あきついり、傘と、

その人は、いつも甘いクリームの匂いがした。
……その人は、いつも苦い珈琲の匂いがした。

「また、帰るのか」
見上げれば時計の針はもうとっくに真上を行き過ぎて、ふらふらと眠そうな足取りで日付の変わった深夜を歩み進んでいく。コーヒーカップの二つ並んだテーブルを綺麗に片づけ、シャワーを浴びて戻ったリビングで、きちんと綺麗に揃えられたガウンに袖を通していると、訪れた痕跡を一つずつ消すようにして宴の後始末をしていた彼は、今更、とでも言いたそうな顔を上げてにこりと笑う。
言葉よりも饒舌な切れ長の瞳は、柔和な光をたたえている癖にそれ以上言及を許さぬ力強さでもって淡く輝く。
「相も変わらず強情な男だな」
負け惜しみじみた憎まれ口もどこ吹く風で、
「それはわたくしからも申し上げておきましょう」
取り留めも無いやり取りを繰り返すのも、もはや何度目になるのだろうか。すでに諦めている芹沢は、手持無沙汰にテーブルに放ったままだった車のキーを弄ぶ。タイを締め、ジャケットの皺をきちんと伸ばして、まるでこれから出勤ですとでも言うような冴え冴えとした横顔に恨めしげに視線の一つも送りはするものの。
「そんなに見てらしても、帰るものは帰りますよ」
「大蔵ぁ」
思わず情けない声も漏れるというものだ。
ふふと再び柔らかな声で笑った男は月色の、まだ露を含んで重たげな髪を器用にまとめ上げてはらりと垂らす。髪の舞った先から夜が深々と降りる様だった。送っていく、と鍵を手に立ち上がる肩を押されてソファへと沈み込む。細腕に見えて、存外しっかりと筋肉を纏った体は、なめてかかると大変な目に合う、と言うのは短からぬ付き合いの中で思い知っている。
柔らかすぎず、体を支えるソファへぐっと体を押し込まれ、手にした鍵も取り上げられる。
「その恰好で外にお出になるつもりですか?」
言われてみれば洗い髪にガウン姿だ。酒は入れていないだろう、と苦し紛れに呟くものの、手の中から取り上げられた車の鍵は、白い指先でもって壁の鍵かけへと仕舞われてしまった。
「不経済だと思うが」
もうとっくに終電も眠りにつく時間だ。外からは夜更け過ぎに振り出した、秋の冷たい雨のささやきかわす声が聞こえている。
「そう思うなら、こんな時間まで引き止めないで下さいな」
タクシーを呼ぶために片手に持ったモバイルを軽く振って見せる伊東に、ソファーに押し込められた男は不満げに鼻息を漏らす。泊まっていけばいいだろう、とその言葉何度繰り返そうが彼が首を縦に振ることは無い。その理由を、決して口に出さないまま来た時と同じように軽やかな足取りで玄関へと背中を向ける。
「嗣司さん」
未練がましく後をついて歩きながら、玄関先で振り返った伊東の手に握られていたのは、傘立てへと差し込まれていた何の変哲もない黒い傘だった。靴を履きながら傘を軽く掲げた伊東は、お借りしていきますね、と小さく呟く。
「別にもってっちまって構わないぞ。大した傘じゃない」
普段車で移動するのが主な芹沢は、あまり傘をさす習慣がない。そのまま持っていけ、と好意のつもりでつぶやいた一言は、しかし涼やかな眉を顰められただけで終わり、言葉の先に隠れた表情に気付く前に呆れを含んだため息を零されてしまった。
「あ、いや……」
やっぱり、と慌ててつぎ足した言葉尻を端折られ、それなら遠慮なく頂いていきます。などと笑う顔はどこかひんやりと冷たい。自分の手落ちを呪いながら次の言葉を探しているうちに、靴を履き終えた彼はそれでは、と三和土に立ったまま軽く会釈をした。
「大蔵」
そのまま帰ろうと体を外へ向けた肩を引き留め、少し強い口調で名前を呼ぶ。何ですか、と肩越しに振り向いた顔をとらえると、言葉を乗せるために薄く開いた唇を捉えた。
「……ん、………ン、っ」
体温はそれなりに高いくせに、いつもひんやりと冷えた石のような唇をなぶり、別れ際の挨拶というには少し長すぎるふれあいに、切れ長の瞳を彩るまつ毛が静かに震える。それでも抵抗しないのは、受け入れている証拠だ、と逃げられないのを良い事に二度三度と舌と捉えたところで軽く頬をつねられてしまった。
「……嗣司さん」
軽くにらんで見せる瞳も、うっすらと張り詰める濡れた帳のせいで凄みはない。先ほどまで飲んでいたコーヒーの香りが、すっかり伊東の口の中へと消え失せた事に満足感を覚えながらにやりと笑って見せれば、一瞬目元に差した朱が耳の先へと抜けていく。
「こっちは返しに来てくれろよ」
すっかり濡れそぼった唇を指で拭ってやれば、手に持った傘で軽く、とは言えないほどの力で腹部を突かれ、深夜の玄関に鈍い悲鳴が響いた。


「……全く」
ほんの数日前までは、日が落ちても歩けば汗ばむほどの温度だったというのに。今はジャケット一枚を通しても微かな冷気が肌を刺す。傘を返す口実が、とんだ借り物になってしまった、とまだ少し熱を持ったような唇に触れてため息とも吐息ともつかない声を零す。
まだ一度も泊ったことのない家は、自分が踏みとどまる最後の一線のような気がしているのだ。そこを越してしまえば、一体どんな醜態を晒すのか自分でも分からない。
薄い、細い、頼りない壁であっても、芹沢との間には膜を隔てておくべきだ、と自分の本能が告げている。だのに。
「何を返せっていうんですか」
たたた、たたた、と傘を叩く雨の音。
店を終え、甘ったるいクリームの香りを纏っても、帰る時には芹沢の飲むコーヒーの気配に全て塗りつぶされていく。
溺れたくはない、と思った。対等で、あくまで隣に立っていたい、と。
そんな思いはただのくだらない矜持なのかもしれないが、あの清廉な、真っ直ぐな視線の先ではいつまでも背筋の伸びた、信頼に足る人間でありたい、とそう思ってしまう。
「……さむ」
モンブランを作ろうか、と傘を握る指を温めながらタクシーを拾うために大通りへと歩く。たっぷりのフレッシュクリームの上へ絞るねっとり甘いマロンクリームは、芹沢の好きなコーヒーによく合うだろう。

作成:2017年10月06日
最終更新:2017年10月06日
現パロで芹伊、という身内だけが楽しいやつ。
現パロ設定はあれこれ、そのうちちゃんとまとめたいところ。かっしはパティシエです。

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