Vous avez la montre?

大きな割に、器用な指先だ、と思った。
体温の高い手の平、乾いて大きなそれが、まどろむ自分の額を覆って何度も髪を漉く。
目元をゆっくりと覆われるたびに安心していたのは、もうこんなに痛い世界は見なくてもいいんだよと、自分を守ってくれているようで、
夢現で安心したのを覚えている。
いつも触れてくるのはそんなときだから、
私はその体温が、夢なのか、現実なのかも分からずに。
いつも延ばした先で掴むのは冷たい空気だけだった。

空気を切り裂くような、耳障りなアラームが鳴り響く。
何度繰り返し聞いても、この音だけは苦手だ。静寂を切り裂く電子音は、否応にも無くかつて自分が身を置いた戦場での日常を彷彿とさせた。
伸ばした手の先でベッドの周りを探ってみるものの、いつのも場所にそれは触れることなく、仕方なく体を起こすと、無常にも床に落ちたままけたたましく電子音を響かせる目覚まし時計を拾い上げる。
かちり、とスイッチを切ると不満げに黙り込んだそれをチェストへ戻し、まだはっきりとしない頭を緩慢に振る。時計の針は、朝8時過ぎを示していた。
一人分の体重を受け止めていたであろう、隣のスペースは主を失ってすっかり冷え切り、自分が目を覚ます随分前に部屋を後にしたことが伺える。
転がり込んだ部屋の主は、今日は朝から仕事があるらしい。講師だとかいっただろうか。もうすぐテストがあるから面倒だと、昨日ベッドにまで持ち込んだノートパソコンでなにやら忙しく作業をしていたのを思い出し、
彼は寝乱れた金髪を軽く整えると苦笑した。
眠るときくらい、何もかも忘れられないのだろうか、とも思い、そういえば昨日のことなどほとんど奇麗に記憶から抜け落ちてしまっている自分に愕然とする。
昨日、彼が飲んだコーヒー、触れていた新聞、難しい顔をして覗き込んでいた資料はこんなにもはっきりと覚えているというのに、昨日仕事で出かけたカフェで会った編集者の言った言葉さえ思い出せない。
多分、自分は何か足りないのだろうと他人事のように考えながらも、ベッドを抜け出してさほど広くないリビングへ向かうと、きちんと揃えられたテーブルの上には、冷めたサニーサイドが2つとトースターに入れられ、ダイヤルを回せばあとは完璧に仕上がるであろう朝食が一そろえ。
流しの中にはコーヒーカップとバナナの皮しかないくせに、と軽く眉を寄せてみせる。
「甘やかすなと何度言えば分かるんだあいつは」
誰にとも無くつぶやくと、セットされたタイマーを解除してパンを焼き、コーヒーを入れる。
自分のことはいつも二の次で、自分を甘やかす。
そのくせ触れてくるのは私が眠ったあとで、まるで何かを恐れでもしているかのように、痕跡を残そうとしたことは1度も無い。
いっそ殴りあいでも、噛み傷でも付けてくれればいいのに。
何か痕でも付けてつなぎとめておいてくれなければ、今ここに居る自分を再認識できないなんて。と、薄すぎるコーヒーをすすりながら朝食を押し込む。
彼のいない部屋の空気は耳が痛くなるほど静かで、空気が動く音は一つも聞こえない。伸ばした指先の周りで、かすかに色が薄れていくのを感じながらラジオのスイッチを入れる。
上等とは言いがたい安物のラジオからは、電波状況の悪さもあいまって、爆音に近い音が零れ落ちてくるが、静寂に押しつぶされてしまうよりは幾分マシだった。
いつの間に、自分はこんなにも静寂を恐れるようになったのだろうか。
身分も名前も何もかも捨てるのを条件にここへ来たと言うのに、
宇宙に浮かぶ砂時計の周りでは、音の無い世界を飛び回る光が、幾筋も幾筋も。
見えるはずも無く、聞こえるはずのないそれが、今は酷く耳をさいなむような気がして、ノートパソコンを開くと彼はラジオのボリュームを上げた。


ラジオからは、今日の天気がこれから崩れることを告げる、おなじみの女性アナウンサーの声が響いていた。
「げぇっ、マジで・・・俺今日バイクで来ちまったんだけど。」
まいったなー、と疲れた声で机に突っ伏すムウを見てモニター越しの青年が笑う。
『相変わらずですね。ラジオだなんて、随分レトロな生活してますねムウさん』
「・・・ほっとけって、いいんだよ、退役軍人なんぞ、こんくらいのんびりしてなきゃまいっちまうぜ。ま、のんびりしすぎってのもー・・・っと」
モニターに向かって愚痴をこぼしていると、通りがかったスタッフに、唇に指を当てるジェスチャーでたしなめられ、彼、ムウ・ラ・フラガは慌てて声量を落とした。
-be quiet.
壁に貼られた日に焼けた注意。
電子図書ではなく、壁にずらりと並んだ本棚には、もはや骨董品に近いものから最近刷られた比較的新しい蔵書までがずらりと並び、かすかな物音は全て吸い込んで居るようだった。
木漏れ日が、さらにカーテンと本の壁にさえぎられたアカデミーの図書館で、ムウの叩くキーボードの音だけが硬質に響いている。
『退役、って・・・戻る気はもう無いんですか』
「戻るもなにもねぇよ、坊主。もう終わったんだ、俺はここで出来ることをするだけだ」
喪失も、勝利も敗北もともに味わい、あの日少年だった彼は、優しげな面差しはそのままで少し大人びたようだ。もうあれから3年か、と信じられないような思いで手を止める。
モニターの中には、その3年前の記録がレポートしてぎっしりと書き込まれていた。
ただ、文字の上にあるのはただのデータとしての戦争で、
「これさ、今のアカデミーの坊主どもは、わかんねーんだよな。いくつ艦を落としたとか、エースパイロットだとか、そういうことは幾らでも資料であるけど、俺や坊主たちが、どんな思いで生き抜いてきたとか人を、殺しただとか」
指でなぞる先には、あまりにも有名なザフトの仕官たちの、連邦の仕官たちの名前が並んでいる。
こんなもの、歴史書を読めば誰でも知っている事実だ。
『ムウさん』
モニター越しにキラが苦笑している。わかってる、と自分も笑い返すとレポートを閉じた。
「俺は、後悔してねえよ、キラ。今ここにいることも、この3年間で捨てたもんも、抱え込もうと決めたことも、全部な」
いつに無く饒舌なムウに驚いたのか、やれやれと笑うキラの目が優しい。
分かってます、と彼は言う。
『全部、ムウさんが決めたことです。・・・すみません、僕が口出しすることじゃなかった』
「・・・お前は強いよな」
まだ少年だった彼は、元軍人として訓練された自分とは違う。
『僕は強くなんて無い、ただ、皆が支えてくれたから、今の僕が居るだけです』
「十分だよ。それで」
キラ、とモニターの向こうで彼を呼ぶ声がする。画面端に小さく揺れた濃い藍色の色彩と、金の色、聞きなれた声がムウを懐かしい思い出へと一気に引き戻していく。
「おっ、お姫さんと坊主も一緒か」
『・・・フラガさん・・・俺もキラももう坊主って歳じゃ・・・』
『おお、誰かと、ずるいぞキラ。一人だけお喋りしてたのか!』
不意ににぎやかになる画面の向こうがわ。
あのときの面影を残したまま、少しだけ大人になった少女と少年たち。
俺は、
俺たちは変わったのかな、とぼろぼろになった腕時計をぼんやりと見つめてムウは苦笑した。
何一つ変われないまま、
意識さえ揺らぎそうになって。それでもあいつを放したくないなんて。
「卑怯者は俺だったかなぁ・・・」
無意識に呟いた言葉に、画面の向こうでさえずっていた小鳥たちは怪訝な顔で首をかしげている。なんでもないと首を振ると、まとめていた資料をメールで送信した。
「んじゃ、またな」
そろそろ追い出されそうだとカウンター越しの厳しい視線に肩をすくめて小声でささやくと電源を落とす。
立ち上がった窓からこぼれるのは人口のライトが作る夕日の色で、空色の瞳を眩しそうに細めるとムウはそそくさと席を立った。晴れているくせに、と思う。
晴れているくせに、まるでおもちゃの箱庭のように世界は雨に包まれている。


原稿を半分書き上げたところで、爆音を発していたラジオは急に息の根を止められたように沈黙した。
驚いて寂れた赤い箱を持ち上げてみるが、どうにも故障は見受けられない。中で配線が切れてしまったのか、どうなのか。ともかく自分が弄ってどうにかなるものでもなさそうだ。
ラジオに阻まれて気づかずにいたが、どうやら雨が降っているらしい。
カーテンをめくってみれば、やけに鮮やかな夕日の中、やわらかく降りしきる細かい雨粒のレースのような模様が奇麗にきらめいて見えた。
こういうのを、なんだったか、たしか狐の嫁入りと言うのだったか、と昔読んだコラムの一説に載っていたどこかの国の御伽噺を思い出す。
晴れた日にあめが降るのは、狐が神の元へと嫁にいくのだという。
金色の獣が雨にぬれた毛皮に日の光を浴びるさまはさぞかし美しいのだろう、とそんなことを思い、随分と感傷的になったものだと自嘲の笑みを浮かべると冷めたカフェオレを飲み干した。
雨のせいだろうか、体がだるい。
原稿の〆切まではまだ時間も残っている。今、急いで書き上げる必要も無いだろうと判断し、小さなノートパソコンを閉じた。間接照明を好むムウのせいで、この部屋は昼間でも暗いくらいなのだが、
窓からまっすぐにさしこんでくる赤い光のせいで、カーテン越しにも燃えるような色が部屋中に溢れている。
砂時計の中に、閉じ込められているようだ。
さらさらと窓のそとを流れる雨の音と、赤く燃える部屋。
かすかな肌寒さを感じて自分の肩を抱いた。
流れる砂に、埋もれて、埋もれて、このまま自分は居なくなってしまうのではないだろうかと言う、不安。
現実と虚構が分からなくなる瞬間というのがあって、それは自分の体に触れているときだとラウは思う。
冷たい肌、同じ遺伝子、同じ声。
父親から受け継いだそれを、空っぽな自分という器に宿し、虚しさを紛らわせるために体一杯に憎しみを溜め込んだ。
父を憎み、同じ血を受け継いだ兄を憎み、自分を生み出した世界を憎み、人類全てを憎んだ。
そしてその憎しみを全て取り上げられて、
自分は空っぽになってしまった。
薄い体に抱え込んだものは、あまりに重過ぎて、何か枷が無ければこのまま消えて行ってしまいそうな不安と焦燥。勝手な、と思う。あれほど憎しみに全てを費やしておきながら、
何が今更怖いものかと。
それでも、
「・・・ムウ」
それでも、全てを許すと、強く繋いだ手が自分をここへ繋ぎ止めてくれたから。
今、もしムウを失ったら自分は一体どうなってしまうのだろう。また、彼を失う原因を憎み、体のうちに全て憎しみを溜め込むのだろうか。と。
どうしてこんなに、自分は弱くなってしまったのだろうか。無意識に呟いた名前にぞっとしてラウは慌てて顔を覆った。
大丈夫、泣いてない。
「…ラウ?」
さらさらと続く音に埋もれて足音に気づかなかったらしい。
ふと呼ばれた名前に驚いて顔を上げると、玄関に頭から服をきたままシャワーを浴びたようなムウが立ち尽くしていた。
金色の髪が、濡れて、赤い日を浴びて、まるで、
「む、ぅ」
無意識だった。
ムウを、奪われてしまう気がして思うより先に体が動いていた。びしょぬれになった体を抱きしめ、きつくすがりつく。体温の高い肌は春先のまだ冷たい雨に打たれ、かすかに震えているようだった。
「おっ、おい、ちょ、濡れるって、ラウ、どうしたんだよ」
慌てて引き剥がそうとする腕に、無言の抵抗をする。首を振り、シャツが濡れるのも構わずに玄関で抱きしめあって。
決して小柄な部類には入らない自分の体を、荷物を持ったまま支えていたムウが、しばらく考えてから諦めたらしく、大きな掌が背中を優しく叩く。子供をなだめるように、やさしく。
「…嫁に行くな」
雨の匂いを抱えて帰ってきたムウに一言。
怪訝そうな顔をして「何だって」と目を丸くしているムウを見上げてもう一度嫁に行くなと、ラウは真摯な顔で呟く。
「…嫁って…どうしたんだお前、変だぞ」
もし、神が居るとして、
それがムウを奪うのなら、私は神を許さないだろう、とそんな浅はかな思いにすら自分で戦慄する。本当に、今日の自分はどうしてしまったのだろう。
「私はここに居るのか?」
「ラウ?」
「…ここに、私は居るのか?」
きつくすがりついた手が震える。
せめてその腕が、この体を引き裂いてくれるのなら、こんな思いに引き裂かれるより幾分ましだと。
「おい、ラウ!」
「っ…!」
強い力で肩をつかまれ、引き剥がされる。息を詰まらせたまま見上げた顔は、雨に濡れて泣いているように見えた。
「…しっかりしろ、俺はここに居る。お前も!…お前も、ここに居るだろ」
ああそうか、と。
体から力が抜けていくのが自分でもはっきりと分かった。立っていられない、どこか遠くで自分の名前を呼ばれているのを感じながら、彼は崩れ落ちた。


「…ったく…」
シャワーを浴びて濡れた服を着替え、ベッドで昏々と眠り続ける白い横顔を見下ろすとムウは小さくため息を吐いた。
昨日の夜も、今日の朝も、別段変わったところは無かったと思うが、一体どうしたと言うのだろうか。子供のような必死さですがり付いてきた、思ったより頼りない腕の感覚が背中に残ってしまっている。
それはシャワーを浴びても流れ落ちず、消えない傷跡のようで。
「どうしたってんだ、なぁ、ラウ」
長い睫、同じ遺伝子を受け継いだはずなのに、色素の薄い髪に細い顎。不安げに震える瞼を掌で覆うと、柔らかな細い金糸を漉いてやる。
糸を切られた人形かなにかのようだ、と表情をなくして眠る横顔に不安になる。自分よりずっと、過ぎるのが早い彼の時計。
どんな想いで、今彼がここにとどまっているのか自分には分からない。一度は憎まれ、殺し合いまでしたというのに。
戦場で見る鬼神のような姿とは似つきもしない、いまここで眠っているのは幼い子供のようだ。
「…一人にされっちまうのは、俺のほうだろ…?」
こつ、と眠ったままの額を重ねて小さく笑った。どの道、同じだけの時間を彼と過ごせるとは思っていない。あと、どれだけの砂が彼の中に残されているのかも、分からない。
いつ、この腕から抜け落ちていくのかも。
「ムウ、」
掌の下で、わずかに睫が震えるのを感じてゆっくりと手をどけた。その下からは、鮮やかな空色を切り抜いたような自分と同じ色の瞳。
「お、やっと目が覚めたか?お前、熱あるのに急に動いたりするからだろ。寝不足だって」
「…ちゃんと、寝てる。寝不足はお前の方、だろう」
「あのなぁっ、俺がお前のこと何にも見えてないと思ったか?寝てるって、いつもちゃんと眠りにつくの明け方だろ、眠れてないの、しってんぞ」
水を取ってくる、とベッドを離れようとすると、伸びてきた腕にすそを掴まれた。
「いい、ここに…もうすこしでいいからここに居てくれ」
不安げに揺れる目は、いつもの毅然とした彼とは程遠く、一体なにがあったものかと考える。
「…どうしたん?今日、何か変だぞお前」
「痕も…、付けてくれないから…お前は、私が眠っているときくらいしか、触れていてはくれないから」
だから、私はここに居るのかも良くわからなくなる。
と、空のガラス球が不安定に揺れてしずくをこぼした。次から次へ、表情は揺らがないくせに卑怯だ、とムウはその透明なしずくが頬をぬらしていくのを眺めてしまう。
「エロいこと言うなって・・・、」
我慢できなくなるから。
抱きたいなどと、生易しい感情ではなかった。
「俺がどんな思いだったか、お前に分かる?」
恋人などという、そんな薄っぺらい位置でもない。
「この体、どうして分かれちまってるのかって、・・・一つだったらいいのにって。」
骨も髪も血の1滴までも、すべて啜ってくらい尽くして、一つになってしまえればいいのにと、何度思ったことだろうか。
繋がる、のではない。
食らい尽くすのだ。
「ムウ…?」
「だから怖くて、触れなかった。お前が、ほしくてほしくて、我慢できなくなるから」
「随分・・・情熱的な愛の告白だな」
驚いたようなラウを見て、ムウは子供のように笑う。
「そうよ?今気づいたのかよ。俺お前のこと好きだもん。・・・愛してるから」
「言葉にすると急にうそ見たく思えるのは何でだろうか」
だから言いたくなかったんだと恥ずかしそうに照れ笑いする頭を抱き寄せる。窓の外は、まだやさしい雨の音で閉ざされたままだ。
「ラジオが壊れたんだ。」
次から次へと溢れる砂が世界を埋め尽くして、最後の一粒が落ちるときには、自分はムウの何かを満たしてやれているだろうか。
「・・・ん、直してやるよ。何でも直せるって。ラジオでもパソコンでも」
泣きそうな顔だ、とラウは頭を抱いたままうなづいた。
分かっている、直せないものが1つだけあることは。
「そうだな、ムウは器用だから、何でも・・・直せるからな」
「なぁ、ラウ。俺もうだめかも。色々我慢できなくなりそう」
今更、とやさしく笑った彼の腕の中で、ムウは押し殺した嗚咽を漏らす。
砂時計の砂は、交じり合って一つになれるだろうか。世界を包むやさしい音と、絶え間なく響く時計の秒針と。
腕に抱いた確かなぬくもりを感じながら、彼は目を閉じた。
「・・・もう、何も我慢しなくていい。私も、お前もだ」
腕に溢れる涙が、今は酷く心地よかった。

作成:2009年3月29日
最終更新:2014年4月13日
この2人には幸せになってほしいのに、どうしても苦しい。

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