能ある鷹は姿を偽る

少し焦げたスクランブルエッグをトーストに乗せ、皿に余った卵の香りのするバター液はパンの耳ですくって口に放り込む。

「アスラン!遅れるぞ、いいのか?」

だいぶマシになったほうだ、今日は上出来、と少し砂糖の入れ過ぎのような気もする牛乳コーヒーを流し込み、キッチンから慌ただしく響く声に彼は頷く。最初、気恥ずかしそうな顔をして、炭化した物体を皿に載せていた彼女の横顔を思い出したといえば、その手に持ったフライパンで後頭部をスマッシュされかねないが。

「もう出るよ、ご馳走様、おいしかったよカガリ」
「それなら良かった。午前中は隊長さんの所なんだろ、一人で大丈夫か?私が送って行こうか」

タイが曲がってる、と玄関まで追いかけてきたカガリは片手にフライ返しを持ったまま、眉を寄せてこちらの襟元のネクタイと格闘している。堂に入ったというよりも、まだどこかままごとじみて感じるのは、自分たちがまだ未熟だからだろう。

「大丈夫だよ、子供じゃないんだから」

キラならともかく、と声に出しそうになってアスランは苦笑した。
それこそキラが聞いたら「いつまでも子供扱いしないでよ」と頬を膨らませて拗ねるのだろう。双子であるカガリとよく似た、中性的な丸い頬は成長するにしたがってやわらかさを残したまま、青年の空気をまとっていたけれど。それでもあの、子供のような顔をして。

「お前、ほっとけないからな…気をつけろよ。あと、隊長さんにも宜しくって」
「もう隊長じゃないんだけど、伝えておくよ」

これでよし。バターの香りをまとった指が離れていく。
玄関の鏡で首元を確認すれば、彼女のぎこちない手で整えられたネクタイの、少し大きな結び目が気恥ずかしそうにしていた。手をかけてきゅっと締め上げ、靴を履く。ほんのりと玄関まで漂う香ばしいかおりは、彼女の分のフレンチトーストだろうか。

「じゃあいってきます、夕方前には帰るから」
「ああ、気をつけて。」

頬に落とされるキスにもまだ慣れない。いつまでも、子供同士のようにぎこちないキスを交わし、アスランは思い出したように玄関先で振り向いた。

「…ところで、キッチン大丈夫なのかい」

香ばしさが焦げ臭さに変わったような気がして首をかしげれば、
悲鳴を上げたカガリは明るいひまわり色の髪をはねさせてキッチンに駆け戻って行ってしまった。
キッチンからかすかに聞こえる失望の嘆きは、フライパンに残った昼食の無残な姿に向けられたものだろうか。
その姿を思い浮かべ、微かな苦笑を零して彼は玄関を潜る。やっと手に入れたささやかな幸せを、この先守って行くために。





「お、坊主ー、いらっしゃい」

ドアベルを鳴らそうと手を上げた所で、タイミング良く内側から開かれたそれに、彼は危うく鼻先を強か打ちつけるところだった。
差し出しかけた手を止めてドアを避けるようにつんのめる。丁度人差し指のまん前に顔を出したのはこの家の主人ではなかった。少しくすんだ癖のある金髪を揺らし、にゅっと飛び出した顔は自分よりふた周りほど上。人懐っこい笑顔は変わらずに、新聞を取りに行く所だったのだと謝った彼は足取り軽く青年に道を譲った。

「ラウー!お客さんだぞ」

午前の光に透ける、ラフな白いシャツに、目の覚めるような青いチョーカーが眩しい。
耳を打つ甘い声に、思わずぼんやりと見とれて居ると、彼は隣をすり抜けて玄関を出て行ってしまった。元気のいい足取りで玄関先に放り投げられた新聞を取りに行く背中を傍目に、アスランは譲られた玄関へと向き直る。こぢんまりとした一軒家は、決して広いものではない。
それは、かつては自らの上司で、白面の鬼とまで言われた強さを誇るエースの栖だなどとにわかには信じたいものだ。淡い色彩でまとめられた室内は目に優しく、所々に細かな傷やシミが残っている。昔この家に暮らした人々が残した痕跡のようだった。
物に頓着しない彼は、中古の家を買い取っておおよそ物欲とは程遠い生活を送って居るらしい。今は監視の目や、時々やかましく嘴を挟んでくる軍の上層部を適当にあしらいながら、時々頼まれるだけの原稿を書いて生活を送っている、気ままな年金暮らしだと嗤った、電話越しの少しノイズ交じりの彼の声を思い出す。
あの時はまだ、自分はさまざまな事後処理に翻弄され、ゆっくりと彼の声を聞いている暇も無かったのだ。記憶の片隅で風化しかけた声に、わずかな後ろめたさを感じながら「こんにちわ」彼は伺うように玄関の奥へと声を投げる。

「ああ、アスランか、いらっしゃい。」

戻ってきた声は、電話越しに交わしたものとは違い、しっとりと優しく湿ってアスランの耳を満たす。
しばらく前までは散々聞いてきた筈の声は、どこか懐かしく、遠く、肉声なのに現実味を見失って一瞬戸惑う。それはその声が、彼の記憶にあるものと違うような、そんな気がしたからかもしれない。
声に誘われて玄関を潜れば、人がすれ違うのがやっとといった狭い廊下の向こう、自然光が照らすに任せて柔かく滲んだリビングで、その家の主はゆったりと椅子に座って本を読んでいた。
甘そうな淡い金色の髪が、大きな窓から零れる朝日に透けてきらきらと光の粒をまとっている。
声は、
その声は、
泣きたくなるほど懐かしい物なのに、彼の知る当時の、硝子のような危うさは微塵も感じられなかった。少しでも触る場所を間違えれば指先を切ってしまうような。
張り詰めた緊張感はみじんも感じられない。違和感を感じたのはそのせいかもしれなかった。彼のもののはずなのに、自分の知らない彼の声。
柔らかな響き、
指を挟んだ本をサイドテーブルに伏せた彼は、椅子を示して着席を促した。アスランは一礼を返すと彼の進めた向かいの椅子へと腰を沈める。

「お久しぶりです、クルーゼ…隊長」

ラウ・ル・クルーゼ。あるいは、今はラウ・ラ・フラガと言った方が言いのだろうか。
かつてザフトのトップエースとして君臨した彼は、戦後どういうわけかフラガ家へと引き取られて戸籍を移したらしい。
らしい、というのも彼の口から直接聞いたわけではないので、確証のあるものではないが、実際にフラガ家の嫡男である、元連邦の「エンデュミオンの鷹」と同じ屋根の下で暮らしているのだから、当たらずしも遠からず、といったところなのだろう。
そこに何の思惑があったのか、フラガ家と彼の間に一体何があったのか。
詳しくが語られたことは無かったが、皆思い思いの憶測を胸に膨らませて好奇の視線が絶えることはない。もともとなぞめいた容姿と素性のためか、彼が軍を退いた今となっても、アスランは耳をふさいでいてもそんなうわさを山のように聞いてきたのだ。
曰く、クルーゼ隊長は実は男装の麗人でフラガの跡取りに見初められたのだ、
曰く、クルーゼ隊長こそが実はフラガ家の嫡男なのだ、
曰く、クルーゼ隊長はアスラン・ザラの父と内密な関係にあったらしい、
曰く――――
羅列していけばきりなど無い。
彼自身、いわれの無い陰口で疲弊することも少なからずやだったが、当の本人は暢気なもので、そんな風評などどこ吹く風かと涼しい顔をしている。

「もう私は君の隊長でも軍人でもないがね」

クルーゼでいい、と笑われ、アスランは思わず気の抜けた返事を返した。

(クルーゼさん…ラウ、さん?)

頭の中で呼びなれない名前を反芻して、奇妙な顔をしているとそれを察したのか、机に準備してあったファイルを引きずっていたクルーゼは小さく笑った。

「君が、呼びやすいようにするといい」

叶わないのだ。この人には。
思わず赤くなる頬に狼狽えて曖昧に頷くと、彼はそんな事を気にも留めないのかぱらぱらと資料をめくり始める。かつて彼のもとで戦った時は、もっと… 彼はもっと雲の上の、決して手の届かない人だと思っていた。凄烈な白、すらりと伸びた体と、色の薄い横顔。
あれだけ焦がれても尚、拝む事の叶わなかった仮面に隠された瞳は、今は無防備に晒されて薄い空色を柔らかく浮かべている。ここ数年で自分も背が伸びたせいだろうか。椅子に凭れて座る彼の背中のシルエットは、数年前に自分が思っていたよりもずっと薄く、頼りなげに見える。ファイルを掴む指も、かつては白い手袋に包まれていた筈なのに。どこか見慣れない居心地の悪さだ。

「隊、長…、」
「な、坊主、紅茶でいいかー?ラウも」

かけるべき言葉を見失って、かすれた声を上げたところで、小脇に新聞を抱えたムウが戻ってくる。
彼とは、昔何度か顔を合わせた事が有った。その時はまだ、モニターを挟んだで銃を突きつけ合う間柄だったはずだが、と人懐っこい笑顔を振りまいている背の高い男を見やる。
キッチンから顔を出す彼は、どう考えても軍人には見えなかった。軍人だといわれるよりも、高校教師だといわれた方がよほど納得がいきそうだ。

ラウ、

とその耳慣れない名前に戸惑い、それがクルーゼを指したものだと理解して、アスランは気恥ずかしさと、彼らの間に流れるプライベートの空気に、土足で踏み込んでしまったような気まずさに声を飲み込む。

「ああ、それでいい。アスランも、珈琲の方がよかったかな」
「あ、いえ…お構いなく。紅茶で、大丈夫です。いただきます」

慌てて返せば、微かに笑われた気がした。
顔をあげるが、眼を伏せたまま膝に乗せたファイルをめくっているクルーゼは、それ以上何も言わなかった。

「頼まれていたのは、…今回はこれだな。」

しろい指がファイルから引き抜いたのは先の戦争で、彼の引いた強襲揚陸艦におけるMS運用の手引きだ。膨大な図解を交えて何ページにも引かれた運用書は、実践を潜り抜けた者ならでは、といったものであろう。

「ありがとうございます。本当はあなたにこんな形で頼むべき事ではないんですが、」
「今更きれいごとを叩いて、許されるべき口でもないのは私がよく分かっているよアスラン。君は君のなすべき仕事をした。それだけだし、私もまた私のなすべきことをしただけだ。無論、それを書いて食っていくからと言うのもあるがね」

戦いから身を引いた、引かされた彼にとって、このような形で戦の傷跡を暴くことは本来ならばあってはならないことだというのはアスランにも分かっている。
ただ、
何百年も、あるいは何千年も人類が繰り返してきたおろかな歴史の中で、抑止力というものの存在を無視できないということもまた事実なのだ。それほどまでに、目の前の白い男の引いてきた図面は大きな力になる。

「お邪魔さん?」
「あ、いえ」

懐かしいとすら感じる、数多くの名前の刻まれたレポートを片手に思案をめぐらせていると、頭上から柔らかな声が降った。ふと翳る光にレポートから視線を上げれば、ウエイターさながら大きな掌で器用にティカップ二つとポットを捧げ持ったムウがこちらを見下ろす形で笑っている。
会話をさえぎったことをわびると、彼はなれた手つきでテーブルに置いたカップへと奇麗な緋色の液体を注いでいく。
ふわり、と。
カップを叩く水音と共に立ち上るかぐわしい香りは、紅茶に疎い自分であっても上等なものだとうかがい知れた。

「ありがとうございます」

指に触れるカップの持ち手が暖かいのは、きちんと湯煎してあったためだろう。少なからず驚いて暖かな紅茶を啜る。熱い液体が喉を滑って、たちまち体中を華やかな香りが満たした。

「あ、美味しい」
「あいつ、紅茶を入れるのだけは上手いからな」

紅茶を入れ終えると、ムウはこちらの邪魔にならないようにとすぐに離れていく。それでも部屋から出て行くわけでもなく、少し離れたソファにこちらに背を向けて凭れ、先ほど取ってきたらしい新聞を広げて没頭しているようだった。あくまで背景であることに徹するらしい。

「あれの趣味みたいなものだからな」

感心するアスランの目の前で、クルーゼはカップの中にいくつも角砂糖を落としている。そんなに入れては元の味も何も無いだろうに、と半ば呆れ、半ば驚いていると「よく言うぜ」とソファからかすかな笑い声。
趣味、と言うのは果たして紅茶を入れることに対してなのだろうか。それとも、

「そんなどっさり砂糖入れられちゃ元の味も何も分かったもんじゃないだろ、なぁ坊主」

まるでこちらを見ていたかのような口ぶりに、視線を傾けるもソファに隠れたくすんだ金髪頭は、先ほどと同じく新聞の山に埋もれている。背中だけで会話を返す二人に、アスランはたちまち頬が熱を持ち始めるのを感じていた。
趣味だというのも、ラウは紅茶を入れることを差している。少なくとも、彼はそれ以外何を指すのだというだろう。問題は、

「…」

紅茶を啜りながら、ちらりと新聞を読む背中に視線を投げれば、タイミング良くなのか悪くなのか、丁度ムウが顔を上げてこちらを見たところだった。
慌てて目をそらそうとするも時既に遅く、彼は悪戯っぽくウインクを一つ投げると何事も無かったかのように新聞へと視線を戻す。遅れた回避に、思い切り背中を引きつらせ、ギギギ、と音がしそうな軋みを持って、紅茶を美味そうに啜るクルーゼへと顔を引き戻す。
問題はムウの方なのではないか。
手の中のカップで回る真紅の液体が、急に重みを持ったようだった。

「どうかしたかアスラン?」
「い、いえ、何でも…何でもないです」

じっと紅茶を見つめたまま固まっていると、不審に思ったのかクルーゼが首を傾ける。考えすぎだ、と自分に言い聞かせてアスランは静かに首を振った。 俺のだから、と。
一瞬触れたムウの視線は、
はっきりと悪戯っぽく嗤ったようだったなどと。…そんなのは自分の妄想だと。
そうでもしなければ、これではまるで、

(巻き込まれてる?)

「良かったら昼食を食べていくといい」
「は、え?」
「そんな身構えなくても良いだろう。急ぎの用が無ければの話だが」

ムウ、とクルーゼが声を上げるのと同時、ソファの背もたれに肘を乗せたムウがこちらを伺うように顔を出す。
まるでずっと彼の声を待っていたかのように。

「パスタならすぐ三人前作れるぜ?坊主は嫌いなもんあるか?」
「いえ、好き嫌いは…でも良いです、そこまでお邪魔するわけには」
「いいっていいって、遠慮するなよ。どうせ二人分作るのも三人分作るのもかわらないからさ、こいつ、あんま食べないし、材料は足りると思うぜ」

これではまるで、見せつけられているような。
ムウの尻に、確かに髪と同じ色をした尻尾を見た気がして、アスランはめまいを起こしそうな自分をなんとか奮い立たせる。それは自分の背後のクルーゼを見て、今にも千切れそうな勢いで振られているような、気がした。

「本当に!本当に大丈夫です、それにあの、カガリが…昼食は準備しておくといってましたので」
「そっかー、そりゃしょうがないな。じゃあまた次の機会にだな」

心なしか本当にガッカリした表情の彼に、少し後ろめたくもなる。出掛けに玄関先でかいだ、少し焦げたバターの匂い、と彼女の悲鳴。ごめんなさい、と心の中でムウに向かって頭を下げた。
クルーゼから受け取った資料をかばんの中へと仕舞い込み、先に暇を告げることに対して断りを入れると、たっぷりの紅茶(と角砂糖)を胃に収めた彼がやわらかく笑った。
角が取れた、とでも言えばいいのだろうか。以前はこんな笑い方をする人じゃなかったと彼は思う。もっとどこか、追い詰められたような笑いかたをしていた。
それはとても美しいものだったけれど、見るものをどこか苦しくさせるような、そんな表情で。今のクルーゼの口元に浮かぶような空気は持ち合わせてはいなかったはずだ。

「構わないさ。時間はいくらでもある。…お嬢さんにも、よろしくと」
「こちらもカガリが貴方によろしくと伝えていました。また、近いうちに伺います」

席を立ち、玄関に向かう彼をクルーゼが見送りに出る。
時間はいくらでも、
そういった彼の目が、少し寂しそうに見えた理由は分からないが、少なからず胸のうちにわだかまるものを抱えて。

「直接、声が聞けて良かったです。隊長」

本心からそう告げれば、彼もまた自分もだと言う。
声が聞けてよかった、会えて良かった。

「また来ます。紅茶、有難うございました、美味しかったです」
「ああ、気をつけて」
「またな、坊主」

玄関に立つクルーゼの半歩後ろには、見送りに来たムウが居る。紅茶が美味しかったのは当たり前なのだ、とその姿を見たアスランは苦笑した。
あれは、彼がクルーゼのために淹れたもの。背中に寄り添う、大きくて優しい兄…のような。或いは、犬のような。
首にかけられた空色のチョーカーはまるで首輪だ。と、そう気づいてたちまちアスランは経平常心を見失う。
無論、そんなものをクルーゼがつけるはずも無い。おそらく、彼が自ら選んでつけたものだろう。もちろんそんなものは、自分の妄想に過ぎないかもしれない、けれども。

(なんて人だ)

さわやかな笑顔の裏側に、とてつもない重さの思いを見た気がして思わず身震いする。
俺の、
これは俺の。
俺は、こいつの。
だからむやみやたらに触るべからず。
クルーゼの隣でじっと主人を守る大きな犬は、なんだかそんなことを言っているような気がしてならない。お邪魔しました、と軽く挨拶を済ませてその小さな家を後にする。
なんてことはない、古くて小さな家には、
不思議な二人が住んでいる。
それは兄弟なのか、肉親なのか、或いは。
それを知るのは彼ら以外には居ないのかもしれない。






「おかえり、早かったんだなって…お、おいどうしたんだ?アスラン?」
「…なんかあの家怖い」
「は?怖いって…何かあったのか?」
「すごい怖い犬が居た…」
「あの人犬…なんか飼うんだな、なんか意外だ。あと犬、苦手だったんだな、それも意外だ」
「すごい大きくて威嚇してくる犬なんだ」
「?ふうん…」

玄関まで出迎えに来てくれたカガリに、思わず抱きついたアスランは、その考えを振り切るのに丸一日掛かったという。

作成:2012年12月24日
最終更新:2014年4月13日
独占欲の強そうなムウさんと、
無言の惚気に巻き込まれていい迷惑なアスラン。
多分、ラウは全部分かってても何も言わずに楽しんでる、ような。

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