雨に唄えば

ぴちち、とかすかに耳の奥をくすぐる甲高い声が聞こえる。
窓の外では風がごおごおと泣いていて、普段なら気にならないほどのその物音がひどく耳についた。カーテンの隙間からは、既に薄青い光が差し込んでいて、夜明けが近いことを告げている。部屋の中が静かなせいで、ほんの僅かな衣擦れの音も敏感に拾ってしまう。さわさわと耳からもぐりこんで脳を直接くすぐられるような刺激に、もはや眠ることは諦めて、幽助は甘んじるようにじっとその音に耳を傾けた。
ガラスを隔てた小鳥の声、壁を撫でていく風の音、時々思い出したようにささやく衣擦れは、自分が身じろぐせいだ。そして、その奥に静かに繰り返す寝息の。
床に寝転がったまま、思いきり首を傾けて目の前にあるちょっとした絶壁を見上げる。段差が絶妙なせいで、その崖の上の光景は見えないが、見えなくてよかったとも思う。手を伸ばせば届く距離が、もどかしいような、気恥ずかしいような。どうにも落ち着かない気持を抱えたまま、まんじりともせずに夜を明かしかけている。
早く夜が明けて、いつも通りのやかましさで揶揄の一つでも、小言の一つでも言ってくれれば早く楽になるのにとも思う。こんな穏やかな寝息をいつまでも聞かせ続けられていたら、いっそどうにかなってしまいそうな気がした。起き上がって、顔を覗き込んで、狸寝入りなんじゃないかと確かめてやろうと思う事、両手で数えて少し余るくらいを繰り返し。それでもまだ、その百倍くらい強くはまだ目を覚ますなとも願っている。まだ少し、もう少しだけでいいから耳を澄ませて、その呼吸音に聞き入って。
子供じみた我儘に大概自分勝手だなとあきれながら、鼻息を一つ立てて布団をすっぽりと頭まで被る。そうしてしまえば微かな物音はもう聞こえずに、あとはぬるい闇だけだ。疲労と緊張の隙間にようやく訪れかけている睡魔に腕を掴まれて、幽助は早く連れて行ってくれと静かに祈って目を閉じた。


「傘持ってこなかったの?」
終礼のチャイムと、どわ、と喧しげな音を立てて豪雨が降り注いだのはほぼ同時だった。
明日は日曜、やっと解放されると晴れやかだった生徒たちを後目に、始め淑やかにぽつりぽつりと落ちてきた雨粒は、あっという間に地面を黒々と塗りつぶし、埃っぽい道を舐めていく。桜がやっと満開を迎えて今週末は花見に絶好の日和かな、なんて思ったころに必ず降る花時雨。
一年の目覚めに、のびのびと賑やかに花をつけた桜にとってはいい迷惑なのか、それとも恵みの雨なのかはわからないが、強い雨脚に打たれて既に地面にはきらきらと白い花弁が散り始めている。
そんな豪雨を眺めながら、下駄箱で学ランの上着を脱いでいる幼馴染を見とがめて雪村瑩子は思わずあきれた声を上げていた。仕方ないわね、これ使いなさいよ。と、その手に握られているのは下駄箱へしまわれている折り畳みの置き傘。
しかしそんな彼女からの申し出に、あからさまに眉を寄せて幽助は「いらねえって」とぶっきらぼうにつぶやくと、ばさりと脱ぎ捨てた上着を羽織るように頭へと被る。それを雨除けに家まで走って帰るつもりらしかった。
「いらねえって、いくら何でもこんな強い雨なんだから上着じゃ無理よ。びしょびしょになっちゃう」
「あのなぁ……そんな花柄の傘なんかさして帰れるわけねーだろが!そんなんさすくらいなら濡れて帰ったほうがいくらかマシだっつの」
言いながら目で示す先は、先ほどの折り畳み傘で。なるほど確かに春らしく柔らかな桜色のそれは、かわいらしい花模様が一面にちりばめられていた。しかし彼女にとって雨の日を楽しく過ごすためのその明るい花柄は、年頃の少年にとっては気恥ずかしさが用途を上回ってしまうらしい。そんなこと言ったって、と雪村が困った顔で幼馴染の無茶を何とか思いとどまらせようとしていると、「なにやってんだァ」とトーンの高い声が雨をはねのけて降り注ぐ。下校の生徒の波に交じって頭二つ分は抜けた人影が覗き込むように顔を見せた。
「桑原君からも言ってあげて。幽助傘わすれたって、貸してあげるって言っても聞く耳持たないんだから」
「あ?なんだあ、そりゃ、へへへへ、そりゃ…ひひ、お似合いなんじゃねーのかうらめげぼ」
これ!と瑩子の差し出した傘に目を止めて笑い交じりに呟かれたセリフは、最後はうめき声に変わってみぞおちに刺さった拳に長身が折れた。小柄な体躯から殺人的な威力で繰り出された右ストレートに、下駄箱前で悶絶しながらも桑原はしぶとくも「おいちょっと待てって」と、なんとか聞き取れる声で幽助を呼び止める。何だよ、まだ殴られ足りねえのかよとでも言いたげに視線を上げた幽助の目前に、その手に握られていたビニール傘が、ふうわりと舞った。
「おらっ、これ使え」
反射的に目の前に現れた傘を掴み、目を丸くしている彼を後目に、桑原は傘立てからも一本のビニール傘を引き抜く。それはしばらく使われていなかったのか、柄に錆が浮いて骨も歪んで折れていたが、雨をしのぐには支障がなさそうだった。あくまで凌ぐだけなら、だが。
「これも俺のだって。拾いもんだけどよ。」
それなら文句ねーだろ、とさっさとその傘を開いて雨の中を歩きだそうとするその持ち手には、確かに油性マジックでかすれかけた桑原、の文字が見て取れる。筆圧が高いせいでフェルトペンの書き出しの太いその文字を見て、自分の投げられた真新しい傘と見比べて思わず呆れてしまう。
桑原和馬という男が、年の割にえらくフェミニストなのは知っている。フェミニストというのも嫌味に聞こえてしまうが、毎日人に喧嘩を吹っかけてくる割には育ちは良いのだろう、というのは幽助は何となく敏感にかぎ取っていた。喧嘩を吹っかけてくる理由だって、別に幽助を嫌悪してのことではなくてむしろ逆なのだからたちが悪い、と思っていた。揶揄いや嫌悪からくる喧嘩であれば、一発再起不能になるまで叩きのめしてやれば相手は二度と手を出してこない。それなのに、この桑原という男と来たら……と。これは今関係のない話だったか。つまりはそう、単純に彼のごく当たり前の優しさからくる行為なのはわかっている。分かってはいたのだが。……第一自分は女ではないのだし。
「良かった。桑原君ありがとう。じゃあね幽助、置き傘の一本くらい置いときなさいよ」
「わーったよ、オメーも気ィつけて帰れよ。っておい、桑原待てよ!」
桑原の助け舟にほっとしたのか、明るい花柄の傘を差して雨の中を小走りで帰っていく幼馴染。確かにそこだけ花が咲いたように色彩のにじむ傘は雨の日も気分が沈まずに済むだろうと思うが、やはり自分が差すようなものではあるまい。などと雪村を見送っていると、ギシギシと音を立てるボロの傘を開いて、さっさと歩き出そうとしていた長身を呼び止めた。とっさの事で、思わず漏れた大声に幽助は自分で驚き、下校時間ににぎわっていた下駄箱では一瞬水を打ったかのように静寂が広がる。不穏な顔ぶれに喧嘩でも始まるのかとあちこちで生徒が怪訝そうな顔をして足を止めるが、すぐにそれも元の喧騒に飲み込まれて雨音に紛れた。土砂降りの雨に半分乗り出した桑原も足を止め、なんだとばかりに目を丸くしている。差しかけた傘を伝って、雨粒が滝のような勢いで流れ落ちていた。
ほんの数歩の距離のくせに、隔てる雨の喧しさのせいでうまく声が聞き取れないのか口を大きく開いて「なんだァ?」と一言。その声の大きさに再び周りの生徒たちの視線を集めるのがいたたまれなくなって、幽助も慌てて傘を開くと玄関を飛び出した。とたんにパラパラとビニールを叩く雨音に、雨脚の激しさを知る。温んできたと思った気温も豪雨の前では肌寒いほどで、跳ねあがった雨粒に制服の足元がみるみる濡れていく。
「何だじゃねえよ、オメーがこっち持ってけよ、あんだよそっちボロボロじゃねーか」
何とは無しに隣に並んで歩くことになりながら呟けば、桑原は事もなさげに「だってよオメーのが家遠いだろ」と笑う。こういう事を臆面もなく呟いてしまえる育ちの良さに、育ちの良さというよりは彼の気質なのかもしれないが……幽助は背中が痒くなって思わずひっぱたいてしまいそうになった。反射的に拳に思わず力を込めて笑う瞳から目を反らす。
……確かに桑原の家は学校から歩いてほんの十分ほどの距離にあり、幽助の家はそこからさらに歩いて十五分といったところで学区のぎりぎり端にある。遠いからなんだよとしばらく内心で悶えてから何とか悪態の一つでも吐いてやろうと口を開けば、こっちのボロ傘じゃ濡れっちまうだろ、と笑われて今度こそ耐え切れず、「俺が!恥ずかしいんだよ!」と叫びたい言葉と飛び出しそうになった拳の代わりに新品の傘を差しだした。桑原からすれば、そんなことを言われたところでなんのこっちゃといった事だろう。
頭上から遮る物がなくなったとたんに、落ちる水滴に頭を撫でられぴっちり整髪料で整えていた髪がこぼれて額へとかかる。普段は粋がって額を出して見せてはいても母親譲りで同級生たちと比べてみても大きな目をしているせいか、前髪がある顔はひどく幼く見え、見知った人間でも一目でそれとわかる知り合いは少ない。みるみる濡れそぼっていく頭を見て、おい何やってんだと慌てて傘をさしかけた桑原も一瞬で濡れ鼠になり、幽助は思わず舌打ちをした。
「浦飯オメーなぁ、人がせっかく傘貸してやってんのにそれじゃ意味ねぇだろが」
なんて言いながらも自分も同じ穴の狢というもので。ほんの数舜の間にずぶぬれになった二人は、それでもお互い引かずににらみ合い。濡れてしまえば今更とも思うが、立ち止まった桜の木の下で、ところどころに落ちてきた花びらを頭にのせたままやっと傘を担ぎなおすと再び歩き出した。ちらと視線を下げると、ビニール傘を一枚隔てて、半歩先を肩で風を切って歩く濡れた幽助の後ろ頭が見える。あのよ、と桑原が口を開きかけたところで威勢のいい声にそれを遮られた。
「オメーが余計な事すっからだ」
「なーにが余計なことだこのスダコがァ。ったく、あったかくなってきたっつってもまだ寒いだろが」
売り言葉に買い言葉。普段のじゃれあいだとはわかっているが、口を開けば出てくるのは軽い殴り合いのような応酬だけで、水滴を振り飛ばすように小さく首を振ると「そうじゃねえ」と先ほど飲み込みかけた言葉を桑原は慎重に口に出した。
「あのよ、俺ン家寄ってけよ」
「……はァ?!」
声を遮るような雨音と、ビニールの被膜に遮られて一瞬意味が通らなかったのか、ささやかれた言葉を口に入れ、咀嚼して。そしてやっと飲み込んだほどの間をもって幽助は普段より数段高い声を上げた。少し裏返った声に驚いたフリをしつつ、そんな驚く事ないだろとあきれて見せれば、彼は慌てて取り繕って表情を落ち着かせた。大きく開いた目が、零れ落ちそうに見えるのが少し可笑しくて唇を慌ててかみしめる。ニヤついた顔など見せてしまえば台無しになること請け合いだ。
「どうせお前んちおふくろさん留守にしてるんだろ。制服濡れちまったし、ちょっと寄って乾かしてけよ。どうせこんな勢いの雨だ、乾くころにゃ少しはマシになってるだろ」
もっともらしいセリフを並べてみても、内心は気まぐれなこの悪友が一体どんな反応を返すのかと全身の意識を傾けて探ってしまう。栄吉が、ひどく機嫌を損ねてそっぽを向いているときに似ている。と桑原は思った。下手に声をかけても首をくすぐっても爪を立てられる、そのくせこちらが何もしないと拗ねて平気で数日は袖にされるのだ。
「途中まで同じ方向だし」
まるで言い訳のように誘い文句を探していると、ちょっと考えた後に幽助は濡れた頭を掻きながら「わぁーったよ」と言った。その顔がどんな表情をしているのか、半歩前を歩く小柄な背中からはわからないが。少なくとも尻尾を逆立てているのではなさそうだ、とその声の調子を聞いてほっと胸を撫で下ろす。そのぱっと見ただけでは華奢にも見える背中が、猫、なんてかわいらしいものではなくて、もっと虎とかライオンとか、そんな猛獣だってことは百も承知ではあるのだが、
(でもあれも一種の猫だもんなぁ)
虎もライオンも、丸くもなるし喉も鳴らす事もある。……はずだ。
そこから会話は桑原が新しく買ったゲームの話にとび、先のトーナメントの話にとび、言葉の雨を降らせながら足早に家へと向かう。最後は競い合うように駆け足になり、二人で声をだして笑った。



「う、おー、濡れた、濡れた!」
「オメーが途中からあんな走り出すからだろ!」
「ばーか、その言葉そっくり返してやるぜ。ちょっと待ってろ、今タオル持ってくる」
幽助を玄関に残してつま先立ちで靴下を脱ぎ、ずぶぬれの長身が廊下の奥へと水滴の痕を残しながら去っていく。ひょこひょこと水を落とさないようにまるで踊るようなステップを踏んで歩いていくその背中を見送って、言葉につられてうかうかと自宅にまで上がりこんでしまった自分に驚いていた。桑原には裏表がない、と思う。ツッパリだヤンキーだと粋がっては見せても、煙草も酒も手を付けているのを見たことがない。むろん万引きなどもってのほかで。
綺麗に磨かれワックスの効いた廊下を眺めながら、その理由にも納得してしまうというものだ。他人の家の、どこかよそよそしいくせに懐かしいような匂いに落ち着かなくあたりを見回しながら濡れた上着を脱ぐ。ずっしりと水を吸って重くなった学ランを絞ってやろうかと手をかけたところで、乾いたシャツに着替えた桑原がタオルと籠を両手にどたどたと足音を立てながらこちらへ向かってくるのが見えて手を止めた。
「やめとけって、伸びっちまうぞ。ほら、これはこっちな。靴下とかズボンとか、全部こんなか入れといてくれ。着替えは俺のしかねーぞ、おら」
てきぱきと籠の中に濡れた制服を回収されてタオルを押し付けられる。ふんわりと洗い立てられた柔らかなそれに、おとなしく玄関先で体を拭い、渡されたシャツに袖を通す当たり前だが丈も肩幅も合わないそれに腹が立つよりあきれてしまう。何を食ったらそんなに伸びるものなのか。
「やー、わかっちゃいたが相変わらずミニマムなこっ…で、ぇオェッ」
絶対にからかわれるで在ろう事は目に見えていて、口に出されれば手を出されることはわかっているくせに、どうしてこうこの男は直ぐに殴られるようなことを口走るのだろうか。と、本日二度目のみぞおちが綺麗に決まり、もんどりうっている桑原を後目に幽助は拳をしまいながら「殴るぞ」とつぶやいて見せる。
ほかの生徒から見れば、はたから見ていても遠巻きだ。陰口をたたかれるのは兎も角、正面切って踏み込んでくるものなど彼のほかにはいやしない。
「ってて……殴ってから言うなよなァ、」
そんなとこ突っ立ってねーで上がれよ、とその言葉に手を引かれて並べてあるスリッパに少し迷って足を通した。
「洗濯かけてくるからちょっと待ってろな」
籠を抱えたままどこぞへ去っていく桑原を後目にリビングに通され、小奇麗に片づけられた居心地のよさそうな空間にどこか緊張してしまう。自分の家族に対して不満があるわけではないが、恐らくはごく一般的な家庭の在り方ですら、どうも居心地悪く感じてしまうのも自分の家庭にあることくらいは分かっていた。お邪魔しますの一言もうまく言えないままだらりとリビングに座っていると、あらいらっしゃい、と後ろ頭に声をかけられた。
「浦飯くんかい?いらっしゃい、ゆっくりしといでね」
「あ、どうも、その、お邪魔してま…ス」
ぎこちなく笑みを返して桑原の母親に頭を下げる。入れ違いに戻ってきた桑原が、何か食うもんあったっけ?と一言二言言葉を交わすのを、どこか遠くの出来事のように見ながら耳をそばだてた。ここでは壁が厚いのか、雨の音は聞こえてこない。
「なー、浦飯ゲームしようぜゲーム。どうせ制服乾くまで暇だろ」
帰り際ずいぶんと楽し気な顔をして話していた、新しく買ってもらったらしい格闘ゲームの事らしく、そわそわとテレビ台の下からゲーム機を引っ張り出しながら桑原が笑う。雨の日なんてお構いなしなんだもんなぁ、と呟けば「何で雨が今関係あるんだよ」と不思議そうな顔だ。晴れの日の顔。
「なーんでもねー。仕方ねえから付き合ってやるよ」
「おっ、それじゃあ付き合ってもらいましょうかね。へっへ、ボコボコにしてやんぜ」
ゲームではこちらに分があるとばかりにウキウキとコントローラを持つ横顔を見て、残念でしたと内心舌を出して見せる。桑原は知らないだろうが、この手のゲームは暇つぶしに玄海につき合わされていやというほどプレイしているのだ。いまだにあの矍鑠とした師匠には十回に一回勝てればいいほうだが。(無論、ゲームの中の話だ)
見てろよとコントローラーを握りしめ、つい力が入ってしまうのも仕方がないというものだ。飽きもせずに何度も試合を選びなおし、夢中になって画面へと食い入るように体が傾いだ。
「何だよオメーこういうの得意かよ?!」
ギリギリ勝敗を五分五分か少し負けているくらいに抑えて何度目か、悔しそうに叫びながら必死にコントローラを繰る横顔に笑ってしまう。ちらと隣を見上げれば、集中しているせいか、無意識に力んだ唇がツンと尖っている。雨に濡れていつもの勢いを失った前髪がほつれて邪魔そうだな、と幽助は思った。手の中のコントローラも、指が長いせいか掌が大きいせいかそれともその両方か(癪だが)ずいぶんと小さく見えてしまう。
「ヘッ、残念だったなァ、これなら俺に大差で勝てると思ってか」
「ンググ」
しぇーい、もう一回だもう一回!と両手を上げる桑原に、もう制服乾いたんじゃねえのと声をかける。夢中になって遊んでしまったが、日はもう暮れかけていて半刻前にはもう夕方のチャイムが鳴っていたような気がした。キッチンからは、夕食の支度なのかあたたかな匂いが漂い始めていて、急にここが自分の居場所では無かった事を思い出して再び居心地の悪さを感じてしまう。
「んん、おお…そうか、もうそんな時間か。オメー家にお袋さんいねえなら夕飯食ってけば」
「バッカオメー、んなことできるかよ。」
これ以上長居しては、とどこか線引きを自分で設けて深入りを逃げている。わかったよと渋々制服の様子を見に行く桑原を見ながら、ともすれば甘えてしまいそうになる自分にあきれていた。手元にほうりだしていた、ぺったんこに潰れて中身もほとんど入っていない学生鞄の口を開く。母親は恐らくまた数日家を空けているし(たぶん「仕事」だ。彼女は時々家を空けてはまとまった金を手にふらりと戻ってくる。何の仕事をしているのか詳しいことは知らなかったが、口にするのも憚られて幽助はずっと聞けずじまいのまま彼女を送り出してしまっている)、家に帰ったら何か作って、と鞄の中に手を突っ込んだところで首をかしげる。
……無い。
「おーい浦飯、制服乾いたぞ。まだちーっと湿ってるかもしれねえけど、あとは干しとけば平気だろ。」
「ン、ああ、わりーな」
もしや制服のポケットに入れっぱなしのままだったかと、平静を装って受け取った学生服のポケットをまさぐる。上着のポケットをひっくり返し、ボンタンのポケットを両方出したところで、見当たらない目当てのものに、幽助は少しためらってから口を開いた。
「なあ、洗濯の時にポケットになんか入ってなかったか?」
「……なんか?いや、一応洗う前に見たけど、何もなかったと思うけどな。どうかしたかよ」
「いや、何でも、」
「なんでもって顔じゃねーだろ、何でもって。水くせえなぁ、どうしたのか言えよ。なんか落としたのか?」
オメーは俺のお袋か、と言おうとおもって開いた口が「鍵がよ」と、本音を呟くのをどこか他人事のように新鮮な気持ちで聞いている。
「家の鍵、ポケットに入れといたと思ったんだけど見当たらねーんだ」
「見当たらねーって、オメーそれじゃ家入れないんじゃねえのかよ。…なあお袋ー、今日浦飯泊めてやってもいいかな。明日ガッコねえしよ」
「え、あ、おい、ちょっと待てって!」
ぐりん、と座ったまま背中をのけ反らせてキッチンを仰いだ桑原がそう言い放つのと、慌てて口を塞ごうとして二人でもんどりうって床に倒れるのとはほぼ同時で。キッチンから顔をのぞかせた桑原の母親は床に絡まって倒れている二人を見ては「何してんのあんたたち、」と笑ってから「いいわよ泊まってきなさいな」とキッチンに引っ込んだ。
「な?」
(な、じゃねえだろ!)
と、さすがに声に出さずに突っ込みを入れて軽く小突き、能天気に笑っている後ろ頭をにらむ。
「もしかしたら帰ってくるってんなら電話入れとけよ。お袋さんに。ダチん家泊まるくらい別にどうってことねえだろ」
「……あー!わぁーったよ!そんなに言うなら泊まってってやらぁ!」
電話あっち、と指をさす先にどすどすと歩いていく幽助の背中を見て、素直じゃねえなぁと桑原は笑う。たぶん、と彼が聞けばまた怒り出しそうなことを思ってほうりだしたままのゲームのコントローラを手持無沙汰に弄る。
人への上手い甘え方を知らないのではないだろうか。
(もっとよっかかりゃいいのによ)
飛影や蔵馬と付き合いだしてから少し、負けず嫌いだから、だけでは済まない他人への壁があるような気がしてならないのは、自分の気のせいではないはず。と思いながら。いい意味でも悪い意味でも明け透けな家庭で育ったからか、桑原は人の感情に鼻が利く。
拾ってきたばっかりの頃の栄吉と似てるよな、とちょうどリビングに顔を出した愛猫に声をかけて撫でていると、仏頂面をした幽助が電話を切ったのとは同時で。
「どうだったよ」
「……留守電」
ほれみろと言わんばかりにニシシと笑えば、どっかりと隣に腰を下ろした幽助にうるせえと軽くつま先で小突かれる。みああ、と小さく鳴き声を上げた猫が腕を抜け、隣り合った隙間にちょうどよくすっぽりと収まって満足げに喉を鳴らしていた。暢気なものだ。
「珍しいな人見知りなのによこいつ。……ああそうか、浦飯は命の恩人だもんなぁ」
分かってんのかね、と桑原にくりくりと額を撫でられてグウグウ鳴いている子猫を見下ろす。
「なーんかあれから色々あってよ、随分たっちまったきがするけどまだ半年だもんな」
「おっさんくせーな」
うるせえやい、なんて。ポーズ画面のまま止まったコントローラを握りしめてもうちょっと遊ぼうぜ、と誘われるままにスタートボタンを押す。食い入るように画面を見つめていたのは、間に挟まって満足気に甘える猫の姿が、まるで今の自分のように見えて急に恥ずかしくなったからだなんて、
(居心地が良すぎて逆に居心地悪いなんてな)
そんなことを言えるはずもなく、御飯よ、との声をかけられて勝負は引き分けのまま打ち止めになってしまった。


非の打ちどころのない夕食とでもいうのだろうか。
あたたかなリビングで、家族そろって、いただきますと手を合わせて。今日の出来事などに他愛のない話の花を咲かせながらのそういった場に慣れていなかった幽助は、食事を終えて「お風呂先に使ってね」との桑原母の言葉に甘えて風呂場を借りた時点でもうクタクタになっていた。
あいついつもこんな生活してんのよ、すげーな!と借りたシャツが肩口からずり落ちてくるのを鬱陶しく直しながら敷かれた布団にひっくり返る。洗いっぱなしの髪は濡れしずくで、シャツの肩がみるみる濡れていく。
「おーい浦飯髪くらい乾かせよな……ドライヤーあるぞ」
風呂上り、のしのしと部屋に戻ってきた桑原の手にはドライヤーが握られている。意外な顔を見せながら腹筋だけで軽々と起き上がると、いらねーよと首を傾げた。
「お前ドライヤーとかつかってんの」
「逆に聞くけどオメーはそれ使ってねえのかよ」
「……つかってねーけど」
もともと髪はしっかりしているほうで、多少の癖はあれど洗い髪のまま眠ってしまう幽助にはドライヤーの習慣はない。どうせ多少寝癖がついたところで髪はセットしてしまうし、桑原もそのポンパドゥールにリーゼントじゃ変わらないだろうと思っていたのだが、どうもそうではないらしかった。
「俺猫っ毛だからよ、乾かしとかないと朝セットに時間かかるし面倒なんだ」
ドライヤーの騒音の隙間から、たぶんそんなような言葉が聞こえた気がした。結構前髪長いんだよな、と少し丸まった背中をどこか新鮮なものでも見るようにしげしげと眺めてしまう。猫は、我が物顔で部屋に入ってきてベッドの上で丸くなっている。
手櫛で髪を整えている横顔を見ながら、そろりと背中に忍び寄ると、パジャマ替わりに羽織っているTシャツに手をかけて一気にまくり上げた。何すんだ!と叫びかけてさすがに声を潜める桑原などお構いなしに、バランスを崩して布団に尻もちをつく腰へと馬乗りになると「いいからいいから」などと言いながら剥いていく。
「おっ、お、オメーな……っ俺はそういう趣味はだな…!」
「なぁーに言ってんだバーカ。そんなんじゃねえよ」
ちょっと浦飯さん?!と動転して妙な敬語になる男は捨て置いて、襟元までめくりあげた胸板に目的のものを見つけて眉を顰める。これで本当に同年代かよ、と思うほど見事についた筋肉の上に、まだ真新しく盛り上がったばかりの皮膚。傷の痕だ。
「もうだいぶ治りかけてるけど、まだ結構のこってんな、これ」
「は……ひゃ、はい?……え、ああ、何だよ、それかよ……」
やっと意図をくみ取ってホッとする桑原に、別に取って食いやしねーよ、と呟き治りかけの傷に触れる。人並み外れた霊力のためか、桑原の傷の回復は驚くほど早い。それは毎日のように飽きずに殴りあっては叩き伏せていた幽助が、誰より一番よく分かっていた。
それでも、とその指の下でまだ柔らかく頼りない薄い皮膚を盛り上げた傷を見てよみがえる苦い思いに自然と眉が寄った。この時は、本当にもうおしまいだと思ったのだ。
「ンな顔しなくてももう何ともねーよ。ラッキーなことに骨も折れてなかったし、ばあちゃんにあの後傷塞いでもらったろ?」
そんなことは言われるまでもなく分かっているのだ。やっぱオメーそれ髪乾かせよ、と濡れた頭をぐちゃぐちゃと乱されて真正面からドライヤーの風を浴びせかけられる。ごおごおと耳元で騒ぐ風のせいで、桑原は口を開いて何か言っているようだったがよく聞き取れなかった。
「あ?!なんだよ!」
「なんでもねーよ、ほれ後ろ向け後ろ」
世話の焼きたがりなのか、人を猫と同じようなものとしかみていないのか何なのか。半ばあきらめて背中を向くと好きにさせてやる。大きな掌が何度も髪を透いて、お前もこんな気持ちなのかとベッドの上で眠りこける猫を思う。確かに人の手で髪を手入れされるのは、気持がいいものかもしれないが。
「それにお前が言うなってやつだ」
「……なんだよ?」
終わったぞ、と背中をたたかれてやっとドライヤーの風から解放される。髪を乾かしている間、人の背中に向かってずっと話しかけていたのか、不意に耳に届いた言葉に振り返れば「オメーがさ」と的を得ない言葉が戻ってきて困惑する。もう寝ろよ、と電気を消されておとなしく布団にもぐりこんだところで、見上げた天井の既視感に幽助は「あ」と声を上げた。
「どうした」
「いや、なんだろ、俺なんかここ知ってるなって思ってよ…」
「なーに言ってんだよあたりめぇだろ。オメーここにいたじゃねーか、死んでるとき」
ベッドの上から降りてくる言葉に「そうか」と思い至る。家が火事になって、しばらく体の置き場所に困って桑原の家においてもらっていたせいで、この家のにおいを知っていたのだ。それに先ほどの「お前が言うな」のその意味も。
背中を預けて戦うというのは、相手を信じてやるということで。そのためにも誰かがかけてはいけないのだ。もうあんな思いをするのは御免だ、とも思うし、自分が死んだとき、見たことがないほど取り乱して泣きわめいていたこの男の顔を思い出して思わずクスリと笑いが漏れた。
「笑いごとじゃねーっつうの。死んじゃねえって分かっててもありゃ心臓に悪い」
「あんだけ泣かれちゃ、もううかうか死んじゃられねえよな」
ここにいてもいいのかな、と少し楽になったような気がする気持ちを抱えて目を閉じる。一言二言、言葉を交わしたような気がするがやがて静まり返ってしまったベッドの上を恨めしく思いながら、眠ることもできずにただ睡魔が訪れるのを待っている。目をきつく閉じるほどに、自分の鼓動がうるさくなっていくような気がして、目はさえていくばかりで。
この気持はいったい何だってんだ、と幽助は枕に顔を押し付けたままため息を吐く。息を吸い込んだ拍子に桑原のにおいが喉に絡んで、またくらくらと意識が揺らぐ、気がした。



「あんだよ眠れなかったのか?」
結局明け方までまんじりともせずに過ごしてしまったせいで、生あくびを噛み殺しながら目をこすっていると、既に目を覚ましていたのかパジャマからとっくに着替えた桑原がベッドの上から顔を出す。「おはよう」とごく自然に投げかけられたその一言が、妙に気恥ずかしくて「おう」と酷くぶっきらぼうな声が出た。
幸いなことにそれを寝起きの悪さと取ってくれたのか、きちんとたたまれた制服が何も言わずに差し出される。のろのろとシャツに袖を通しているところで、なあ浦飯、と名前を呼ばれて目が合う。その鼻先に、ちゃらりと銀色の小さなものが音を立てて揺れた。
「もしかして、鍵ってこれか?」
「え、あっ、おまっ、これどこにあったんだ?!」
広げた両手の中に、ぽとりと落とされたものは印字の掠れたキーホルダーのつけられた小さな鍵で。それは見間違えようもない、昨日幽助が無くしたと思って青ざめたものだ。
「いや、悪ィ。俺昨日てっきりポケットの中全部確認したと思ってたんだけどよ。見落としてた見てえで、洗濯機の中に引っかかってたの、さっきお袋が見つけてくれたんだ」
「……いや、別にいいんだけどよ、見つかって良かったよ」
と、心底ほっとしたように呟いて、大事そうに鍵をしまう幽助を見て桑原は少し残念そうな顔をしてもう帰るのか?と引き止めともとれる言葉をかけてしまう。そんな自分に驚き、それほど安堵したような顔で鍵をしまう幽助の顔に、少し不安にもなり、振り向いた目が見開かれているのを見て「しまった」と本音の漏れた口を呪うがもう遅い。
「なんだよ桑ちゃん俺が帰っちゃうとそんなに寂しいか」
幸いなことに、目の前で着替えを済ませた悪友は一瞬の隙も見せずにニシシと笑うと、つかみどころのない顔をして鍵も見つかったし、もう平気だってと言った。そういう事じゃ、ねえんだけどな。なんて、正面切って言ってしまったらこいつはまた逃げるんだろうか。猫みたいに。
みゃあ、と細い鳴き声を上げて猫が布団に飛び降りる。まだ眠った後のぬくもりが残っているのか、気持ちよさそうに布団の上で身をくねらせる栄吉と、その腹を撫でてやっている幽助を見て少しうらやましい気もした。これくらいに素直に甘えてくれれば、甘えられれば、言葉一つに杞憂しながら臆病になる事もなかっただろうに。
「……なあ、今度は普通に遊びに来いよ。なんかオメー、用がねえと遠慮してんのか遊びにも来やしねえだろ。うちはこんなだし、別に気ィつかう必要なんかねーしよ…だから」
だから何だというのだろう。もっと会いたい、とかもっと遊びたい、とか。もっと一緒にいたい、とか。
「だってダチだろ」
その言葉も、どこか少し違うような気がした。が、一番気持に近い言葉をかけると、幽助は確かに少し戸惑ったような顔をしたように見えたが、少しうつむくと耳の先をほんのり色づかせて「ダチ」と小さくつぶやく。雨上がりにしたたかに花弁を残した、まぶしい桜色だ。
「しょうがねえなぁ、桑原くんは俺のことが本当にすきですね~?ま、また気が向いたら来てやるよ。だから今日はもう帰る、家の事ちょっとあるし」
「そうかよ。んじゃあそういうことに、しといてもらいますかね」
「素直じゃないんだから桑ちゃん」
「やーめれって」
ぐりぐりと脇腹をつつく幽助をあしらいながらも、何となくこのおちゃらけたポーズをとるとき、この浦飯幽助という生き物は照れているんだろう、ということが分かってきている。それは少しではあるが、この一日で得た大きな収穫な気がしていた。
「雨、止んだなー」
「スゲー晴れてる。あ、見ろよあっち、虹でてんぞ」
「まじかよ、ほんとだ、珍しいな」
カーテンを引き開ければ、一日の雨に洗い流された空はピカピカとまぶしいほどで、懸念していた桜並木もまだ十二分花見に耐えきれるほどのたっぷりとした花びらを雨露に輝かせている。道路に散り落ちた花びらも、まだ朝の時間で踏む者がいないのか淡淡とした絨毯を形作っていた。
幽助が差す方では、確かにうっすらと虹がかかりなんだかこの光景が奇跡か何かのように尊いもののような気がしてしまう。玄関先まで送ろうとした手を制し、「そういうのいいって」と照れ臭そうに頭を掻いた小柄な背中が見えなくなるのを窓際に立ったまま見送っている桑原は、少しの罪悪感に苛まれて、ばたりと敷きっぱなしの布団の上に四肢を伸ばした。
……本当は。
本当は制服のポケットに鍵が入っていることは最初から気付いていたのだ。
あそこで鍵を隠してしまえば、幽助は恐らく家には入れなくなってウチに泊まっていくしかなくなるだろう、とそう思って頭を擡げた考えに抗うことができなかった。
「ヒキョーな事、しちまったよなぁ……」
素直に泊まって行けと言って、それに甘えてくれるようであればこんなことはしなかったけれど。また来る、と笑って部屋を出て行った横顔を思い出し、いつか素直に謝れる日が来ればいいなと思ったのも。
一度なついてしまった猫が、どれだけ我が物顔でテリトリーを増やしていくかということを、猫飼いの桑原が失念していたはずもないのだが。
しょっちゅう部屋にあがりこまれては「少しは遠慮しろ」と軽口をたたきあう日が来るのは、もう少しだけ先の話だ。
庇からぱたた、ぱたた、と落ちる昨日の雨粒がまるで歌でも歌っているような。そんな気がした。

作成:2018年6月23日
最終更新:2018年6月23日
2017年の幽白オンリーに出した本のサルベージ

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