ、彼は長く吐息をついた。
「レイは私にムウの話をしたくてたまらないように思えるが」
「違います!別に俺はそんなんじゃない!」
とたんに顔を紅潮させて声を荒げるレイを見て、おや、と思う。
「私には、どうも好いて素直になれない相手をつい卑下してしまう態度に見える」
「違います、違いますラウ、俺はっ」
その辺はまだ子供らしい必死になって首を振る姿がどうにもかわいらしくつい意地悪く内心を探りたくなるものだ。
ムウは、レイを好いている。無論、自分が嫌われているのは承知の上で、だ。
「…ムウが嫌いか?」
「嫌いです!」
だって、ラウをとったから。声に出さずにレイが叫ぶ。長い髪が跳ねて、先ほどよりもきつく強く、腕にしがみついてくる。
「それは残念だ」
「なんで!」
「ムウはお前のことを好いているからな。」
今度こそ、みるみるうちにレイの細い頬が紅潮した。
「ラウ!」
と、彼が自分と良く似た声を声高に、名前を呼ばれたときにタイミングよくリビングへと繋がるドアがからりと引き開けられる。
「やあ、ただいま。帰ってたんだねラウ。レイも、どうしたっていうんだ?外まで声が聞こえたぞ」
白いハーフコートに、発表帰りだからか、眼鏡がそのまま切れ長の目を覆い隠すように形のいい鼻に乗っている。ボリュームのあるブルネットは邪魔だからなのか何なのか、うなじの辺りで簡単に捏ねてあった。
「お帰りなさい、ギル」
「邪魔しているよギルバート」
まさにラウにつかみかからんばかりだったレイは、さすが教育の賜物としかいえないが、きちんと姿勢を正してやや疲れたような顔をしたギルバートへ向き直って行儀良く挨拶をする。ただいま、とそんなレイの頬に音を立てるだけのキスの挨拶をしたギルバートは、そのままラウの頬へと同じ挨拶を交わす。おかえり、ラウ。
「随分とまあ古風な挨拶を続けているものだな」
「家族とコミュニケーションをとるのは大事なことだろう?」
「よく言う」
言いながら、ラウも頬を重ねて挨拶を返す。外気にさらされたせいか、ギルバートの頬はやや冷たくひえているようだった。
「待たせてしまったかな。レイ、食事はまだだね?」
「はい。レストランを予約しますか?」
「いや、せっかくラウも戻ってきていることだし、私が何か作るよ。レイはそれまでラウに遊んでいてもらいなさい」
「・・・ギル」
思わずラウが笑いをこらえたのと、レイの柳眉が不満げに潜められたのは同時だった。
「俺はもう子供じゃないと、いつも」
「まるで母親だなギルバート」
きょとんと不思議そうな顔をして二人を交互に見ていたギルバートは、震える声で吐き出されたラウの一言に「せめて父親といってくれないか」なんて的外れな指摘をこぼしている。
言葉とは裏腹に、律儀にエプロンなどをつけて、せっせと料理の支度を始めるギルバートは手馴れたものだ。
「所長にして議長。お前がこんなにまめまめしいと知ったら、皆驚くだろうな」
ラウの揶揄ではないが、これでは本当に母親だ、とレイも思う。
長身に切れ長の涼やかな瞳、やや憂いを帯びた眼差しと薄く形のいい唇。誰もがため息を吐くであろう外見など気にも留めないのか、かわいらしい黄色のエプロン(これまた出来すぎにひよこのワッペンなどが縫い付けてある)を颯爽と身に纏い、髪を束ねてキッチンに立つ様ときたら。
「お母さんだな」
「否定できないのが辛い所です」
・・・何がだね。
相変わらずの本人は恍けているのか確信犯なのかわからないが、長い付き合いを振り返ってみても、おそらく前者なのであろうとラウは思う。
えらく切れ者のくせに、本質はとても純粋な。
ギルバート・デュランダルとはそういう男だ。
「ラビオリにしようか」
うきうきと随分楽しそうな声で調理を始めるギルバートの背中を見て、ラウとレイは思わず顔を見合わせると小さく笑みをこぼした。





「相変わらずのようだな」
キッチンで腕を振るい始めたギルバートの邪魔はしないでおこうとリビングに引っ込んだラウは、先ほどの楽しそうな背中を思い出して小さく微笑む。
以前ならあまり見せることのなかったそのやわらかい横顔にレイは複雑な思いを抱きながら、ええ、と頷く。
「ラウが帰ってきたのが嬉しいんだと思います。最近研究所に議会の往復だったから。新しくプラントに導入する環境税の追い込みで連日会議会議なんです。」
「環境税ね、物騒じゃないだけいいことだ。それは進歩だよ、議会の」
いや、人類のかな、とラウは思う。
人を殺すための理由と法案を練るより、人と生きるための議会であればいくらかギルバートも救われるだろう。
「ギルは、待ってますよ。貴方が戻ってきてくれるのを」
「レイ、」
私の今の居場所はここではないよ。
そういった彼の顔は穏やかだ。
「別に二度と会えなくなったわけではないだろう。今日だってこうして戻ってきている。仕事が空けばいつでも帰ってこられる」
「俺はいつでもラウと一緒に居たいです」
わがままな子供の顔で呟いたレイは目をそらす。わかっている、彼は普段こんな幼いわがままを言う子ではないことを。これも甘えられている証拠だろうか、それとも自分のうぬぼれなのだろうかと考える。
ハーフボトルのスパークリングワインとコルク抜きをもてあそびながらレイの顔は浮かない。
「ラウは俺のこと嫌いですか?」
そこで思わずラウは驚いた顔をして幼い少年らしい表情を見つめる。彼の表情は真摯なもので、 多分彼は聞きたいのだ、俺、貴方に愛されていますか?と。
じっと顔を向けながら、涼やかな瞳の奥には複雑な不安の色が揺れている。
「レイこそ」
自分と同じ色をした、空色の瞳に映る虚像を見ながらラウが言う。
「レイこそ、私を憎むようになるかもしれない」
「俺が貴方を憎む?」
「私に似てきたな、声も、顔も。」
真っ直ぐに伸びたハニーブロンドを撫でながら笑えば、彼は困ったような視線を向けた。
「ラウこそ、フラガさんに似てきた」
「それは兄弟みたいなものだからな」
「そういう意味じゃ無いですよ。…いじわるになりました。俺は、貴方に似てきたって別に構わないんだ。俺は俺だって、そう言ったのはラウです。」
そうだったなと呟き、彼は椅子に背中を預ける。レイを見て、不安になっていたのは自分の方なのだろう。やがてレイが自分を重ね移すように、…じぶんの居場所がなくなるのではないかという。

(馬鹿馬鹿しい)

 愛してくれるかと、聞きたかったのは多分じぶんの方。
「そうだったな、」
「俺は、絶対にあなたを憎んだりしない。ギルもです。例え、あなたがおれたちを憎むとしても」
「私はお前たちを憎んだりなどしない」
「そうかな」
そう言ったレイの顔がやけに大人びて見え、ラウは言うべき言葉を見失った。
そう…なのかも知れない。
「この話は止めようか。折角久々に帰ったんだ。わざわざ暗い話をすることもあるまい?」
「…そうでした」
お土産があるんだ、そう言ってラウがデイバックから取り出したのは、色鮮やかな丸い玉がたくさん詰め込まれた瓶だった。ぎんいろをしたアルミの蓋の中で、カラカラと賑やかな音を立てるそれを、目を輝かせているレイに手渡す。
先ほどまでの憂いを浴びた表情とは一変し、年相応の少年らしさで喜んでいる彼に、ラウも良かったと胸をなでおろした。
「ラウ、これは?」
「砂糖菓子だ。取材した店の名物らしい。」
昨日取材のために立ち寄った店は、何故男の自分に回ってきたのかと思うほど可愛らしい店で、パステルトーンに纏められた室内は、目眩がしそうなほど甘い香りに満ちていた。
普段は議会や政治、経済関連の記事ばかり扱っていた自分への、クライアントはほんの息抜きのつもりの取材依頼だったらしい。今まで取材の入ったことのないこぢんまりとした名店、という扱いで彼が請け負ったのはまるでファンタジー小説にでも出て来そうな可愛らしい洋菓子店だったのだ。
パティシエはこれまた可愛らしい店には不釣合いな強面初老の男性で、面食らって思わず立ち尽くしたラウに、口下手でお恥ずかしい限りですが、とはにかんだ表情で頭を下げた。傍らの奥方が可愛らしい小柄の女性で、ああ、この二人はお菓子の家に住んでしまうほど互いにがんじがらめになってしまったのかと、少し羨ましくも感じたのを覚えて居る。
取材の礼にと渡されさのは、パステルトーンの柔らかな色に纏められた瓶詰めの飴玉。
この店の土産物の鉄板らしい。色が変わるんですよ、と相変わらず慣れない笑顔で店主に言われた。
「色が変わるらしい」
レイは瓶を見つめたまま目を丸くしている。
「食べても良いですか」
たっぷりと大きめの瓶に詰められた色とりどりの小さなキャンディを抱えたレイは、年相応の無邪気な顔でラウに許しを乞う。キッチンで鼻歌混じりに腕を振るうギルバートを思い、一つだけだぞと念を押すと、彼は嬉しそうに頬を綻ばせた。
白い肌に長い睫毛。自分と良く似た面差しが混じり気のないえがおを浮かべるのを、どこかくすぐったく思いながら、これもギルバートの教育の賜物かとラウは少なからず多忙な彼の親代わりの男に感謝した。
研究所の主任と、議会のトップ。おおよそ兼任できるとは思えないポジションをなんなくこなし、その上レイの子育て躾まで完璧にやってのけたのは、周りの支えと、何よりレイ自身の愛情があったからだろう。
きっと自分がレイを育てていたらこうはいかなかったに違いない。
幼少の頃はさぞ寂しい思いをさせてしまったはずなのに、と、素直に真っ直ぐな笑顔を向けてくる少年を見て、ラウは少なからず複雑な思いを抱かずには居られなかった。
「ら、ラウ…あきません、これ…」
そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、ラウの気持ちが沈みかけている所へタイミング良く声がかかる。機内の気圧で瓶の中が圧迫されてしまったのだろうか。キツく蓋を噛んで、レイの握力では開かなくなってしまったらしい。膝の間に瓶を抱えて奮闘していた彼は、困った顔をしてこちらを見上げてくる。
上手な甘え方も心得たものだ。ギルバートめ、と内心苦笑しながら、ラウは貸しなさいと声をかけてレイから瓶を受け取った。最近はめっきりデスクワークになってしまったとはいえ、もともと軍属として鍛えていた体だ、まだまだレイよりは幾分マシだろう。
「蓋が歪んでしまったかな」
なるほどたしかに硬い。力任せに回そうとすればガラスごと破損させてしまいそうだ。
困ったなと眉を寄せて、何度か手首を捻る。と、ぎちぎちと硝子を噛んで音を立てていたアルミの蓋は勢い良く跳ね上がってしまった。
「わぁっ!ラウ!」
バラバラと、硬い音を立てて色とりどりのあめが降る中、目を丸くしたレイは声を上げて笑い出す。
「やってしまった…」
絨毯の引かれていない床に直接落ちてしまったいくつかは、無惨にも砕けて翡翠の断面を覗かせて居る。虹色の飴。なるほどこういうことか、と関心していると、大騒ぎを聞きつけたのかキッチンからギルバートがスリッパをぺたぺたと踏んで近づく音。
思わずレイとラウは顔を見合わせて叫んだ。
「ちょっとまて、ギルバート今は入ってくるな!」
「待って下さいギル!今はいってきちゃ」
あぶない、とレイの声がみなまで告げる間もなく。
「わー!!」
やがて間もなく慌ててやって来た長身痩躯は、リビングの入り口で飴玉を踏んで綺麗にすっ転んだのだった。

ほかほかと温かな湯気と、トマトの良く煮込まれた甘酸っぱい香り。とろりと溶けたチーズは優しいクリーム色を、鮮やかな赤に混じらせて、高く香っている。多分上等なチーズなのだろう。
トマトスープに浮かべられた、きちんと一つずつきれいに折りたたまれた、切手のようなラビオリ。ぱりっとした新鮮なサラダの葉には、出来過ぎのようにしずくが光っている。出来合いとはいえ、添えられたパンはラウが良く気にいって食べて居たベーカリーのものだし、机の上に置かれたワイン。昼間から飲むにしては、少々値が張りすぎるもので、そのボトルをギルバートが大事にして居たのを、ラウは知っている。
「ギルバート、甘やかしすぎるのは良く無いと…前も私は忠告したはずだぞ」
先ほど盛大にしりもちをついたギルバートは、そんなラウの言葉に笑うと、まだ痛むのだろう、腰をさすりながら温厚な笑みを浮かべていう。
「誰が誰を甘やかすって?」
「誰って…お前が、私をだ」
こうやって、さも自分のための様に晩餐を飾っておいて、料理もワインも、グラスも食器も。自分が出ていった時のままなのを奇妙に感じながらラウは呟く。
自分を甘やかす事でしか、ギルバートが甘えられないのはわかって居たが。
「さあ、早く食べないと冷めてしまうな」
そんなこちらの思いを知ってか知らずか。ギルバートは相変わらずの涼しい顔で笑う。こっそりため息を吐いてラウはフォークを手にとった。
「もう少し、素直に甘えてもいいと思うんだが」
誰にともなく呟けば、行儀良く祈りを上げてから食事に手をつけ始めたレイは不思議そうにこちらを見上げてくる。なんでも無いよと首を振り、スープから掬い上げたラビオリを咀嚼する。
しっかりと下味の付けられた挽肉を閉じ込めたパスタは、文句無しにラウ好みの味だ。食えない男、と香りのいいトマトスープにワインを傾けながら、ラウは機嫌良くサラダを取り分けている男を見つめた。
「ん?なんだい?お代わりならまだあるから遠慮しなくていいよ。君は少しくらい太った方がいい。不健康じゃないか」
「お前がそれをいうか」
「そうですよ、ギルはもっと食べて太って下さい」
生白い肌をした男をさして肩をすくめれば、レイにも重ねて指摘され、皿に山のようにラビオリを盛りつけられている。
戯れ合う子供のような二人を眺めながらラウは微かに笑った。
素直に、これでよかったと。ここもまた、自分のもう一つの場所なのかもしれない。
「こんなには食べきれないよレイ…」
「ラウからお土産を貰いましたよ。ギルはご飯ちゃんと食べないと食べちゃダメです。」
えー、と。
不満げに眉を寄せたギルバートは、大人しく盛りつけられたラビオリをもぐもぐと頬張っている。
表面だけでは見えぬ、いくつもの層になって重なった複雑なお菓子の家。ここは、自分に優し過ぎて、きっと甘え過ぎてしまうから。
「ギルバート」
長い時間をかけて、やっと夕食を片付けたギルバートの唇へ、指でつまみ上げた薄桃色の飴玉をそっと押し込んでやる。
まるで小鳥に餌をやっている気分だと、薄く形の良い唇が、差し出された飴を飲み込むのを眺めてラウは思った。綺麗な羽根をした細身の渡り鳥。
つややかなブルネットの男は、そんな印象をうける。
「…ありがとう」
「それはもらった方が言うセリフじゃないかな」
飴玉が指先を離れたのを見て呟けば、穏やかな表情をしたギルバートが笑う。
貰いすぎだ、とギルバートとレイを見てラウはもう一度有難うと言った。
「そうか、良いんだよ、ラウが好きな時に帰っておいで」
差し出された指は、愛しいものを壊すまいとするかのように、ゆっくりゆっくり髪を梳く。
黒い小鳥。
私の鳥。
「そうするよ」
唇へ触れた指先へ、ついばむように口付けでラウは満足げに頷く。
この、居心地のいいお菓子出で来た、甘い甘い鳥籠。

もう一つの、居場所。

作成:2010年6月15日
最終更新:2014年4月13日
これもオフラインからのサルベージ。ラウを甘やかす擬家族が書きたくて。

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