グッナイベイビー

もしもおはようも言ってらっしゃいもお休みも、全部言えたならそれはとても素敵な事だと思ったんだけど、
そんなこと言ったらまた貴方は笑うだろうから、言わない事にしたんだよ。

だってもう、子供じゃないもの。












グッナイベイビー












「もう帰るのか」

てっきりもう眠ってしまったものだと思っていたから、気だるい体を起こしてもそもそと身支度をしていると、唐突にかけられた声に、俺は正直少し驚いた。
きちりと上から下まで、自分を守るための防護服みたいな黒いコート。重ったるいそれを肩からかけるとまるで馴染んだ毛布に包まれたような安心感に、漸く先ほどから落ち着き無くあちこちの皺を伸ばしていた指先が襟を掴んで止まってくれる。
とにかく、
とにかく早くこの部屋を出なくては。

「・・・帰る」

この別れ際のセリフも、いつも違って同じようなものだと思う。もう帰るのか、帰る。
別に黙って出て行けばいいようなものだとは知っていても、そのくせキリコも、BJも絶対にそうはしないことは分かっていた。
どうしてかと聞かれたら困ってしまうが、どうしてもとしか言いようは無いのではないか。この薄暗い部屋も、煙草のヤニの匂いが染み付いた壁の暗いのも、
そしてこの別れ際の言葉も、きっと酷く不安定なようで、けれど絶対に変わってはいけないのだ。と二人とも知っていた。

だってもう、子供じゃないから。

子供の頃、大人というのは酷く楽な生き物だと思っていた。自分の周りを変わらないように固めて、出来たその平穏の水槽の中で幸せを食べて、時々狭いガラスの中を泳ぎまわる。反面、子供は海の中に居て、いつも自分を守るのに必死だった。
けれど、今やっと手に入れたガラスの水槽はなんて脆いものか。
暖かい幸せの水槽から出たくない。キリコの部屋は、本当に暖かくて居心地のよい水槽に良く似ていて、でも帰らないと。自分のガラスを砕いてまでこの場所には居られないことは知っている。
大人の領域は、そんなに広いものじゃないもの。二人で入っていたら、いつか壊れてしまうだろう。

「お休みブラックジャック、次は何時尋ねてくるのだろうね」
「・・・そんなの、知らない、」

煙草で少し甘く掠れた貴方の声。
もっと聞いていたいと甘える自分を諌めるように、コートの襟をぴんと立ててドアノブに手をかけた。
この先に出てしまえば、きっと自分はこの男と先ほどまで一緒に居たことなんかすっきりと追い出してまっすぐ家へと帰れるんだ。背中を伸ばして、まるきり他人のふりをして。
この一枚のドアがその境界線だ。
時々、自分は二重人格か何かではないのかと疑いたくなる時があった。それは例えば、この鋭角的な線をしたこの灰色の男を・・・・数時間前まで共に温めていたあまり柔らかくも無いあのベッドを、
いくつも体に散った痣のような痕を、この扉を潜れば全て生活の外へと追いやってしまえることが一つ。この男にこんなに深く関わる前は、そんなことは・・・なかった筈だ。多分。

「泊まって行けばいいのに」

けど、なんでだろう。今日に限ってキリコはそんな事を切り出したので、今度こそ本当に、
BJはドアノブを捻る気力を無くしてしまった。いけない、と思っていたときには時既に遅く、きっちりと服を着込んだまま、ぽかんとした。
多分世にも間抜けな顔をしていたんだと思う。

「・・・そういう、顔も出来るわけだ」
「そうじゃなくて、何、急に変なこと言い出して、だから驚いたんだ。少し。」

そんなことを、なんだかキリコは嬉しそうに言うものだから、ますますドアノブを回すことなんて出来なくなってしまって。ああ、駄目だ。帰らなきゃいけないのに。
自分でもそれと分かるほどに動揺して、多分変なことを言っている。ちゃんと話せてない気がする。





もしもおはようも言ってらっしゃいもお休みも、全部言えたならそれはとても素敵な事だと思ったんだけど、
そんなこと言ったらまた貴方は笑うだろうから、言わない事にしたんだよ。





だってもう、子供なんかじゃ、

「だからってそんなに面白い顔をしてくれるからね。」
「・・・笑うなよ、笑うなったら」
「それは悪かったな、褒めてるのさ。・・・・例えばだよ、何を怖がってるのか知らないが、君は、もう散々この部屋に来てるというのに、そういう顔一つしてくれないからね。たまには意外性をもたせてみるのも・・・・面白いかと」

なんて事だ、と悲鳴を上げそうになってなんとかそれを飲みこっむと、取りあえずいったんはドアを開けることは諦めてBJはその辺に無造作に置かれた硬い椅子に、どさりと腰を下ろすことにした。
今まで、自分がかたくなに守ろうと躍起になっていたこの水槽を、キリコはいとも簡単に壊してしまったのだ。少し背中が薄寒いような気がして、身震いをする。
相変わらず楽しそうな顔のキリコを、ぶん殴ってやりたい感じだ。なんとなく。

「面白いって、そんな下らないことでこんな・・・」
「下らないって?こんなって、どんな」

混乱したような、その上酷く怯えたような赤い目が揺れて、暗がりでまるで猫のように光を放っていた。
キリコは、実に呆れる事だが、そんなブラックジャックは文句なしに綺麗だと思う。不安定で、いつもゆらゆらとしているこのBJの曖昧な色が、逆に内面の不安を汲み取って危い三角形の頂点で、ぴたりと動きを止めたような、そんな色。赤。
扇情的な、この目を見てから、いつ切り出そうかとソワソワしてすら居たのに、下らない事、だって!

「楽しんでるのか?私が、私がどんな思いでここを出てくか、知らないくせに・・・!」
「それは、高慢ってやつじゃないのか?・・・じゃあ、なんで俺のトコに来る、ここに来るのと出て行くの、来る時の方がブラックジャック、お前が望んでいるからじゃないのか」
「・・・・」

自信たっぷりに笑って、キリコは漸くベッドから半身を起こして膝に肘を乗せると、シガレットケースから煙草を1本抜き取った。吸うのではなく、骨っぽく細い指先で弄んでいる。

「本当、まさかお前がそんな子供みたいな事を言うなんて、思っても見なかったが、ね」
「子供じゃない!」





子供なんかじゃない。

泣きそうな声で、そういったBJこそが、本当は子供から大人になれないような、中途半端な立ち位置だったのは、多分本人が一番良く分かっていたのだろう。耐え切れない顔をして、俯いてしまった白黒の頭が、薄暗く温かい部屋のなかでかすかに震えていた。泣くのだけは、最後の一線で堪えていたようだけれど、大声で泣き出せればどんなにか楽だったろう。
酷い顔だな、とキリコは思った。

「おいでブラックジャック」

爪が手のひらに食い込むのではないかというくらい、きつく握り締められて白くなっている拳を解かせると、キリコはなんとか顔を上げさせることに成功した。
いくら部屋にはエアコンが付いていて、温度は暖かく保たれていたとはいえ、シーツから抜け出た不健康そうに青白い男の体は情事の後もそのままに肌寒かったのだが、今のBJの顔に比べればましだ、と苦笑する。
なんて冷たい、悲しい顔をしていることか。氷みたいに。

「触るな、ばか、・・・・キライ、キライだ」

弱弱しくこちらの手を振り払おうとする男は、脆く崩れそうな理性を必死で保って居るようだった。少々乱暴に、力強く手首を引いて立ち上がらせると、自分より一回り小さな体をバランスをとってやるように抱きしめた。

「はいはい、嫌いな?わかったから顔を上げたらどうだ」
「煩い、もう・・・触るなって、触るなって言ってるだろう!おちょくってるのかよ、私はもう、帰らなきゃいけないんだ」
「出来るのか」

ぎくり、と見た目にも分かるほどに肩を震わせた彼は、ぱたぱたと抵抗していたその綺麗な両手をだらりと伸ばして俺の腰を掴む。まるで、すがり付いているみたいだった。
唐突にまた、黙り込んでしまったこの男に、昔からこんなに・・・・こんなに弱かっただろうかと思う。いつでも凛として前を向いて、私を拒んでいたブラックジャックという医者は、一体どこに行ってしまったのだろう。

「ブラックジャック?」
「・・・・・・・・」
「・・・・ブラックジャック・・・、?・・・はざま」
「っ・・・・・!」

今度こそ、ぎょっとしたように大仰に震えてこちらを見上げたBJは、泣いていた。
綺麗に透き通って、こんな暗い部屋でもそこだけ妙に鮮やかな赤い色彩の瞳に、たっぷりと盛り上がった涙がぽろぽろと、ぽろぽろと零れ落ちる。

「キリコの・・・・ばかぁ・・・・」
「馬鹿で結構。」







もしもおはようも言ってらっしゃいもお休みも、全部言えたならそれはとても素敵な事だと思ったんだけど、
そんなこと言ったらまた貴方は笑うだろうから、言わない事にしたんだよ。









「お前は大人なんかじゃないな」
「子供でも無い」
「そういう生き物さ、医者というのは、特に・・・俺とお前は」

会話というにはあまりに断片的で、言葉というにはすこし繋がりすぎる。
普段、互いを拒みあうことでしか平衡を保てない二人は、いざ何かを伝えよとしても、こんなことしか出来ない。
だからセックスをしたんだ、と震える唇を指先でなぞる。
躍起になって涙を抑えようとするこの愚かな美しい男を、愛しいと思うほどには側に居ると、そう知っていたのだ。普段両極に居るからこそ、こうやって逢うのは俺はともかく、BJにとって、罪悪感とそして渇望した何かを俺に見ているかも知れない。
それが何か分からないほど、俺も耄碌はしていないし。

「泊まって行けよブラックジャック、何もとって食おうと言ってるわけじゃないだろう」

この大人でも子供でも無い不安定な男は、確かピノコとかいっただろうか、海の見えるあの家で待つ、家族の愛は手に入れているのだ。
それでも、家族の愛ではない、何か他のものを渇望している。だから、引き止めれば帰れないことは知っていた。多分、最初に寝た、あの日から。
けれどこの男は、深く関わってはいけない俺と繋がりを持つことを反面、とても怯えていたのではなかろうか。その罪悪感から逃げるように、生活が決してこちら側に傾くことの無いように、その均衡を神経質なまでに守っていた。
そして俺もまた、その均衡を壊せるのはBJではなく俺であると・・・知っていた。

「其れ、ジョークのつもりか?」
「・・・・確かに、じゃあ、言い直そうか。取って喰うから泊まってけ」

こつりと頭を軽く叩いて、背中を抱いていた腕をくと、
なんだか吹っ切れたようにBJが笑い出す。先ほどまで涙を零していた、濡れたままの瞳で、喉を震わせて。
こんな顔も出来たのか、とそのあまりに無邪気すぎる笑顔を見て少しもったいなくも感じたのは、多分、多分今までは硬く押し殺した表情しか見せてくれなかったからだろう。セックス以外では。

「ほら、笑うな。服を脱げ、もう一回喰ってやる」
「馬鹿引っ張るなったら、転ぶ!転ぶから、わぁっ!」

こんなふうに、いい年をした男二人でふざけあって、なんと馬鹿馬鹿しい事か!
馬鹿馬鹿しく愚かしく、愛しい事か。
きっちりと結んであった赤いタイを引くと、転がるように二人でベッドに倒れこんだ。まだ、少し肩を震わせて笑っているBJの涙は、泣いたからか、もしくは笑いすぎたからか、もう分からなくなっていたけれども。
とりあえず、幸せだと思って、どちらからとも無く唇を合わせた。

「・・・・ン、んん・・・・」

柔らかく重なった唇は二三度軽く啄ばむようなバードキスをしてから、口内を探り合って濡れた音とともにやがて離れた。
途端に変わる二人の表情、もう「食べあう」んだと決めた時の顔。

「泊まってく」
「上等だ、ブラックジャック」

小さく呟いたその言葉を、こんなに待ちわびていたのかと、女々しい自分に笑ってしまうけれども、頷いて服を脱ぎ始めたブラックジャックの顔が、あまりに穏やかで幸せそうで、優しかったから、










もしもおはようも言ってらっしゃいもお休みも、全部言えたならそれはとても素敵な事だと思ったんだけど、
そんなこと言ったらまた貴方は笑うだろうから、言わない事にしたんだよ。

でも



優しかったから、
もう一度裸になった体を惜しげもなく食べあって、お休みといって子供みたいにくっついたまま目を閉じた。それは、
とても素敵なことだった。

目が覚めたら、やっぱりおはようと言ってキスをして、ちょっと違うけど行ってきますをするんだろう。
子供じゃないけど大人でもない、



そんな関係で、いいじゃないか。

とても、素敵なことだから、貴方だから。






ねえ、優しい君。

作成:2005年2月05日
最終更新:2016年12月11日
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