夏の情緒不安定

困っているようだったから。
言い訳をする必要のある相手が居るわけでも無いくせに、ふと我にかえる瞬間に繰り返すたび、何をしているんだろうという思いは強くなった。暗澹と胸の内に湧き出る「何をしているんだろう」を打ち消すために、今日も自分に向かって呟く。「困っているようだったから」。実際、困ってなどいない癖に。
「おいトシ、素麺何束食べるの」
「よ……いや、三つ」
6月になる癖に、まだ日が落ちると肌寒い日が続く。祝日が一日も無いくせに、なんでこんなに忙しいんだよ、と彼は卓袱台の上に広げたスケジュール帳とにらみ合いながらため息と共に数を告げる。キッチンに立つ作務衣の背中は、はいよと返事をするといつの間に調達したのやら、寸胴に煮えたぎる湯の中へと……これまたどこで調達してきたものやらわからない素麺を放った。鼻歌など聞こえてきそうな上機嫌で鍋をかきまわしている妙に姿勢の良い背中。こちらは卓袱台に猫背だ。
「あんまり目近づけると、老眼になりますよ、課長さん」
「余計な世話だってんだ……っと、」
姿など見えていない癖に背中で笑われて悪態をつく。寸胴を流しに傾けたあと、見ているだけで汗をかきそうな蒸気がぶわりとキッチンに充満する。べこん、とステンレスの鳴く音を聞いて卓袱台に乗った紙を片付ける。言われてみれば、確かに最近よく目がが済むような気もするのが、心当たりが無いともいえない。そっちだって夜暗い中本を読む癖に、と喉元まで出かかった抗議を口に出す気力は既になく。手際よく水で締めた素麺と、これまた……どこで調達したのかよくわからない薬味が小鉢に乗って供される。恐らく、どこぞのおばあちゃん……だとか、自分の知らないなんとかさん、とかからのもらい物なのだろう。
「そうめん、ねぇ」
「……なによ」
「いや、別に」
なんでも、ないけど。と、いちいち突っかかるような含みを持たせてしまうのも、あれもこれも多分季節のせいだ、と結論づけて手を合わせる。居候の自覚があるのか何なのか、律儀な友人は自分が箸を取らねば食事に手を付けようとはしない。気にせずに食べてくれれば、もっと楽なのに。なんで俺がこんな気持ちにならなきゃならないんだ、とまた胸の内にどろどろとしたものが湧き出るのを溜息でおしながし、素麺をすする。
迷って3つと答えたのだが、3束茹でられた細い細いうつくしい麺は、山盛り、と言ったところで。それもまた妙に自分の選択の間違いを突きつけられるようで気に食わない。目の前の男は、そんな胸の内など知る由も無いであろうが、自分よりも多い山をするすると呑みこんでいく。健やかな食べっぷりだ、これが高校生であれば……かわいい、と素直に喜べたのかもしれない。
「さっさと食べないと、伸びちゃうでしょうよ」
シソ入れようか、と、腰を浮かせかけるのを制し(シソはたぶん、アパートの庭に生えてるやつだ)氷の浮いためんつゆで素麺をすする。うまくもまずくも無い、変哲のない素麺だが、茹でた本人が目の前にいるので「うまいな」となんとはなしに口を開く。声に出せば、まあ、確かに美味いのかもしれないな、と思った。どうにも流されやすいのは分かっているので、黙って千切りにされた茗荷を山と盛ると、目の前の山を切り崩す。
「6月はさぁ」
「……うん?」
大きな音を立てて啜る癖に、行儀が良いのかつゆの一滴とばすわけでも無く、大方自分の分を片付けた友人は箸を握ったままじっとこちらを見ている。
「トシさぁ、あんま調子良くないでしょ、休みもないし」
「まあ……っていうか、あんたに言われるとなぁ」
「そうね、俺は休みしかないわけだけども」
「夢はどうしたんだよ、夢は」
夢ね、と大きな口で笑った後に、答えを告げるわけでも無く最後の一口がつるんと大きな口へ消えた。
「……あのさ」
思わずアパートから追い出した日。
暫く帰ってこなかった友人が、ふらりとまた「お帰りー」などと笑いながら洗濯物を畳んでいたのは、珍しく道南に大雪が降った日の夜で。道端につもりに積もった雪に足を取られながら、必死にアパートまでたどり着いてみれば、階段も玄関も綺麗に除雪されていた。大家がやってくれたのかとばかり思っていたら、大きなシャベルがまるで表札か何かのように無人の筈の玄関に立てかけてあって、酷く安堵したのを覚えている。
安堵した後、同じくらいに後悔したことも。
「近藤さん、あんた、家帰らなくていいのかよ」
追い出した事ではなく、家においてくれと言われた日に二つ返事で頷いてしまったことに。何とはなしに鍵を渡したことに。自分の、浅はかさと欲に。今呟くべき言葉ではない、とは思いつつ口から毀れた思いは、引っ込めることもできずに宙に浮く。
男は、少し驚いたような顔をした。
「そうね、まあ、仕事も無くなっちゃったし」
「奥さんいい加減カンカンだろ、三行半になるぞ、ほんと」
「……雪が溶けたろ」
「そりゃ……まあ、もうすぐ夏だし」
「雪が溶けるとどうなる?」
「どうなるって、何だよ」
空になった皿を手に、男は手を付くことも無くまっすぐ腰を上げる。すっ、と綺麗に立ち上がって頭も揺れないのは見事なものだが、今はそんなことに関心している場合ではない。自分の手元には、まだ胸につかえてうまく飲み込めない素麺が残されている。
「夏からね、また車引くから」
「えっ?」
「冬の間はお休みなのよ。だからあちこちで仕事してたわけで」
そっちの社長から聞いてないの?と肩越しに振り向いた顔を思わずぼんやりと見返したまま、きいてない……と真の抜けた声で呟けば、手を拭きながら戻ってきた男は口を開けて笑った。伸びてきた手に、なぜか頭を軽くたたかれる。
「分かってたのかと思ったけどなぁ、トシ、雪があっちゃ車は引けないでしょうよ」
「そりゃ……そら……そうか…でもあんた無職って」
「まあ、それはそれ」
のびちゃうけど、と指をさされて素麺を飲み込む。さきほどより、幾分つかえなく胸の内におちていく気がして、思わず顔を伏せた。
「トシ」
「……何」
安心した、としたり顔で笑う正面に向かって、手に触れたティッシュ箱を投げつける。が、綺麗に手の中へと納まっているのが憎らしい。
「近藤さんシソ!!」
「はいはい」
少し伸びた麺に手を付けながら叫べば、笑いをこらえたまま腰を上げた背中が部屋から出ていく。アパートの階段を下りていく足音を聞きながら、ああくそ、と箸をおいて目頭を揉んだ。梅雨のないこの地で、雨も降らないくせに、6月になるたびにこんな思いを繰り返すのかと思っていたら、ここに来てあの笑顔だ。自分の浅はかさに、ほとほと嫌気がさす。……それを、突っぱねようとはしない、相手にも。
……困っているようだったから。
「何が困ってるようだから、だ」
困っているのは、どちらだったのか、そんなものは。
「……ああ、畜生」
どうか戻ってくる前に、緩んだ唇が何とかなるように、彼は両手で顔を覆って唇をかみしめた。

作成:2018年6月23日
最終更新:2018年6月23日
某観光の二次。
課長んちに転がり込んでる無色に妻子がいると知って…。家に帰れよ…。という思いで。

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