夏の情緒不安定Ⅱ

「ねえみんな、すいか貰っちゃった」
夏の足音が聞こえ始めた日、空の色が徐々に濃さを増し、天との距離が近くなる毎日にため息を漏らしながら繁忙期に向けての仕事を片付けていると、事務所に戻ってきた榎本がのんびりとした声で言った。数日前まで旭川の方に出張だと何人かと連れだって出かけてきたのだが、先方に気に入られて土産を持たされたらしい。
両腕には、一抱えはある大きな重そうな箱を抱きかかえていた。
「へー、あっ、これ凄い高いやつじゃないですか社長、なんだっけ。毎年初競りで凄い値段つくやつでしょう」
「そうそう、でんすけすいか」
「そうだ、でんすけすいか、凄い立派な箱ですね……重っ」
榎本が抱えてきた箱を受け取った市村がうめき声をあげてのけ反る。箱入りの西瓜なんて初めて見た、と早速給湯室に運ぼうとする市村を制したのは榎本で、ちょっとまって市村君、と妙に少年じみた笑顔で背後を振り向く。といつから隠れていたのか榎本の背中から現れたのは、見覚えのある木刀を構えた大鳥の姿だった。
大玉を抱えたまま、一番年若いはずの市村が「正気ですか」とでも言いたげな顔をしている。こういう時に大真面目で一番子供じみた事を始めるのが社長というのはどういう事だろう。だってこれめちゃくちゃ高い西瓜でしょ、と市村が箱を抱えたまま視線をよこすのを見て、思わず笑ってしまう。
「まあ、夏ですしね」
「えーっ、そこは止めて下さいよヒジカタさん」
「何言ってんだ若者、一番はしゃげ、年相応に」
「そういう事言っててむなしくなりません?アラフォー年相応に……っで!」
はいみんなやるよー、西瓜食べたい人は玄関に集合ね。いい加減腕が痺れてきそうだった処を見かねた島田が箱をさらっていく。添乗員よろしく片手をあげて入ってきたばかりの事務所を出ていく榎本たちの背中を見送り、あ~あもったいない、とまだ恨めしそうに呟く少年の背中を軽く小突いた。
窓の外では夏の日差しが酷く眩しく、地面にくっきりとした陰をおとしている。短い夏を少しでも享受しようとでもするかのように、ばかばかしくなるほど鮮やかな初夏だった。



今年も猛暑になりそうだなと頭上で輝く太陽を手で遮りながら袖をまくる。一つしかない西瓜を誰が割るかで、どうやらくじを作ることにしたようだ。給湯室に余っていた割りばしに印をつけて集合を促している榎本に、おれはいいですよと手を振って答える。倉庫から引っ張り出してきたブルーシートをじりじりと太陽の照りつける駐車場に広げて空を仰ぐ。
「暑いっスね」
まだ汗が噴き出るほどではないが、アスファルトからの照り返しに参っているらしい島田が手ぬぐいで顔を拭いながら呻く。そうだな、と話半分に返しながらも、空とシートの鮮やかなブルーに目を奪われてしまう。
去年も、……去年も一昨年も、同じ光景を見たような気がするのはどうしてだろうか。
「西瓜割り、去年もやらなかったか、おれたち」
「……そうでしたっけ?去年はやってないんじゃないっスかねえ……」
ヒジカタさんはいいんですか、あれ、とくじを引いて盛り上がっている皆を指して島田が笑う。先ほどまでは渋い顔をしていたくせに、市村もちゃっかりくじに参加して年相応の顔をしているようだ。
「ああ、いいよおれは、……去年…」
だったか、一昨年だったか、確かに西瓜を割ったような気がするのだけれど。……あれは、近藤さんたちとやったんだろうか。どうにも記憶が曖昧だ。
わあ、と一瞬の盛り上がりを経て西瓜割の順番が決まったらしい。一番手に選ばれた市村が目隠しをされて、木刀を支えに皆にぐるぐると回されている。ひとしきり回転したあと、頭上に高く木刀を掲げたまま、明後日の方向に向かって歩き出す少年の姿にどっと笑い声が起きた。
「市村くん、もっと右、右、そっちじゃない、道路にでちゃうよ」
誘導虚しくパイロンに蹴躓いて止まった市村から、二番手、三番手へと木刀がわたっていく。昼休みおわっちゃうよ、等と笑いながらも恐らく西瓜を食べ終わるまでは室内に戻ろうとしないであろう皆を見渡して苦笑する。そういえば電話番も何もかも放り出して全員出てきてしまったのではなかったか。
「島田、おれ一回電話番にもどるよ。今中誰もいないだろ、終わったらブルーシート洗って……」
照り返しが眩しい。
顔を上げて振り向いた瞬間と、木刀が真っ直ぐに西瓜に振り下ろされた瞬間が、丁度重なった。ぐしゃ、と湿った音を立てて黒い塊が綺麗にはじけ飛ぶ。上がる歓声とブルーシートに飛び散る赤い果肉と、黒い果皮が。
「ヒジカタさん!」
……西瓜、
瓜の青い匂いの代わりに、鉄くさいべったりとした気配を感じた気がして思わず口を押える。指先が冷たい、ぐるりと遠のく空を感じて手を伸ばすと、青い顔をした島田に乱暴に体を持ち上げられていた。綺麗に後頭部からアスファルトに落ちかけていたらしい。
「……わ、悪い、足滑った」
苦しい言い訳をして起き上がろうとするが、上手く力が入らない。どうしたんスか、顔真っ青っスよ、と心配をする声も酷く遠い。平気平気、ちょっと眩暈が……しただけ、口に出すはずの言葉は喉でつかえ、意識はそこで途切れた。




膝下を掬う水がたちまち体温を奪っていく。とうに感覚のない指先を踏ん張って、そのくせじりじりと照りつける太陽に焼かれて頭は熱い。時折ざぶざぶと頭から川の流れに突っ込んで、川べりで何度も竿を振る。
せせらぎの音は木の葉の擦れる音にも良く似ているな、と思う。水面で踊る光の粒と、木漏れ日が踊る黒々とした夏の山肌。毎年夏になると鮎取りをするのを心待ちにしていた。若鮎は姉にせがんで山椒と醤油であまからく煮漬けてもらう。大きく育った鮎は串に通してそのまま焼いた。
甜瓜のようなさわやかな匂いと、ふわふわとやわらかく白い身と。そうだ、今日は が来るから沢山とって帰らなければ。
「……?」
さらさらと川の流れる音が耳につく。頬を撫でた風はぬるく、冷え切っていた足先は水一滴ついておらず、乾いた布に包まれて熱いほどだ。
二度、三度と瞬きを繰り返して目を成らすと、頭上に丸い輪が見えた。真ん中に紐に下がった円錐のプラスチック片が揺れている。
自分の部屋だ、と気づくまでに少し時間がかかった。
「おっ、やっと目が覚めたか」
体を起こして窓の開け放された空を見る。夕暮れに近づき、茜と蒼がゆっくりと溶け合って少しずつ暗くなっていく。川の音だと思っていたのは窓の外に植わった木の奏でる葉擦れの音だったらしい。
急に背後からかけられた声に一瞬驚いて肩が跳ねる。
「……近藤さん?おれ、」
「職場から電話かかってきて、倒れたっていうから迎えに行ったのよ、貧血だろうって言ってたけど、まだ調子悪いか?病院行くか、今の時間ならギリギリ間に合うだろうよ」
「迎えに、ってあんた車」
「車」
と握った両手を下にして体の前に差し出す近藤に、思わず「まじで?」と声が漏れる。冗談だよ、と男は頬にえくぼを刻んで笑った。
「タクシーだよ、……病院は?」
「あ、うん、平気」
たぶん、という後半を喉の奥に飲み込んで軽く頭を振る。まだ少し雲を踏んでいるような心地がしたが、指先から冷えていくような奇妙な感覚は抜けていた。
「会社に電話……」
「は明日でいいって。明日の朝様子見てこれそうだったら来てくれって、繁忙期前に無茶されて潰れたら困る、だそうだ」
「正論……」
差し出されるコップには製氷皿で作られた白い氷が浮いている。口に含んでから、自分の枯渇を自覚して、ごくごくと音を立てて水を飲み干した。冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚。胃の腑まで落ちた水に、そういえば昼から何も食べていなかったことを思い出す。
「そうだ、会社の人からこれ、良かったら食べてくれって持たされたんだわ、今食べるか?昼食べてないって聞いたから、腹減ってるんじゃないか、トシ」
「え?ああ、そういえば……そんな気も」
容量を得ない返答に、しっかりしなさいよ、と笑いながら冷蔵庫から取り出した皿の上には、きれいに三角形に切り揃えられたまっかな西瓜が三切れ乗っている。西瓜割の後にわざわざ残しておいてくれたのだろうか、それとも新しく買ってきたのか、ありがとうと手を伸ばしかけた所で、脳裏ににぱっと赤い飛沫が翻った。
「……っ…!」
ビクッ、と伸ばした指先が跳ねたのを不審に思ったのか、おい、トシ?と顔を覗き込む男の襟をつかんで崩れ落ちる。乾いた音を立てて、指先から西瓜の乗った皿が滑り落ちた。幸い真っ直ぐに畳へ落下したおかげでラップのかかった皿は無事ではあったが、皿よりも冷たく冷えた指に近藤は目を剥く。
窓の外が滲んで、境界が急に曖昧に見えてくるのは滲む涙のせいだろうか、とどこか他人事のように土方は思った。
「トシ!」
みるみる冷えていく指先に吐き気がこみ上げるが、口を開いても水どころか呼吸すらままならずに青ざめた。襟を掴まれたまま背中を支えていた近藤は、息をしろ、と背中を叩くが、ゲッ、とかグッとか濁った声を漏らして溺れるようにもがくだけで。
両手で顔を掴むと口を開かせて息を吹き込む。吐けずとも吹き込んでしまえば肺にも限界というものがあるだろう。
「ゲェッ…!ゥエッ……!ごほっ、ごほっ…!」
幾度目かの呼吸で限界が来たのか、痙攣するように跳ねた後、先ほど飲んだ水ごと呼吸を腕の中へと吐き出す。詰まりながらも、なんとか息をすることには成功したらしい。しがみつかれた胸も腕も水と胃液にめちゃくちゃにされながらも、大丈夫かと背中を叩いていた近藤に、震える声で「ごめん」と呟いた土方は、しかし顔を上げる事も出来ずにしばらく固まっている。
「近藤さん」
「……ああ、」
こんどうさん。
よだれと鼻水と吐き戻した水で濡れた顔を作務衣の袖で拭ってやっていると、冷たい指に顎を掴まれて名前を呼ばれる。ああ、とその度に返事を返すが、上げた顔の視線は自分をすり抜けて壁の向こうを見ているようにも感じられる。どこか虚ろな、それでいて切羽詰まった顔をして。
「ンッ……っ」
膝立ちになった体がのしかかる。先ほど息を吹き込んだ唇が、今度は呼吸ではなくもっと別の何かを求めて重なった。胃の中にはもともと何も入っていなかったのだろう、水に交じって吐き戻した胃液の、僅かに饐えた匂いがする。舌を食いちぎる勢いでしがみついていた体が一瞬離れ、肌に張り付いたシャツを脱ぎ捨てていく。水に濡れそぼった作務衣を解き、日が落ちかけている部屋の中でもほの白く光っている様にも見える肌に触れると、指先と同じくひんやりと体温を失いかけているように思えた。
泣きそうな顔をしている。……或いは。
手首を掴んで水を吸った布団へと倒れこむ。水平に沈んだ太陽が、断末魔のような真っ赤な光を狭い六畳間を満たしていた。




行為の求めんとする先は分かっているというのに、至るための道がどうにも遠く感じる。先ほどから胡坐をかいた足の間で揺れる頭を見ろしながら、上から押さえつけて喉奥を破ってしまいたい衝動を抑えている。
「トシ、もういい、」
先ほどから何度も繰り返したセリフをまた呟くが、聞いているのかいないのか、既に弾ける寸前を保つ竿を含んだまま濡れた音を立ててじゅる、と亀頭を吸い上げられた。下腹部に力を入れて耐えるが、指先に睾丸を握られて低く呻くと耐え切れずに頭を押さえつける。
「んぐ……っ」
ずぶ、と口内から奥へ先がもぐりこんだ感触がした。喉奥を突き破ったのだろう、えづくような声を上げた土方は、しかし大人しく目を閉じてその先を大人しく受け入れる。どろりとしたぬるい泥が胃の方へと落ちていくに任せ、頭を抑える手の力が抜けるまでじっと足の間で耐えている。やがて手が緩むと、息をあえがせながら唇を拭って顔を上げた。接吻を強請った時の必死さは鳴りを潜めていたが、どこかまだ切羽詰まった表情を浮かべたままに「先」を促してくる。
そんなに必死にならなくても、と近藤は思った。……そんなに必死にならなくても、自分はここにしか居ないというのに。
自覚があるのかないのか分からない、恐らくないのだろうな、とついに耐え切れなくなった土方が自分で自分の体をどうにか暴こうとし始めたのを見てさすがに手を貸してやる。いくらなんでも怪我でもされたら寝覚めが悪いというものだ。
「あ、ぁは、……あぁ」
自らの指では上手く奥まで届かないのか、もどかしげに腰をくねらせている蕾に指を添えると、ずっ、と躊躇いなく差し込んでやる。一瞬跳ねて砕けそうになる体を支え(というよりもなんとか片手で持ち上げて)、固く閉じたままの蕾へ差し入れた指をこじ開けるように二本に増やす。
「固いな……」
最後に抱いたのはいつだっただろうか。この男が、別に好き好んで男相手に足を開く性的指向を持ち合わせていない事を考えると、もうずっと、気が遠くなるほどの昔になる。文字通り「気が遠くなるほど」だ。
向かい合ったまま膝立ちの体は、最早自重を支える事が精いっぱいなのか両手で肩に手を置きなんとか崩れ落ちるのを持ちこたえている。両手で臀部を掴んで左右に押し開く。先を望む体の中へ、半ば強引に指を差し入れて開けば、ほぐれていない筋肉がひきつるのか、太ももに力が入る。
「ひっ……」
「痛いか、我慢しろ」
先が欲しいんだろう、と声に出さずに見上げれば、濡れた目が真っ直ぐ頭上から雨を降らす。ぐち、ぐちと空気を含んだ音を立てて体の中を掻きまわす度に肩に突っ張る腕がガクガクと震えて、仕舞いには頭を抱え込むような恰好になってしまう。それでも構わず指を増やしていくと、四本ねじ込んだところでついに膝が折れた。
「ご……ごめん、もう」
もう我慢できない、なのか、もうこれ以上無理、なのか。言葉の先を聞く前に崩れた腰を支えてやり、
「ああ、判った」
言葉の先の意味等分からない。ただもう体の準備が済んだ、という事は分かっていた。片手で自らの魔羅を支え、こじ開けた蕾へと押し当てると一息に腰を突き入れる。さほど濡れても居ない粘膜に引きずられて、乾いた手で擦った時のような痛みが走るが軽く唇を噛んで押し込んだ。
「ひっ……!い、あァ!痛い……ぃっ」
そりゃあ痛いだろうな、こっちも痛い、と思いながらも両手で顔を覆ってしまった土方の体を見下ろす。すっかり筋肉の落ちて薄くなりつつある下腹部が、痛みに耐えるように震えていた。
「……痛いか」
「……いっ……いたい…」
思わず可哀そうになってしまいそうなほど、情けない泣き言を漏らす。本当に泣き出しそうな顔を見て、馬鹿だな、と思った。……こんな事でしか自分を保てない。
「あ……?!あ、あぁ、待って……、まだ、まだ……!」
ず、と腰を引いてから突き入れると、摩擦に思わず眉が寄る。悲鳴を上げて暴れる土方は、その声がアパートの壁を通り抜けることなど最早考えられもしないのだろう。さすがに痛みを感じる接合に、手の平へ唾液を落とすと繋がりへと糸を引いた。何も無いよりはマシ、程度ではあるが。
「待たん」
「近藤さ……っ」
痛みのせいか、萎えかけた花芯を指先で弾けば、悲鳴を上げて両手が湿った布団を握りしめる。痛いとは泣き言を言うくせにやめてくれとは言わないのだな、と持ち上げた足を腹側に折り曲げて奥を探る。抜き差しをして痛みを訴えるのならば、さらに奥をついてやれば良い。
「待って、待っ……もう入らない、入らない…っ」
とん、とん、と先端の当たる壁を執拗に突いていると腰を掴む両手に、抵抗なのか指が絡む。体の奥を暴かれることに恐怖心があるのだろうか、それとも期待からくる被虐心なのか。
「もう入らねえかい」
絡んだ指を宥めるようにやんわりと両手首を掴むと、不思議な色をした目が涙を反射して揺れた。すっかり日は落ち、それでも夜というには明るい薄暮の空気が窓からとろりと入り込む。粘度の高い夏の空気が、じわじわと6畳間を満たしていく静けさ。
おずおずと掴んだ腕を握り返してくる指を感じながら、腰を引いてやり、
「ひ………ッ……!」
思いきり腕を掴んで引き寄せる。
舌を噛んだのではないかと思うような悲鳴の後、腹部にぬるい液体が飛び散った。抱き寄せた体は不思議とひんやりとしている。体の奥、突いていた壁を破った感触があり、亀頭だけがすっぽりと食われたようにはまり込んでいる。実際に体の中を破ったわけではないだろう。その穴に底があるわけでもない。
突然の射精に放心したままの体を揺さぶり、小刻みに突き抜けた穴の中を擦ってると、カリが引っかかるのか体の中にコリコリと僅かな抵抗を感じる。その度に胸が跳ねて雄を締め上げた。
「……トシ」
水のない地上で溺れる頬を寄せてこめかみに唇をつける。名前を呼んでやれば、安心したように目を閉じて、布団を千切らんばかりに握りしめていた手を解いて背中へしがみついてきた。
悲鳴の合間に、行かないでと言われたのだっただろうか。連絡を受けて職場へ駆けつけた時に「西瓜割をしていた」と言われてもしやとは思ったのだ。
「そこまで酷かった訳じゃないだろう」
思わず唇を就いた言葉も、土方の耳にはもう届いていない。意味をなさない悲鳴と、無意識の言葉と。
「……せん……っ……!」
は、は、と小刻みに荒くなる呼吸に、抱えた体ごと布団へ押し付けてゆっくりと長い射精を行う。体を押さえつけるように首元を噛んでやれば、痛みすら刺激と取ったのか、射精したばかりの体が跳ねて再び腹部へと白濁した蜜を溢れさせた。
深く折れた内臓の内側へと流れ込む子種が分かるものなのか、腕の下の体は一際大きな声で鳴くと、膝を何度も振るわせて腹の中へ全てを収めて事切れる。腕の下で放心したままの額を撫でて、涙の痕も生々しい目元へと指が滑る。冷たかった体温は、徐々に元のぬくもりを取り戻し始めている様だった。
まだどこか心もとなく泳ぐ視線を捕まえて、まっすぐ瞳を覗き込む。
「ここにいる、わかるか?」
「……わかる、そこに居るんだな、近藤さん」
酷くばかばかしい応答だ、とは思ったものの、「居る」と目を見て言い含めてやれば、薄暮に揺れていた瞳はやっと安心したように帳を下ろす。
「大丈夫だ、覚めやしない」
疲れ切ったのか、安心したのか、はたまたまだ本調子ではなかったためか、散々取り乱していた男は気絶でもしたかのように既に寝息を立て始めている。電気をつけないまま急速に輪郭を失いつつある世界で、拾い上げた西瓜の皿を冷蔵庫へとしまい込む。
「俺の、……首にでも見えやしたか」
そんなに無様な死にざまじゃなかったさ、と押し入れから乾いた寝具を引っ張り出しながら静かに笑う。涙に濡れそぼった横顔は、恐らく明日仕事に行くどころの騒ぎではなくなるだろうな、と既に腫れぼったい瞼を見て布団を広げる。
……夢の中でも、夢を見るものなのだろうか。

覚めやしない、望む限りは。

作成:2019年7月03日
最終更新:2019年7月03日
あの世界、課長が見てる夢かなんかじゃないのっていうホラー
※そんな設定は無い

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