まもりのつるぎ

祖父の姿は、あまり記憶にない。
ただ父に連れられて向かった祖父の自宅では、表情少なく、いつもきちんと畳に正座をして「いらっしゃい」と意外なほど柔らかな声をかけてくれたのは覚えている。
正直、初めて祖父を見た時は怖かった。無口で無愛想。笑ったところはほとんど見たことが無く、いつも一人静かに座っていた。いつだったかそんな彼が、その昔若い頃に京都で沢山人を斬った、と一度だけ父が口を滑らせたのを聞いてしまった。
その時はただ、普段物静かで穏やかに見える祖父がそんなことをするものかと真に受けなかったのだけれども。いつもピンと伸びた背筋で、どこかまっすぐに遠くを見ている横顔。その眼が見据えるものが一体なんだったのか、彼が沢山人を斬ったというのは本当なのか、結局聞きそびれたまま祖父は十三年前に他界してしまった。


「節子ちゃんが皇室に輿入れされるそうだ」
手紙が一通。届いた。
ペラペラの封筒ではない、角の張った少し分厚い白い封筒を手に取った父は、片眉を跳ね上げると立ったまま封を切り、ぽつりと呟くようにそう言った。誰に充てるわけでも無いその一言は、封筒の仕分けをしていた自分の耳へも届き、すり抜ける。どこかで聞いたことがあるような、無いような名前だった。
「……節子ちゃん?」
父の手元の封筒には、うっすらと三つ葵の紋が透けて見える。思わず聞き返した声に、彼は難しい顔をしたまま「恆雄さんの娘だよ」と。手紙の続きを読み切ると、一つ息を吐く。節子、節子。聞き覚えのあるような名前を脳裏で半数しているうちに、父の先ほどまで眉間に寄せられていた皺は解け、何やら思案していた顔を上げると「實」と名前を呼ばれて背筋が伸びた。ああそうか、幼い頃多分会った頃がある、ような。
「はい」
「……ついてきなさい。探し物だ」
何を、と聞く前に父はさほど広くない家を奥へと進み、客間の物入れの襖をあける。年に一度虫干しと埃払いはするものの、普段開けられることもない押し入れの中は、一年前の空気がどんよりと淀んだまま猫のように丸くなって眠っているようだった。
と、言うのも不用意にこの押入れを開けようものなら幼い頃から雷のようなげんこつに撃たれてきたのを覚えているからで、年に一度の大掃除以外でここを開けようなどという気は、とうの昔に失せていた。ここには、祖父の遺品が仕舞われている。
恆雄さん、というのは父の学友であるらしい。父に連れられて幼い頃何度か顔を合わせたことがあるが、あまりはっきりしたことは覚えていなかった。父はその後も交流があるようで、時折手紙や年賀のやり取りを続けている。
ただ、今は桜も散ろうかという余花の頃だ。年賀を送るには遅すぎると言う訳で。
「父さん、それ……」
戸惑う自分を傍目に、父が押し入れから引き出したのは漆塗りの一抱え以上はありそうな大きな箱だった。中に入っているのは、刀、である。父が買い求めたものも無論有りはするが、祖父の遺品も多いと聞く。
行李の蓋をどけると、押し入れの中よりもさらに時代をさかのぼったような古い空気があふれ出す。それは祖父が生きたという幕末の空気なのだろうか。そんなことはありはしない、とは思うものの、暗く狭い箱の中でひっそりと息づいているような刀たちは、多かれ少なかれ人の肉を割いたものがほとんどなのだろう。
実戦をくぐっていないものも、試し切りで死人の体をなでている。
「柄巻きは濃い苔色、下げ尾も同じ、鞘は漆黒。はばきは銀無垢。鍔に三つ葵があしらってある。この中から探してくれ」
こちらの問いかけに答える事も無く、彼は箱の中から次々刀を拾い上げると、白木の箱を開けて中身を改め始めた。言葉少ななのは彼も祖父に似た為だろうか。溜息を押し殺して手元の箱を開く。いったいそれが、何なのだというのだ。




自分が居た場所と対比してしまうからなのは仕方ないとは思うが、京都にいたころから細いと思っていた体は、今や風が吹けば折れてしまいそうに見えた。
京の娘たちがこぞって持て囃していた、白く涼しい細面には、度重なる重圧と辛酸のせいか陰りが深い。ただ、瞳の奥に湛える光だけが当時と変わらず凪いだ湖面のように輝いていた。
「江戸……ではない、東京だな。こちらへ来ていたとは、またまみえる事が出来て余も嬉しい」
人払いをした部屋は庭に面していて広い。開け放した障子の向こうで、蝉がうるさく鳴いていた。
「夏の頃の京都は、熟れるばかりであったな」
蝉しぐれに時折混じる風鈴の鳴き声を耳に、風が頬を撫でていく。暑くはあるが、彼の言うような京都の熟れて腐り落ちていく果実のごとき、不快なものではなかった。はい、と下げた頭をゆっくりと戻し、数尺離れた場所に座る姿を眺める。髪にも、白いものが増えたなと思った。
「先の頃は、妻と自分の為によくしていただいて」
「……よい、よい。余としても喜ばしい事だ。直接、向かえずにすまなかったな、山口……いや、今は藤田、だったか」
婚儀の際、山川たちの尽力により上仲人として名を連ねてくれた容保だが、動けぬ身体であったため、祝いの祝詞と歌をつづった色紙を届けられたことを思い出し、斉藤は頭を下げる。本来ならば文を届ける事すら難しかったはずだ。恐らく、山川らが無理をして奔走してくれたのだろう。
「殿」
「もはや殿もあるまい」
「……容保様」
ああ、と唇が静かにうなずく。わざわざ呼び出してすまなかったな、と容保は傍らに寄せた箱を差し出した。
「蟄居の身故、なかなか出歩くのも難しくてな。……これを」
細長い白木の箱は斉藤も見覚えのあるものだ。開けて見よと促されて、かぐわしい檜の香る箱を開く。中には思った通り、一振りの脇差が収められていた。
「これは」
「婚礼の祝いもろくにしてやれぬでは心残りでな。余はもはや何の力も持たぬ、山口を守ってやることもできぬが、きっとその刀がそなたと時尾殿を守るであろう。……もはや、刀など何の役にも立たぬかもしれんが、それならばそれで良いのだ」
吸いつくような漆黒のさやを払えば、夏の日差しに濡れる白銀の刃が現れる。反りの深い身に、星を散らしたように輝く刀身は一目で大業物だとうかがい知れた。
「容保様しかし」
「収めてくれ。……それは余には不要の長物。それに、山口が持っているに相応しい。」
さぞかし値の張る代物だ。京都時代ならばともかく、警察に所属していて日本刀を振るうことは少なくなった自分には過ぎた代物だと、思わず声を上げた斉藤だが「近藤がな」と思いもよらない名前を耳にして、言葉を失う。
「近藤に与えた刀の、片割れなのだ」
「……局長、の?」
「池田屋の後であったか、……褒賞として、近藤に大小二振りの刀を与えるはずだったのだが、あやつは過ぎたるものだとな、こちらを辞退しよった。」
「本当ですか」
無類の刀好きの近藤の事、こんな上物を与えられて、辞退するとは思えない。とその顔を見て言いたいことを悟ったのか、容保が静かに笑う。
「池田屋はまだきっかけに過ぎず、これからまだ京は荒れるかもしれない。ここで二振りとも拝領してしまえば、自分は驕るかもしれないから、とな」
「……そのくせ、一振りはきっちり持ってかれたのですが」
「はは、それはな。……会津長道だ。良い刀だろう。余には良し悪しまでは分からぬが、会津の刀の中でも飛びぬけて美しい」
「三善、長道ですか」
大名が腰にするような刀だ。ただの警察官である自分の腰に収められるような代物ではない。
「返してはくれるな、余の心づくしだと思ってくれ」
「……ありがとうございます。」
鞘に納め、両手に掲げると恭しく頭を下げる。守られている、と斉藤は思った。確かに容保は今はなんの力も持たないのかもしれない。会津の藩主としての身分を失い、民を失い、多くの部下を失った。それでも、静かに歴史の行く先をまっすぐに見つめる瞳は、京都にいるころから斉藤の心のある場所としての支えであった。
それは、幕末という長い動乱を終えようとしている今でも、変わることなくただ静かにそこにある。
「いつか、……全てに区切りがついたら、この刀のお役目を終えたらお返しに参ります」
「そうか、そうだな」
……いつの日になるか、遠い未来なのか。けれどきっとその日が来るであろう、と近藤が遺し、容保が守り通した誠の意思を胸に、斉藤は静かに頭を下げた。
明治七年の七月。蝉時雨が、江戸から東京へと名前を変えた部屋の中を、二人の間を、うるさいほどに満たしていた。



「あった」
一つの箱を開いた瞬間、その刀は現れた。漆黒の鞘は飾り気無く、ただどこにでもあるような一振りの刀に見える。父の言うように、柄巻きと下げ緒が、地味な苔色をしていた。
「……ああ、これだ。間違いない」
箱から刀を拾い上げた父が、刃を抜き放った瞬間、思わず息をするのも忘れて視線を奪われる。月のような白銀の刃は、日の光の入らない薄暗い室内にあっても、煌々と光を放つようだ。刀の良しあしは分からずとも、ただただ美しいものだというのはうかがい知れた。錆びひとつないのは、父がこまめに手入れを欠かさなかったからだろう。刃こぼれひとつなく張りつめた刀身を鞘に納め終え、自分がずっと息を止めていたことに気付く。
「父が、……お前の祖父が大切にしていたものだ」
「お爺さんが、ですか」
「言伝を賜っていてな。……いつか、会津の汚名がそそがれた時、会津に守られるのではなく、再び守ることが許された時、これは会津に返してくれと」
それがどういう意味を持つのか、聞くまでもなく父が受け取った手紙の中へとつながるのであろう事がうかがい知れた。
「……輿入れに当たって、三善長道の大小を持参したかったようなのだが、会津にはあいにくもはや残っているのが刀しかないらしい。恆雄さんも、まさかうちに脇差があるとは思ってもみなかっただろうが、お前の五郎爺さんは、こうなることが分かってたみたいだな」
これ以上相応しい贈り物は無いだろう。と白木の箱に刀を収め直した父の口が、嬉しそうに笑っている。
「お祖父さんが、見ていたのはこういう事だったのでしょうか」
「なんだ?」
「いえ……」
客間に散らかった刀を行李に戻し、手紙の返事を書きに自室へと戻っていく父親の背中を見送り、仏壇へと手を合わせる。祖父が会津から送られた刀は、名誉を守り切り、会津へと戻っていくのだ。
逆賊の汚名を着せられた会津の姫が、皇室へと嫁いでいく。
(お祖父さんの見た未来が、やっと来ましたよ)
祖父の誇りを守り抜いた刀は、再び今度は皇室で、会津の守りとして大切にされるといい、と實は顔を上げる。
遺影の中の祖父は、穏やかな顔で、満足げに微笑んでいるように見えた。

作成:2017年11月16日
最終更新:2018年4月30日
藤田家に伝わった(と言われている)三善長道のお話。(三十一人会幕末史研究No.44の藤田家聞き書きより)
御輿入れの際に勢津子姫に贈られたそうです。会津から贈られた刀が会津へ帰った、そうだったらいいな、という思いを込めて。

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