低温火傷

「あなたは、恋をしないの?」
木漏れ日の気持ちの良い日だったのは覚えている。
その日も、黄金樹のどこまでも聳える枝の(ほとんど森といってもいい)下で、きらきらと雨のようにこぼれる光をページで受け止めていると、ふとかけられた声にそれが陰った。
「シフ」
本から視線を上げれば、栗毛の馬にまたがった美しい女の姿がそのまま影を形作っている。きつく結い上げた黒髪が、さらりと風に舞った。美しいだけではなく、強く、気高い。
そして何より、自分には無いものを享受し、謳歌している。ロキは少し、この美しい女戦士が苦手だった。だが、そんな態度はおくびにも出さずに声をかける。いたずらに手元を駆け巡った風が、彼の手の中でぱらぱらとページを弄んだ。
「……私が、なんだって?」
「恋をしないの?と聞いたの」
恋を囁くよりは戦場で勝鬨を上げる方をよく聞く、その声に以外なところを突かれてさしものロキも手を止める。聞き間違いかと目を丸くしたまま彼女を見上げるが、シフは小鳥のように首をかしげて微笑んだだけだった。
「いつも本を読んでばかりだから」
いたずらな微笑みはまるで無邪気な少女そのものだ。またがった馬の首筋を撫で、なだめていた彼女はロキの返事を期待したわけではないのか、眩しそうに眼を細めた。その視線は、彼の手元で羽ばたく一冊の本に落ちている。
本を読むことと、恋をすることがどう相反するのかと一瞬のうちに思考をめぐらせ、思い至る。
本の中で繰り返される甘い睦言のように、あなたは恋をしないの?と、おそらく彼女はそう言いたいのだろう。空想できることは実現できることなのだ、と言ったのが誰だったか忘れたが、常に実現の道を選ぶ彼女と、自分の中へ世界を作ることに安心を求めてしまうロキとではまず、感情の温度が違う。
困ったように羽ばたくページを抑えたロキは、「いや、」と曖昧に口ごもった。
「もったいない」
そう微笑む彼女が、いったいどんな顔で、声で寵愛を受けているのかロキは知らない。知りたくもない、と思った。
恋はしない。
恋ではない、だが、
きっと恋のようなものだ。
「これからソーと狩りに出るのだけれど」
あなたも来ない?
そう呟くのはシフの優しさなのだろうが、今のロキにとってはそれが苦痛でしかなかった。平生を装って「遠慮しておくよ」と辞退する。なるべく、何でもないように。彼女は残念だわ、とあながち上辺だけでもなさそうに呟くと、馬を引いて行ってしまった。
後姿が遠ざかり、その長い黒髪だけがロキの瞼の裏にくっきりと焼きつく。彼女のまたがっていた、馬の尻尾、と思った。艶やかな髪は日に透けずに、黒曜石のように鮮やかに輝く。
かつて自分がうばった太陽のような見事な金糸はもう無く、つややかな夜色の豊かな髪。それは、自分の醜い嫉妬が与えたささやかな復讐であったはずなのに、兄は、ソーはその髪が美しいと愛を囁く。
自分と同じ、夜の色なのに。
片方は甘い寵愛を受けることも叶わず、結局自分で自分の喉にナイフを突き入れただけだった。愚かだったと切り捨てるには、あまりにも間抜けな顛末だ。
恋はしない、恋はできない。
風は俄か、強くなる一方で、暴れる本を閉じるとロキは目を閉じて青々と揺れる波間に背中を預けた。瞼を透かせて、日の光がじんわりと眼球を温める。今頃、シフと兄は鹿でも追いかけているのだろうか、と思い、胸の奥に醜く蟠る熱に自嘲の溜息を吐く。これは嫉妬だ。
恋、など。許されよう筈もない。
それは、心にひどく焼きついた醜い火傷のようだ。




幼いころ、よく妙な疵に悩まされることがあった。
それは決まってソーと夜遅くまで語らい、そのまま疲れ果てて同じベッドで眠ってしまった翌日、ロキの体に現れるもので。
疵、というよりも痕と言った方がいいかもしれない。朝、疼痛に意識を引き戻されると、うっすらと腕や足、酷いときは顔にまでに淡く染めたように朱が差す。酷い痛みがあるわけでもなかったが、痒いような痛いような、どうにも落ち着かないもので良く掻き壊しては母に泣きついたものだ。
「あら、また腫れてしまったのね。痛いわね、可愛そうに」
むずがる自分を抱きしめ、母はよく薬を塗ってくれた。あるいは、魔法を。同じベッドで眠ったとしても、ソーの肌には何も現れなかったので、不思議には思っていたが長い間原因はわからずじまいだった。朝起きて、顔に散ったその痕を見て、兄はいつも花弁のようだと笑う。その無邪気さに幾分かは救われただろうか。あなたが花だと喜ぶのなら、そんなに悪いものでは無いのかもしれない、と。
それでもその花は、半日もたてばきれいに消えていたし、まだ幼く、話す事も遊ぶことも尽きなかった自分たちは、また夜遅くまで話し込んでは疲れて同じベッドで眠る事の繰り返しで。
あの頃はまだ、無邪気に寄り添って眠るほどにはお互い幼かったのだろう。いつの間に、寝所を分けたのだったか、ロキにはもう思い出せない。何十年前か、或いは何百年前か。
ずっと同じ背中を見て眠っていたのに、今彼の目の前にあるのは一人で温めるには広すぎる寝所。兄の寝所で、いったいどのような睦言がささやかれているかなど、考えたくもない。寝所を分けたのはもう、思い出すことはできなかったが、疵が体に現れなくなったのは確か、父の手による庇護だったはずだ。
「お前はまだ幼く、弱い。今は儂が守ってやれるが、やがては自らを守りなさい。」
ぐずる自分にそう、魔法をかけたのは父。それからはソーと同じベッドで眠っても、あの花の痕は現れなくなってしまった。兄は何も言わなかったが、ロキは少し残念なような気がした。
やがて、兄の寝所から出てきた女の首に同じ痕を見つけてロキは凍りついた。その頃にはもう、なにも分別がつかぬほどに子供ではなかったのだ。
「ロキ様……」
彼の視線に気づいたのか、その女(今となっては彼女が誰だったのかも思い出せない)は、はにかむように目を伏せ、足早にソーの寝所を去る。その首に、鮮やかな花の花弁を載せて。
まさか幼い時分に戴いたものが、それと同じ痣だとは思わない。だがふと昔、まだ無邪気に兄に寄り添っていた時の自分の姿を重ねて嫌悪したのもまた、確かで。
誰か居るのか?と、その時室内からかけられた声には黙ってその場を後にした。どんな顔をして兄に声をかければいいのか、わかるはずもない。わかりたくもない、胸の内にくすぶる奇妙な熱を押し込めたまま、ロキは溜息を吐いた。
あのとき、父神が自分にかけてくれた魔法は、まだ自分を守っているのだろうか。




ひりひりと、首が沁みるように痛い。
あのまま眠り込んでしまったのだろうか、どれほど時間がたったのかわからずに、まぶたを差す光に眉を寄せる。光から逃れるように上げた手が、柔らかく暖かい何かに触れて、ロキは驚いて声を上げた。
「目が覚めたな。ずいぶんと深く眠っていたようだ。俺が来ても身じろぎもしなかった」
薄く開いた視界の向こうで、光を背負った影が言う。眩しくて顔もよく見えないが、まるで子供にするようにこちらの額をぬぐう仕草と声にロキはかすれた声を上げた。
「兄、上……シフと狩りに行ったのでは?」
「行ったぞ。獲物はシフが持って帰った。ロキがここで本を読んでると聞いたから寄ったんだ、狩りは嫌いか?」
無遠慮な声が笑い、隣に腰を下ろす。歩いてきたのだろうか、いつも連れ歩く愛馬の姿は見受けられず、ソー自身も身軽な恰好だ。
「興味がないんだ。」
「本を読んでいる方がいい?」
ロキは変わらないな。
その声が優しく、ロキは口を噤んでうつむいた。あえて距離を取るべく離れているのに、この男はいつも簡単にその線引きのなかへと入ってくる。それでも突き放せないのは自分の弱みなのか。無意識に閉じたはずの本を探していると、彼の手の中にあるのを発見する。
「返してくれ」
「本の中の方がお前を魅了するのだろう、少し妬けるな」
そんなにおもしろいのか?と兄は無邪気に笑っているが、その一言にロキが動揺したことを知らない。妬けるのか?だって?と彼は面食らって言葉を失う。
一体この男は何を見ているのだろう。どれだけ焦がれてても、一番近くにあって、一番遠くにある。妬けるなどと生易しい言葉でくくれるものか、と。
その感情を味わいたくなくて、狩りも断ったというのに。
「ああ、面白いね。狩りに行くより本を読んでいた方がいいんだ、私は。ほら、わかったならその本を返して」
思わずつっけんどんな声がこぼれてロキは内心舌打ちをした。これではまるで子供のようだ。
「何を怒ってるんだ」
案の定ソーは困惑した顔でこちらを覗き込んでいる。怒ってるわけじゃない、とロキは息を吐いて取り繕った。ぬるい風が心地よく、並んで座った草原を静かに波打たせていく。香しい黄金の苹果の香りと、日の光をたっぷりと吸い込んだ兄の髪が眩しい。目を細めていると、ふとわらったソーの手が首に触れて思わず肩をすくめた。
目覚める前に微かに感じた痛みが呼び起される。
「それ、父上からお借りしている本なんだ。汚して返すわけにはいかない」
しっとりとした緑の革表紙に、繊細な金細工で美しいつる草模様が箔押しされた本は魔法書だ。幼い頃、父の本棚で見かけては強請って見せてもらっていた。もう少し大きくなったら、きっとこの本棚はお前の役に立つだろう。その言葉通りに今はロキも自由に持ち出して読めるようになっているが、あくまでこの本は父オーディンのものだ。汚して返すわけにはいかない。
相変わらずの兄の片手は首筋に添えられていて、暖かく乾いた手のひらが、首筋を撫でている。
昔から彼の親愛の示し方なのか、それがソーの自分への癖だというのは知っていた。じわりと少し高い兄の体温を受けて、緊張がほぐされていく。先ほど感じた痛みは何かの錯覚なのでは、とロキは思った。
「じきにあの大量の本は俺ではなくてロキのものになるのだろうな」
「……どうかな」
「俺はムジョルニアを、力を父上から受け継いだ。ロキ、お前は頭がいい。父上の知性を受け継ぐのはきっと俺ではなくてお前だろう」
「私のものは、初めから何もないよ兄上」
ソーの手から本を受け取りながら微笑めば、彼は何故だと怪訝な顔をする。その純粋さに、ロキは苦笑した。何もわかっていないんだな、ソー。その言葉は声にはならずに、喉のなかに蟠るだけだ。
「私の物になるものは、一つもない。私は父上のものだからだよ。父上から授かるものは、いつかお返ししなければ」
自分が兄とどこか違うのは、幼いころからうすうすと感じてはいた。だがそれが何なのかは、未だにロキ自身わからずに居るのだ。そのいら立ちを兄にぶつけるのは、間違っている、とも。
「何故だ?なら、俺もムジョルニアを父上から『借りている』だけだというのか?」
「……兄上は多分、違うよ」
「違うとは何が、俺とロキは違うことなど何もないぞ」
それでも違うんだ。
と、手の中にある本の表紙を撫でる。父の本、父のもの、自分もまた父の所有物だ。正当な王子としてアスガルドを継ぐべく生まれてきたソーと自分はどこか違う。父も母も兄も、自分を愛してはくれているが(そしてまた自分も彼らを愛してはいるが)、根底に蟠る違和感まではぬぐえなかった。
「私は本当にソーの弟なのかな」
「何を言ってるんだ」
本当に驚いた、という顔をするものだからロキ自身も何を言ったのか忘れてぽかんと口を開く。何か、取り返しのつかないことを口にした、ような。首に触れたままの手が微かに震えて、ちり、と痛みが走ったようだった。
「……何でもないよ、忘れて」
口をついた言葉はもう、取り消しようがない。それでも静かに立ち上がったロキを引きとどめることはできずに、つられてソーも腰を上げた。この場所は、いつもロキが気に入って本を読む場所だ。
王宮からは黄金樹の陰になって見渡せないが、この場所からは煌びやかな父神の御簾が見て取れる。もっとも、父の目をかいくぐることなど、この国にいれば不可能だろうがロキはこの場所が気に入っていた。
一人に、なれるような気がするからだ。
誰よりも愛情を欲しているくせに、いざ手を差し伸べられるとまみれる罪悪感は何だろう。幼い頃は感じてもみなかったのに、今は兄が隣にいるだけでひどく胸が傷んだ。
(――ロキは恋をしないの?)
出会いがしらにシフの放った一言が、まだ脳裏に刺さったまま離れない。恋ならしている、とおもった。
誰よりも長く、誰よりも近くにいた。
多分、兄に抱く感情を愛情の一言でくくらないのならば、きっとこれは恋だ。
「ロキ!」
そんなこと、どうやっても伝えられるわけはないだろう。兄の相手はシフで、その夫に自分が恋をするなどと、そんなバカげた話はない。
もう忘れよう、忘れられずとも、感情は薄めてしまえば『慣れ』になる。そうやって今まで生きてきたのだ、だからきっと大丈夫。と、足を速めた先に名を呼ばれ、手を引かれる。振り向けば複雑な顔をしたソーが言葉を探しているようだった。
「何、兄上」
「どこか、調子が悪いのか?顔色が悪い、今日はおかしぞロキ」
「……どこも悪くないよ。早く帰ろう、女性に獲物を持たせて帰るだなんて兄上らしくもない。シフいまごろカンカンだぞ」
無論、シフは自分を気高い戦士だとわかっているからこそ、女性としてではなくまず戦士として対等にソーに振る舞う。それはわかっていた。そんなことで怒る彼女だと、ロキも信じているわけではない。
「そうかな」
「どうしたのは、兄上の方だろう。シフを放り出して来たりして。」
「兄が弟を心配してはいけないか?」
この男は。
凄烈な青が、静かにこちらの目を覗き込んでいる。逸らしたいのに逸らせない、いつだったか父の鏡で見た、ミッドガルドの美しい蒼だ。
思わず言葉を失って足を止めれば、それにつられてソーも足を止める。その目は、からかいでもなく真摯にこちらを思いやっているのは、わかっていた。兄はそういう男だ。
まっすぐで、暖かく、人を疑うよりは信じる方を選ぶ。
「俺はロキが心配だ。最近のお前はちょっと変だぞ」
「……どこが?」
「何故俺たちを避ける。最近は一人で本ばかり読んでいる。いや、昔からだが、最近は特にだ。顔も併せない日が増えた」
「兄上の、気のせいだ」
ロキ、と背中で呼ぶ声を振り切って王宮へと足を速める。首がまだ少しひりひりと傷むようで、たちまち憂鬱に苛まれた。全部見透かされていたような悔しさと、気にかけてくれることへの喜びで、どうにかなってしまいそうだ。
「あら、ロキ、どうかしたの」
父へ本を返さなくては。急ぐ足で彼の部屋へ向かう途中、柔らかな声に足を止められる。母上、とそう呟く先から彼女の手はロキの髪を掬うように首へと触れていた。思わず首をすくめると、心配そうな顔をしたまま「痛むのかしら」などという。痛む?怪訝な顔で首をかしげると、疵が、と母は言った。
「…きず?」
「ええ、首のところ、赤く腫れているわ。どうしたのかしら、何かかぶれるものにでも触ったのかもしれないわね。このところはこんなことは無かったのに」
母の手は優しく、戸惑うロキをよそに手際よく首をいたわり、魔法を施した布で包まれていく。目覚める前、首に感じた痛みは錯覚ではなかったのかと驚く。兄が、……ソーが触れた首だ。
「何かあったのかしら?」
「いえ、……何も。虫にでも刺されたのでしょう。母上が心配することなど何もありませんよ」
貴方は優しい子。
もうとうに母の腕に収まる子供の体ではなく、彼女の背丈も追い越してしまったというのに、フリッガは子供の頃と変わらぬ甘やかな声で微笑み彼の体を抱きしめる。大丈夫、私とお父様がロキを守ってあげますからね。幼い頃に泣く自分を抱いて、そう笑ったのと寸分変わらぬ仕草で。
「母上、私は……」
どうしてソーと同じにはなれないのでしょう。
そんな問いかけはばかげている。どうしたの、と首をかしげる母に何でもありませんとかろうじて笑って見せたロキは手の中に収めた本を見せた。
「父上にお借りしたのです。お返ししないと」
「ならこれはわたくしが。あなたはソーを手伝ってあげて。猪を取ってきたの。大きな猪よ。解体して皆に振る舞うのだと張り切っているわ」
「……わかりました、母上がそう仰るのなら」
魔法書を彼女に手渡すと、言われるままに背を向けて兄のもとへと向かう。
首に巻かれた包帯は、無意識のうちにロキの手によってむしりとられていた。回廊でふと鏡に映ったその首に、確かに薄く巻きつくような紅い痕を見つけてしばし足を止める。
それは、確かに手の痕そのままのように見えた。
「ソー、お前は」
窓から投げ捨てた包帯は、風に煽られて奇妙な蛇がくねるように視界から遠ざかる。消えてしまう、と思った。首の痕はきっと、ソーの付けたものだ。
どうしてだかはわからない、けれど幼い頃にロキを悩ませていた奇妙な痕も、決まって彼と同じベッドで眠った日に現れるものだった。
消えてしまう。
すでにフリッガの手によって治療され、痛みもかゆみもないそれは、鏡を見ている間にも少しずつ色を薄めて消えつつある。その痕に手を触れて、ロキは足早に広間へと向かう。
消えてしまう、兄が、
――ソーが残してくれた痕なのに。






「ソー、彼が目を覚ましたようだ」
ニューヨークに深い傷跡を残した激戦から一日。
コズミックキューブの次元転送能力のみを解放する装置を作る、とそう息巻いたセルヴィグは自分なりに責任を感じていたのだろう。彼の言葉に甘え、半壊の憂き目にあったスタークタワーに身を寄せていた彼らは、S.H.I.E.L.D.から借り受けた簡易ケージにその元凶を封じることに成功していた。
とはいえ、もはや彼に抵抗の意思はなく、うまくダメージも回復できていないのか無防備に昏々と眠り続けていただけだったが。
慌てたように部屋に顔を出したのは監視を買って出ていたスティーブだった。よほど慌てて飛んできたのか、髪がひよこのように毛羽立っている。ロキが目を覚ました、本来ならばわざわざ知らせるほどのことでもないはずだが、それでも律儀にソーに知らせるあたりに彼の人柄が見て取れる。
「ロキが?」
「ああ、先ほど……とはいえ、大分衰弱しているようだから、いつまた眠りに落ちるかわからないけれど」
話すかい?
と、そう持ちかけるのも彼の優しさなのだろう。兄弟とはいえソーもロキもこの星のものでは無い、短い間とはいえ共闘し、仲間を信じた彼なりの誠意を見て取り、ソーはすまないと笑った。
「何なら、監視を付けてもらってもかまわん」
「……いや、監視ならここのビルのセキュリティだけで十分だろう、」
そうなんだろう、スターク。
振り返る先で、のんびりとくつろいでいたこの城の主は、視線もむけずに手を上げただけで、彼は彼なりにこの事態に落ち込んではいるようだ。先ほどから手にた端末から顔も上げていない。
「まあ……そういうことだから。僕たちは関与しないよ、ゆっくり、話をしてくるといい」
おっとりと笑ったスティーブと入れ替わりに部屋を出る。足早に向かう先はロキの隔離されている簡易監獄だが、監獄といっても少し頑丈に作られた部屋に監視を付けているに過ぎない。ロッドを取り上げ、武装を解除したロキに、アベンジャーズとS.H.I.E.L.D.の監視を掻い潜って出ていくだけの力はもはや残されていない、との判断だったが。お互い、酷く消耗していたのは確かで。
文字通り一人で全面戦争に突入せざるを得ない状況になったロキは、もう少しの抵抗力も残されていなかった。チタウリにさえ、いいように斥候にさせられた。その状況を彼は分かっていて赴いたのだろう。
弟はそれほどバカではない、と青白い顔をしてそれでも笑って見せるロキを見下ろし、ソーは苦々しく唇を噛んだ。彼をここまで追い詰めてしまったのは、まぎれもなく自分だ。
あの時、最後まで手をつかんでやれなかったことを、ずっと後悔してきた。
今更、すべて遅すぎたのだろうか。
「……とうとう、裁きを下しに来たのか、ソー」
少し髪が伸びた。
いざ向き合うと、かけるべき言葉が見当たらずに、部屋の隅で手負いの獣のように丸くなったままのロキを見ろす。最後に見た彼の顔は、まだすがるべき希望を探していたのに、今こうして対峙する弟はまるで別人のようにも見える。
「違う、そうではない」
突き放す言葉も冷たいものだ。皮肉に笑った彼は、首を傾けてこちら側を見てはいるが、その視線に温度は感じられない。手を伸ばしても、触れる前に叩き落されるのが関の山だろう。
「ロキ、俺はお前に謝りたくて」
「謝る?」
音もなく立ち上がったロキは、静かに歩みよる。形ばかりの鉄格子の向こう側、手を伸ばしてもぎりぎり届かないところに立ち止った彼は、ふ、とこれ以上ないくらいの柔らかい笑みを浮かべて「何を?」といった。
「ソーが私に謝ることなど、何かあったかな」
言葉とは裏腹に、その声はひどく冷たい。ロキ、と苦しげに声をこぼしたソーは鉄格子を握って首を振った。
「俺は、……あの時お前の手を放してしまったことを、悔いて、」
「ああ、なんだ……そんなことを、今更」
「今更、だと?どれだけ俺が、父上が……心配したと!」
「変わらないな」
愚かなほどに。
「言葉を返すようだが、それこそ父上が悲しむはずがないというのは、もうわかっていることじゃないのか?」
何を、と言いかけた言葉を制してロキの静かな瞳が一瞬、燃えるようにひらめく。静かな緑から、それを焼き尽くすような緋色へと。美しいともいえる変化を見せた一瞬にソーは思わず声を飲んだ。
父からの懺悔、絶対ともいえる父神からの唯一の罪の告白は、ソーの心を酷く混乱させたことだ。ロキの出生の秘密、そして何より、弟が一人でひどく苦しんだであろう事実。
それを知らぬまま、彼の手を放してしまった。
手遅れだ、とそう言った彼の眼はそのまま救いを求めていた。と、身勝手かもしれないが彼はずっと思っていた。だから、今度こそ手は離さないと誓ったのだ。
「お前は、俺の弟だ。父上もまた、何があろうとお前の父に代わりはない」
「私も、もっと早く気付くべきだった」
鉄格子の向こう側で、必死に「こちら側」に戻ることを訴えるかつて兄と呼んでいた男。今も自分を弟だと信じている男。
微笑みかけて歩み寄れば、彼はあからさまに安心しきった顔で手を伸ばす。幼い頃からよく、してくれたように大きくて暖かい手が首に触れて、撫でて。兄上。
「……ッ」
手が、探るように首へと触れて引き寄せる。
「ロキ、俺と一緒に帰るんだ。罪を償い、またやり直せる。」
その手が触れた場所に走る、鈍い痛みに声を殺して微笑む。肌を焼く音、異変に気付いたのかソーは驚いたように目を見開き、自分の手を見つめる。手を放した場所には、その手の形そのものに赤く爛れたロキの肌。
わかっただろう、と彼は笑う。
「私はアスガルドの子ではない。……この身を守っていなければ、触れられることすら叶わない。…知っていたか?幼い頃、よくソーと眠った後に火傷をしたな。そういうことだよ。」
「ロキ、嘘だ」
「嘘じゃない」
この身を守ってくれていた母も、父も裏切った。
一番そばに居たいと願った兄も裏切った。
「戻っても、私を待つのは裁きだけだろう。ならばせめて、……ソー、お前の手で私を殺せ」
ひきかける手をつかみ、呟いた一言はこの上もなく甘く、優しい言葉だ。ロキにつかまれた手を振り払うことも叶わず、ただソーは傷ついた顔で首を振る。だめだ、とはっきりとした拒絶。だがロキもひるまない。
「自分の手を汚したくないからか?そうだな、私にはその価値もないと、そう、」
「違う!お前は、お前は罪を償うんだ、逃げることは許されない、王たるオーディンの子だからだ。わかるなロキ、俺も、お前も王の子だ。やり直すんだ。どんなに時間がかかっても、死は逃げることに他ならないからだ」
今度は髪の上からその手が首へと触れた。
説得するソーの方が泣きそうに見えるのは何故だろう。ロキは幼い頃、よく自分が泣くとこうして兄が慰めてくれていたのを思い出した。大丈夫、大丈夫だロキ、兄上がお前を守るから。
その守られていた手で、今度は滅びを望むのはわがままだろうか。
「……ソー、キスは?」
「……ロキ、だめだ」
触れればお前は傷つくんだろう。
あれだけなぐり合ったというのに、おかしな話だ。構わないと手を引けば、兄は幼い頃によくしてくれたように、頬へ、額へと唇をのせる。肌が触れるたびに、魔法を解かれた体は微かな痛みと微熱を伴って震えた。きっと彼が触れたところから肌の奥へと、ゆっくりと疵が刻み込まれることだろう。
優しい、火傷のように。
「愛しているよ。誰よりも」
嘘偽りのない言葉は、以前より何度も確かめ合ってきた言葉だ。だが、その一言に兄が深く傷つくのもまた、わかっていた。愛情を求めるように、その手で終わりを求める。彼が顔を引くよりも早く、一瞬触れるように唇をのせた。
間近で見るのは、美しい蒼い色。その色を、ずっとほしいと思っていた。その色によく似た蒼は手にしたが、代わりになどならなかったのだ。そんなことは最初からわかっていたはずなのに。
「ロキ、俺は」
「早く口をふさがないと魔法をかけるぞ。ソー」
戸惑うままの手に触れて、やがて口をふさがれる。恋ならしているよ、と目を閉じてロキは笑った。ずっと昔から、叶わない恋をしていた。じりじりと肌が焼き付き、痛みを訴えても背中に回した腕を放さずに、かすれた声で「兄上」と呼んだのは。
…ソーの空耳だったのか。
もうこれで痕は消えない、と鉄格子ごしの抱擁を受けてロキが幸せそうに笑ったのを、ソーは知らない。








セルヴィグの邁進は目を見張るものがあり、自身の自慢の居城を半壊させられたトニーと、半ばスタークタワーに拘束されて暇を持て余したバナーの助力もあったせいだろう。一日とたたずにキューブの運搬ケースは出来上がっていた。
ケースの完成を受けて、釈放されるロキもおとなしいもので、しおらしく護送されるままになっている。とはいえ、
「……なんだそれは」
ニューヨークのど真ん中。封鎖された広場の中央に引き連れられたロキには、両手に手錠をかけられ、なぜかは分からないが口枷がはめられている。
おとなしくしている彼とは裏腹に、こんなものは必要ないだろうと首をかしげるソーに「そうかしら」といたずらな笑みを向けたのはナターシャだ。
「必要かと思ったのだけれど」
「何故だ?ロキにはもう抵抗する余力はないと、わざわざ断言までしたのはお前たちだろう」
「あー、ナターシャロマノフくん、それについては」
わざとらしく咳払いをしたのはスタークだ。誤魔化すような仕草に首をかしげ、くすくす笑いを隠そうともせずに、ナターシャは怪訝そうな顔をしたままのバートンへとなにやら耳打ちをしている。
「……ああ、そういう」
「案外、やるものよね」
などと、そのままにしていればなんらそのあたりのカップルと変わるところもない殺し屋たちは、仲睦まじく笑い合っているが。
「それ、S.H.I.E.L.D.製なのよ。ちょっとやそっとじゃ外れないだろうから安心して」
「……それではどうやって外せば?」
「さぁ?王子様のキスかしら」
がしゃん、と音を立てて運搬ケースが車のトランクに落下する。おい、気を付けてくれ!と青ざめたセルヴィグの言葉に、スタークは軽い調子で謝ってはいるものの、その手つきは怪しいものだ。
そして何より、平生を装ったロキの耳はかわいそうなほどに赤い。ナターシャはあらあら、とほくそえみ、その態度には気づかない…ふりをした。
「それでは皆……世話になった」
思い思いの短い挨拶を済ませ、異世界の王子たちは光の柱の中へと消えていく。よく晴れたニューヨークの空だ。あれだけの事件があったのに、明るく、平和でまるでいつもと同じの一日の。
「帰ってしまったね」
眩しいまでの光を見送り、ぽつりとつぶやいたバナーは、穏やかな顔でそう言った。ああ、やっと終わった。一仕事を終えたスタークも、やれやれといった風体だ。
これから、皆思い思いの日常(と、呼べるのかわからないが)に戻っていくのだろう。
「ソーたちは、大丈夫だろうか」
急に現れて、そして去って行った彼ら。天を仰いだまま眩しそうに呟くスティーブに笑い、大丈夫でしょう、とナターシャも呟く。
「あの二人なら、たぶんね」
そうでしょう?
と、からかうように視線を向けた先では、相変わらず気まずそうな顔をしたスタークが「まあ」と煮え切らない返事をしていたけれど。
こうして、戦士たちは束の間の日常へと戻っていく。戻れないものも、失ってしまったものもある。それでも、
前に、進まなければいけないのだ。
平和な空に向かって、彼らに向かってナターシャが「お幸せに」と無責任な祝福を投げたことを知っているのは、おそらくナターシャとバートンだけだけれども。

作成:2012年12月29日
最終更新:2016年12月11日
アベンジャーズの公開後、気が狂ったようになって出した突発本でした。
この時点ではまだソー3は公開されておらず、どうなることやら…。ロキちゃんには幸せになってほしい一心です。

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