チョコレート

別段、甘いものが好きなわけでもない方だし、普段から好んで食べていたわけでもない。
世間が甘い香りに浮かれる季節、と言うわけでもなかったのだけれど。と、柄にも無くシックな装飾の施された、上品にしっとりとした光沢を放つ平たい箱を抱えて、彼は小さく苦笑した。
甘えることにはなれないというのに、いつの間にか、甘やかすことには慣れてしまっていた。



「おかえりー」
年末の。やや慌しいような、人々が足早に歩く繁華街を抜け、漸くラウが小さな暖かいフラットの一室に戻ってくると、出かけたときと同様のベッドにもぐりこんだままの格好で、ダークブロンドの頭が小さく揺れた。少し鼻にかかったような、普段よりワントーン低い声。ただいま、と玄関で靴を脱いでフローリングを歩くと、ベッド脇にかがみこむ。少し赤くなった鼻先をシーツから出してキスをねだる様は、まるで大型犬のようで。
「なあ、だめ?」
ずるずると鼻を啜る様に、思わず眉を寄せると子供のように甘えた声でねだられ、ほてった額に小さく音を立てて唇をつけてやった。こんだけかよー、とか何とか。どうも気に入らないらしいムウがベッドから這い出してこようとするのを何とか押しとどめる。
触れた腕が、子供のように熱い。
「原稿わたしてきたん?間に合ったのか?」
「間に合った。1週間早く終わってたんだ。年末だからあっちも忙しいんだろう」
ぐるぐると首に巻きつけたマフラーを外し、白くて暖かいコートを脱ぐと、ハンガーにかけてカーテンレールへ。その動きの一々をベッドの中から追われてることを意識しながら、重ね着していたジャケットまでを脱ぎ終えるとやっと人心地ついて傍らのベッドに腰掛ける。
「鬼の霍乱かなこれは」
一昨昨日の夜までは元気に騒いでいた男が、げんなりと溶けてベッドに張り付いている。どうやら職場で風邪をもらってきてしまったらしく、ムウは形のいい鼻をぐずぐずと鳴らしてかなり辛そうにしていた。
そのくせ、決してムウより頑丈とは言いがたい自分にはまるきりその兆候が出てこないのも不思議なものである。
「誰が鬼だ、誰が」
寝癖のついたせいで、いつもよりくしゃくしゃに乱れたくせっ毛をシーツの海に埋めたまま、ムウは不服そうに鼻を鳴らす。酷く鼻に掛かった低い声は、まるで別人のもののようで違和感がぬぐえない。
「熱は?計ったのか?」
「・・・計ってない・・・だって計って高かったら余計しんどくなるだろ」
「子供じゃ有るまいし」
とは呟いてみたものの、実際にこの男は子供なのだ。いつもはまるで「きちんとした大人」のように振舞っているくせに。と熱い額(まるで本当に子供だ)に手をのせたまま、こっそりと苦笑する。
「ラウの手、冷たくて気持ちいい・・・そのままにして」
「・・・私は氷嚢か」
学校ではどんな顔をして生徒に教鞭を振るっているというのだろう。文句を言いながら、結局乞われるとおりに額へ手を乗せてやる。掌を、いつもより高い体温がじんわりと暖めていく。
「そ、氷嚢・・・ひえぴたないよなぁ」
「あ、すまない、買ってくるのを忘れていた・・・」
「だと思った。・・・だからちょっとこのまま」
仕方ないなと動かずに額を覆ってやる自分も大概だ、と思いながらもラウは動かない。
「溶かさないでくれよ」
からかうように呟けば、熱のせいなのか、羞恥からなのか、顔をわずかに上気させた青い目がこちらを向く。
「・・・溶けるの、おまえ」
「氷嚢なら溶けるのかもしれない。」
「氷嚢っつか・・・なんか、そうだ・・・チョコレート。お前の手なんか甘い匂いする」
ふんふん、と鼻を鳴らして呟くムウに、そういえばと思い出してラウは額から手をどけた。
「・・・ちょっと溶けてしまったかもしれないな」
真剣な顔で呟けば、目をまんまるく見開いたムウが「えっ」と息を詰まらせる。息を詰まらせたついでに、鼻もつまったらしく、その後派手にむせこんでいたが。
「えっ、」
律儀にもう一度繰り返すと、手をとってまじまじと見つめてくるのでラウは耐え切れずに笑いをこぼす。
まったく!本当に・・・!
この男といると、どうしてもこう、私はくだらないことでこんなにも笑うのだろうかとちょっと不思議に思いながら。
「・・・違う、そっちじゃない。チョコレートだ」
「だってラウの手チョコレートの匂いするから、マジで」
そうか?と自分の鼻先に掌を持っていって匂いを確かめてみる。乾いた掌からは、かすかに甘いような香ばしいような、不思議な香りがする気がした。
「鼻詰まってるんじゃないのか。良くわかったな」
傍らの小さな平たい箱を引き寄せながら関心しつつ呟けば、しごく真面目な顔でムウは、「だってお前のことだから」なんて言っている。
「ラウのことならなんか、わかるんだ」
「・・・私のことはいいから、自分のことだろう今は」
ちょっとまってろ、と箱をサイドテーブルに置くとキッチンから水差しと洋杯を手に戻る。いつもより赤い顔をしたムウは、言われるままにおとなしく布団に収まっているようだった。
「さて、」
水差しから注いだ玻璃の洋杯。薄暗い間接照明に照らされ、水は何か特別な魔法の薬のようにゆらりゆらりと揺らめいている。
「薬の時間だ。それに熱も計らなければ」
「…いやだから、いいって・・・寝てれば治るし」
体温計を片手ににっこりと極上の笑みを浮かべるラウを見て、ムウはひるんだようにベッドの中にもぐりこむ。それはそれは奇麗な笑顔だけれど、とわずかな威圧感を感じてちらりと顔を出せば体温計を片手になにやらシーツ(ムウの足の方)をはがそうとしているラウが見えてしまって。
「お、おいっ、ちょっと待てってラウ!計る!はかるから!」
そのまま尻にでも体温計を突っ込まれてはたまらないと、慌てて体を起こす。足元にうずくまっていたラウは、少し残念そうに淡いハニーブロンドを揺らすと体を起こした。
「なんだ、計ってやろうと思ってたのに」
案外冗談ではなく(ムウにとってはたまったものではないが)呟いた奇麗な横顔にぞっとすると、それが冗談じゃないんだって、と体温計を受け取って口に咥える。熱が体中を刺激するのか、あちこちの間接がぎしぎしときしんだ音を立てている。
「遠慮します・・・」
ぴぴぴ。
レトロな体温計はそんなムウに同情するように小さく泣き、白黒ディスプレイに、すこし消えかけた文字で「37.8℃」の表示を示している。一昨日四十度近い高熱を出して、意識さえ朦朧としていたころに比べれば大分マシだ。
「うん、まだ高いな」
それでも難しい顔をして体温計を取り上げたラウは、ムウの体を容赦なくシーツの中に押し込める。大丈夫だって、と苦笑するムウを、おとなしくしていろと一喝して薬を渡す。
ラウは体が丈夫なほうではないので、どうも病気には敏感になるらしい。なめて掛かると痛い目をみるぞと怖い顔をされ(それは実際怖くもなんとも無いわけだが)ムウは「はい」と素直な返事をすると笑って枕に頭を乗せた。
かいがいしくレトルトの粥などを温めてくれる不器用な背中を、新鮮な面持ちで追いかけながら、時々慌てたように色の薄いハニーブロンドがはねるのをハラハラしつつも見守ってやる。本当は手料理が食べたいのだけれど、といつもだったら自分が立っているポジションに立つ細い背中。ラウの料理はなんというか、独特を通り越して壊滅的なのだ。
どうも、唯一作れる料理が「カレーライス」らしい。刻んで煮込むだけだから、と昔部下にせがまれて作ったと言うので、一度ご馳走してもらったのだけれど、見事にジャガイモが生煮えだった。同じ材料でもシチューは作れない。ホワイトシチューを作ろうとして、色だけカレーライスになっていたのを思い出してムウはこっそりと笑みをこぼした。
横顔は酷く大人びているくせに。と、ぎこちないウエイターのようにそろそろと盆へのせた粥の皿を運ぶラウを眺める。
大人びて見えるのに、本質はとても幼い。
「何だ?」
サイドテーブルに盆を乗せてやっと一息ついたらしい、枕に頭を乗せたままじっと挙動を見守っていた自分に気づいたのか、ラウは不思議そうに首をかしげた。私の顔に何かついているのか?
湯気を立てる粥をスプーンで掬い上げる手元。どうやら、いつもとは逆の立場を彼なりに愉しんでいるようだ。
「んーん、何でもねぇって。そろそろ味のあるもんくいたいなーって思っただけ。・・・明日くらいにはなんか軽く作るかな。どうせお前、ずっとインスタントで済ませてたんだろ?」
唇で温度を確かめていたのか、自分で食べようとするといいからお前は寝ていろと布団に押し込まれた。甲斐甲斐しく口へ差し込まれる匙。ぼんやりした味の粥を租借しながら聞けば、どうにも図星だったらしいラウの恨めしげな視線が落ちてくる。
朝は簡単なトーストとコーヒーを食べているのは知っている。ここ数日、推敲の打ち合わせだと仕事へ向かう彼は偉く軽装で。どうせノートパソコンと財布くらいしか持ち出していなかったんだろう。少し色艶の悪くなった(ように見える)彼。同居しているというよりは、何か、動物と暮らしているようだ、と次々に口へ運ばれてくる粥と戦いながらムウは苦笑した。
慣れない猫。それも、家猫などと可愛いものではなく、美しくも気高い豹。雪豹かなにかのような。
「パスタは」
「・・・ある。カッペリーニだ」
「いいねぇ、生トマト。」
「4つ。少し悪くなってるかもしれないが」
「アンチョビー」
「残ってる」
「オリーブオイルもあるし、完璧だな」
愛してるぞラウー、と病人らしからぬ陽気な声をあげて腰を抱けば、匙を片手に驚いたようによろめいた。
「こら、粥がこぼれる」
もうほとんど中身の残っていないボウルを抱えて不平をもらすものの、それは取り上げてサイドテーブルに置いた。抱いた腰はそのままに、抱えあげてベッドにのせると、胸に抱え込むように背中を倒す。
「今晩か、明日はパスタにしようか。冷製パスタとあったかいスープな」
病人相手に気を使っているのか、それとも端から諦めているのかは分からないが、腕の中の少し体温の低い体は動かない。
「やっぱ体温低いな。ちゃんと運動してんの?」
昔と比べて随分薄くなってしまったように思える背中を撫でて笑えば、お前が熱があるからだと怒られた。ラウは長い指で汗をたっぷり吸った前髪を漉く。額にはりついた髪をよけ、汗ばんだ額に自分の額を重ね、熱っぽいななどと呟くものだから余計に体温が上がっていく気がする。
「俺が早死にしたら多分お前のせいだぞ」
照れ隠しにムウが呟けば、何のことだと目を丸くしたラウに頭を小突かれた。
「ちゃんとまいにちランニングにも出ているし、人並みに体力も有る。それにお前は間違いなく私より長生きするから安心しろ。お前は体温がただでさえ高すぎるんだから、さっさと眠って平熱に戻せ。溶ける」
「・・・チョコなのか?」
顔を赤くして一息に呟くラウを見て、こんな顔も出来るものなのかと感心しながら彼は笑った。照れているのだ。まっすぐな言葉は通じないくせに、どうしてこう、この男は回りくどい言い回しに敏感なんだろうか。
溶けるだなんて。
「チョコじゃない」
わたしは食べ物か、おやつか、と細面を精一杯膨らせて怒っている(多分)ラウを慎重にベッドに座らせ、だってと手をとった。
鼻先を近づけて香りをかげば、大分風邪で馬鹿になっている鼻でさえ、かすかに漂う甘い香りがちらりと掠める。それは間違いなくこの白い指先から漂っているようだった。
出来すぎだ。
思わずにやりと安っぽい妄想に唇をゆがめて指先へ軽く口付けてやれば、さすがに涼しい横顔も焦ったようにこら、と小さなお叱りの声。
汗で寝乱れたシーツと髪のせいで、ひどく自分が普段と違う空気をまとっていることなど承知の上だ。それでも悪戯を仕掛けるのだから、相当意地が悪い、とムウは自分で 自分を嘲笑った。病気を盾にするわけではないけれど。ラウが強く拒めないのは目に見えている。
「私を食べて?って?」
「馬鹿か」
ごつん。
今度こそ本気で頭をどつかれて悶絶する。どこか脳みその深いチところでえらく鈍い音がした気がした。思わず涙目になって頭を抱えている間に、腕の中からするりと細い腰は抜け出していて。
「殴るぞ」
「お願い殴ってから言わないでラウさん・・・」
「自業自得だ、馬鹿」
馬鹿、だなんて。とんだ子供の悪態だ。
ベッドに座ったままそっぽを向いた白い横顔を追ってムウはこっそり笑みをこぼした。
「わかった、今日は我慢するから。怒るなって」
「・・・今日はってどういうことだ」
「そういうこと」
じとりと半眼でにらみつけてくるのも、低い声も、拗ねた横顔も全部照れ隠し。ここ数日、キスだってまともにしていない。
「なあ、俺は今すぐにでもお前が欲しくて欲しくて気が狂いそうだよ」
手を取ったまま唇へ詰めたい指先を押し付ければ、白いそれは少し体温を上げた気がした。横を向いたままの耳が赤い。
可愛くて、愛しくて、ほんとうにこのまま箱に閉じ込めて一人だけで楽しんでしまいたいほどに。これが熱の見せる妄執なのか、それとも自分の本心からのものかはわからずに。甘い香りのする手のひらを抱きしめる。
「お前は?俺が居なくても平気?」
「良いから、もう良いから寝ろ、お前は」
「チョコレート」
「だから!」
「このまま食っちまうぞ」
「・・・あ。」
そうだ、と捕らえた指がすり抜ける。明らかに不満な顔をして、恨めしげに見上げてくる男を交し、ラウはキッチンへと足を向けた。





まったく、たまったものではない!
何食わぬ顔でムウの手から逃げてきたものの、キッチンカウンターに阻まれた寝室のドアは、酷く緊張感を持っているように思えた。
ろくに身動きも取れずにいたせいで、ムウは無精髭も当たることがなく、いつもはそれなりに整えてある髪もぼさぼさで、なによりここ数日まともに触れもしなかったせいか、酷くギラギラしている。
それこそ、近づきでもしようものなら頭からばりばり食われてしまいそうだ。なんとかのらりくらりとかわしていたし、自分の本当に嫌がることをしないのも、わかってはいたけれど。
と、もう一度寝室を見返してため息を吐く。
何のことは無い、あれは猛烈な色気だ。
いい年をした、大人の男なのだ。同姓にわかる色気というのはある。ムウの場合、人柄と性格と育ちのよさのせいで、それが普段表に出てこないだけなのだ。だからたちが悪い。
ふと気を抜いたときに見せるその色気に、だまされるのだ。今まで何度電話口で女性に恨み言を言われたかわからない。
「私は妻ではないのだがな…」
家族といえば家族なのだろうが、兄弟に近いのかもしれない。それでもここまで色気を振りまかれてはこちらもたまったものではない。きっとこちらが耐え切れなくなるに決まっている。
頭からばりばり食べてしまうのはこっちのほうかもしれない。
顔を真っ赤にしてキッチンの床にしゃがみこみ、床のタイルの升目を数え始める。白黒の市松模様に目がややちかちかしてきたところでやっと落ち着いたのか、ゆっくりと立ち上がって平箱を胸に抱えた。
布張りをしてあるそれは、先月フラットの近くにオープンしたばかりのショコラティエで購入したものだ。今朝仕上がった原稿を担当へ届けに行った際、まだ年若い女性らしさを華やかに振りまいていた彼女が偉く情熱的にチョコレートへの愛を語っていたのに当てられたのかもしれない。
すごく、おいしいんですよ。甘すぎないので男性にもお勧めかもしれません。ほんと、店主もね、すごおくかっこよくて…

と、そこで彼女の語りはチョコレートの味からショコラティエに傾いたらしく、ラウは小鳥のさえずりのごとく次から次へとあふれる言葉に気おされながらもこっそり苦笑して聞いていた。
最後に、これ、場所なので。クルーゼさんもよかったら是非、と渡されたショップカードを手に足を向けてみたのだった。
もともと、甘いものは自分もムウも好きである。お互いタバコを吸わない変わりかどうかはわからないが、口さびしくなれば甘いものを欲しがった。
硝子ケースの中に陳列した、色とりどりの宝石のようなチョコレートたち。バレンタインにすら、チョコなど贈った事は無かったのにどうして急に、と驚かれるだろうか。小さく、冷たく綺麗な結晶をいくつか選んで箱に詰めてもらい、柄にも無く浮かれた気分の自分に驚いた。
どんな顔をするだろうか、喜んでくれるだろうか。だなんて。女学生でもあるまいに。どうしてそんなことを急に思い立ったのだろうか。

知ってました?クルーゼさん、チョコレートって、

「ムウ」
意を決して寝室のドアを開ける。
先ほど自分がすり抜けてきたポーズで固まったまま、ムウは恨みがましくこちらを見て、それから無言でぽんぽんとシーツを叩く。声に出さなくてもわかるというものだ。一瞬ひるんでから、ラウはそろそろと窪んだシーツに腰を下ろした。
「・・・別に逃げたわけじゃないんだ」
「じゃあ、なんだってんだよ」
かすれた声。
頼むから勘弁してくれと思いながら、綺麗に包装された平箱の、どうにも複雑に絡みついたリボンを解きにかかる。絹か何かの、鈍い光沢を持った金色のリボンを解き、箱を開けると色鮮やかに艶を放つ綺麗な結晶がぎっしりと並んでいて。思わず口に入れて冷たさを確かめたくなる欲望に襲われた。
「チョコレート。ここの近くに出来たんだ。今日私の担当が案内をくれて、せっかくだから買ってきた」
「あ、もしかしてle chocola?この間雑誌に載ってた、この辺に出来たのか」
色彩のあふれ出した箱を凝視してムウも感心したように呟いている。
「あー・・・もしかしてさっきの溶けるとかなんとかって」
そこでやっと気づいたのか、彼は照れくさそうに頭を掻いた。なんだよ、一人恥ずかしいだろ、とかなんとか。ぶつくさと文句を言いながら。
「当たり前だ。だから私は菓子じゃないと」
「俺にとっちゃおんなじだけど」
「ちょっと黙れ。おま、えはっ」
もが。
閉じられることの無い口に閉口すると、ラウはの中から、つややかな紅玉を摘み上げてムウの口へと押し込んだ。閉じる直前に、僅かに指先へ触れた熱さにも心拍が乱れるなんて、どうかしている。
全部ムウが熱なんか出すからいけないんだ、と内心ですべて責任を押し付け箱へ差し込まれた薄いリーフレットを開く。どうやら、このチョコレートたちは鉱石を模しているらしい。高級感のある箱は、さしずめ標本箱といったところだろうか。小さなラベルが書く仕切られたチョコの脇へと添えてあり、ムウの口へ放り込んだそれの横には「紅玉」とどうやら異国の文字らしいえらく画数の多い文字で記され、その下に「ruby」となじみの宝石の名前がある。
「・・・あ、美味い」
最初こそ驚きと不満とで複雑な顔をしていたムウだったが、やがて舌の上で溶けた甘さと香りに満足したらしく、ぐずぐずと鼻を鳴らす。満足の鼻息らしい。
「ルビー、パッションフルーツのタフィらしい。綺麗な色だな」
「へぇ」
おとなしく口の中で解けていくショコラを味わっているらしいムウの髪を漉く。血のように真っ赤なチョコレート。ルビーの意味は何だっただろうか、とラウは少し考えてから、出来すぎだ、と小さく呟いてうなだれた。どうにも書き物の仕事をしていると何でもかんでも意味づけを探してしまって困る、とも。
どうしたんだと怪訝そうな顔をしてみせるムウに、曖昧に首を振ってみせ、ラウは手元の宝石箱へ視線を落とした。
ルビーは情熱、愛の石。与えた相手に自分の血を分けるように、愛情で縛る王様の宝石。
「まーたくだらないこと考えてるだろ?」
「そんなことは無い」
お前のことは何でもわかるんだといわんばかりに頭を抑えられて、渋い顔をする。ラウは、箱を閉めるとチェストの引き出しへとそれを押し込んだ。ここに入れておけば溶ける事も無いだろう。
「ラウは食べないのか?」
ムウが聞く。
与えたチョコレートは、体温の高い彼の口の中で完全に溶けて消えてしまったらしい。病人によかったのだろうかとラウはちょっと後悔したけれど、古くは薬膳としてたしなまれていたカカオだ、毒ではあるまいと割り切ることにした。
自分は食べずに箱をしまってしまった彼を見て熱に潤んだ瞳のまま、ムウがにやっと笑う。
「なあ、知ってる?ラウ」
「何を」
かさかさと熱く乾いた指先が唇をなぞる。キスされたわけでもないのに、自分の体温が跳ね上がるのを感じてラウは動揺した。
大きな手のひらは、さほど強い力を込めているわけでもないのに、頬を包まれれば逃げることが出来ない。ベッドの上で向き合ったまま、濡れた目に吸い込まれそうになりながら、それでもラウは平静を保とうと大混乱していた。
表には塵ほどの表情も出てこないくせに、とムウは噴出しそうになるのを必死にこらえて長く伸びて肩の辺りでゆれるブロンドに口付ける。
「チョコレートって、キスの四倍も興奮するんだって」

知ってましたか?クルーゼさん。チョコレートが舌の上で溶ける時って、恋人がキスをするときより、興奮しているそうですよ。

そうなのか?

ええ、だからバレンタインにチョコレートを贈るのって、あながち製菓メーカーの戦略っていうだけじゃなさそうですよね。

「・・・なんでお前はそういう下らない事を知ってるんだ」
「くだらないかなぁ。雑誌で読んだ。っけ・・・生徒が言ってたんだっけ、あんま覚えてないけど」
だからなんだといわんばかりに腕から逃れようとするラウを逃すまいと抱き寄せ、白い首筋に顔をうずめる。微かにただようチョコレートの香りに眩暈がするようだった。
「おいやめろ、」
ちょっとだけ、と甘えて擦り寄ってくる様はまるで大型犬だ。伸ばしっぱなしの髭がむき出しの首筋を摺ってくすぐったい。まともに風呂にも入っていなかったせいか、酷く汗のにおいをまとった体に閉じ込められてラウの心臓は一気にはねあがった。
「ラウどきどきしてる」
その上耳元で笑われたら耐えるものも耐え切れない。ほとんど、もう泣きそうになりながらラウは大きな背中を手のひらで叩く。
「俺はそうは思わないよ。ぜったい、ラウとキスしてるほうがドキドキする。」
「ムウ、頼むから」
勘弁してくれと弱弱しく呟くのを無視して熱い体は離れない。
我慢できなくなるのは、私のほうだ。
「なぁ、だったら試してもいい?」
「だ、だめ、だ」
かろうじて断わる声さえ揺れる。今すぐ試して、キスなどと甘ったるいものではなく、もっと、

何を考えているんだ私は・・・!

「だめだっ」
「ちょっ、ラウ」
心の中で大声をあげながら転げ周り、ラウはなんとか理性をつなぎとめたらしい。肩をつかまれ引き剥がされ、おまけに泣き出しそうな顔すらされて、さすがに悪いと思ったのかムウの顔も緩む。
「わっ、わたしがっ、私が早死にしたら、お前のせいだからな・・・!!」
「ごめん!ほんと、ごめんって・・・!」
今にも泣き出しそうな顔でわめかれ、枕で顔を叩かれる。細い金色の髪が、ふわふわと揺れた。
わたしだってお前に触れて居たいのに!声には出さずに叫んで、枕を投げつける。もふ、と顔に激突したそれを抱きしめて、金色の大型犬は不満そうに唇を尖らせた。
「キスなんかで足りるかよ!っていうかキスもしてない!」
「そんなものっ」
熱が下がったらいくらでもしてやるからさっさと寝ろ!と頭を勢い良く枕に押し付けられてムウは目を丸くして沈黙した。
「ラウさん?」
なんだかちょっとラウがおかしい。えらく男前だ。というか、これは、
「もしかして、たまっていらっしゃる?」
「また殴られたいのかお前は・・・っ」
もうかれこれ1週間はまともに触れていない。3日前からムウは熱を出しているのだし、原稿の締め切りが近く、書斎にこもりっぱなしだったラウのことである。普段涼やかな顔からは想像も出来ないが、と。真っ赤になって震えている細い肩を見てムウは絶句した。
そして、
耐え切れなくなったのかムウは肩を震わせて笑い出した。
「何がおかしい・・・!」
「いや、ちょっと、その、ごめんなさいっ、なぐるなって・・・!おかしいんじゃないって、嬉しいんだよ」
再び枕を装備したラウに、あわてて手を振って弁解すると、彼はやっと話を聞く気になってくれたのかそれをベッドへと戻す。
「ラウが、ちゃんと俺のこと必要としててくれてるんだなぁって。」
「私も人の子だぞ」
「・・・いいことだよ」
何処までも気高く、触れられない高みへとあろうとした彼と。
今、こうやって狂おしいほどに自分を欲している彼。
「ねえラウ、俺が欲しい?」
「・・・」
おそらく、彼は素直に欲しいとは、まだ口には出せないのだろう。その代わり、真っ赤な顔をして指先を握り締めてくる。その低い体温が酷く愛おしい。
「でも、だめ。」
あげない、と意地悪く呟けば、傷ついた顔を向けられてムウはあわてて首を振った。
「今はだめだ。風邪うつるし、でも俺も限界。もうラウが足りなくて、死にそう」
あながち冗談でもなく呟き、ムウは冷えた手のひらに顔をうずめた。甘い香りのチョコレート。本当に彼は媚薬のよう。
「・・・熱が引いたら、キスてくれな」
「飽きるほど」
「飽きないよ」
「なら、溶けるほどに」
「上等。最高級のチョコレートだろ?」
ゆっくりと、時間をかけて味わおうじゃないか。今から甘く乱れるラウの姿を想像してにやりとすれば、馬鹿、とつたない言葉でののしられる。
それすらも甘美。
「っあー、だめだな、ほんと!」
ここまで溺れるなんて、と降参の意を込めて手のひらに口付ける。優しく頭上で笑う声を甘やかに感じながらムウは眠りに落ちていく。
きっと、今度の日曜にはチョコレートの雨が降るだろう。

──おやすみ、ムウ

作成:2010年6月15日
最終更新:2014年4月13日
オフで企画してたものが流れてしまったので。あまったるいムウラウを。

back

PAGE TOP