RX

――システム起動、
メインモニター・オールグリーン
パワーモード・オールグリーン
システム登録準備、完了。
これより……、を起動します。

O、K――?



「キャスバルさまぁぁぁ!」
 本当にいい天気だ。テラスに出ると、小さく伸びを一つ。ぽかぽかと暖かな陽気は、かっちりと襟元まで留まった軍服には少し暑いほどで、だらしないとは分かっていてもついつい一番上のフックを緩めたくなる。
「いい天気だ…」
 ばたばたばたばたばた。
「そっちかー!どっちだー!」
「王子!キャスバル様ぁぁぁ!」
「そっちへ行ったぞー!逃がすなぁぁあ!!」
 …本当に、いい天気なのだ…。
 猛然と埃すら巻き上げる勢いで、テラスの下方、中庭を数人の使用人が駆け抜けていく。口々に叫びながら、爽やかな朝の空気を切り裂いて…である。思わずこめかみに青筋を浮き立たせて、ぶるぶると拳を震わせながらも、なんとか耐えた。いい加減ストレスで胃がどうにかなってしまいそうだったのだけれど、なんとなく…なんとなくここで叫んでは自分の負けのような気がしたのだ。
 気を取り直して白い手袋を直す。悪くない、制服だって一部の乱れも無く着ているし、仕事もほぼ完璧にこなしているのだ。…一点を除けば、だが。
「ガトー!」
 がっくりと肩を落として盛大な溜息を吐いている男の下に、ぱたぱたと騒がしい足音を立てて走ってきた人影が、これまたうるさい音を立ててドアを押し開く。渋面を押し殺して耐えてきた男も、この最後の一撃が決め手となってぐったりと体中の力が抜けていくのを感じていた。
「あああ…またか、またなのか?」
 艶やかな髪を揺らして走ってきたらしい、その少年は「ガトー!」と叫んだ口のまま、こくんと頷いて、もう一言叫んだ。出来れば聞きたくない言葉だ。
「また!また逃げられた!」
 どうして問題というのはこう、平和な日にばかり起きるのだろうか。顔を紅潮させて叫んだ少年を見つめるでもなく、渋面を覆い隠すように片手で眉間を押さえて男…ガトーと呼ばれたこの男は幾度目になるかもはや覚えていない誓いを立てた。
(今度こそ連れ戻してきてぶっ殺して差し上げるべきだろう…!)
 そんな物騒な誓いを知ってか知らずか、コウは(コウというのはこの少年の名前だ。黒い髪と黒い目をしている)切らした息を漸く落ち着かせて、
「どうする?俺も捜索部隊に駆り出されると思うけど、先に行ってるか?ガトーは…」
「あンの、大馬鹿…!」
 ぎゃー!
 そんな悲鳴が聞こえた気がしたが、ガトーは鬼の形相をしたまま片手で、部屋の入り口に突っ立ったままのコウをひったくると、ものすごい勢いで走り出した。…それこそ、土煙を上げて。
 いい天気だ。
 小脇に荷物よろしく抱えられたままコウは思い、がくがくとものすごいスピードでブレる視界に澄み切った空を捉えていた。雲も綺麗な形で…白い色が澄み切った青に良く映えるなぁ…って、そうじゃなくて…!
(俺このままじゃ確実に死んじゃうよぉぉぉ…!)
「おろしてぇぇ!吐く!はくぅぅぅ!!」
 ガンガン突き進む猪も真っ青なスピードに、思い切り乗り物酔いしながらコウが叫んだ懇願の悲鳴は、まぶしいほど澄みきった空に、悲しく吸い込まれていった。


「はははははは。また今回も、ずいぶん派手に出てくるものだなぁ!」
 コウがガトー酔いで阿鼻叫喚のどん底に突き落とされている頃――…ここはにぎやかな城下町の商店街である。目深にキャスケットをかぶった青年の、愉快そうな笑い声が響き、隣を歩く一回り小柄な背中がくすくすと笑った。
「それはキャ…、シャアがあんなに派手に脱走するからじゃないか。ふふ、また今頃兄さんたち、かんかんだぞ。帰ったときにどうするんだ?」
「それは帰ってからだな。」
 よく見れば、キャスケットから除く目鼻立ちは整ったもので、甘そうなハニーブロンドが日に透けてきらきらと揺れている。隣を歩く青年も鮮やかなラベンダー色の髪を綺麗に切りそろえ、少しつり上がり気味の目をしているが、育ちのよさからか人柄からかキツそうな印象は受けない。
 むしろ、猫のようなフットワークの軽さを感じさせる二人組みである。
「帰ってから、ねぇ。いつも兄さんはシャアに敵わないな。ああ、ガトー少佐は苦手にしていたのだっけ、」
「あれは堅物すぎる。私をあそこに閉じ込めて何がしたいのだか…っと」
 微かに眉を寄せたのは、ふと思い出した銀色の髪をした騎士のせいだった。確かに、有能の軍人で仕事もきちんとこなす、まさに騎士の鑑であろう。剣の腕も大したものであるし、事実彼にかなうものなどそうそう居まい。
 まあ、そんな彼であれ苦手なものはあるらしいのだが、はたから見ていても分かる、あの黒い犬…まあこれは揶揄だが、あの犬が唯一ともいえる弱点なのは明らかである。
「どうしたんだ、シャア?」
 急に立ち止まった背中に、危うく鼻面をぶつけそうになって慌てて青年は足を止める。僅か上背のあるしなやかな背中越しに表情を覗き込もうと首を伸ばすと、強く手を引かれて路地に引っ張り込まれた。
「今日はやけに見つかるのが早いな」
 驚いて悲鳴を上げかかる友人の口を手で塞いで、シャアが小さく舌打ちをする。すぐに二人の隠れている路地のすぐ横を、ばたばたがちゃがちゃと騒がしい足音を立てて城の兵士たちが駆け抜けていくのを聞いたからだ。
 …さすがに、こう何度も城抜けを繰り返しているとパターンが読まれやすくなっているというのだろうか。一通り『王子様捜索隊』が走り去るのを待って、漸く塞いでいた口から手を離すと、ふむ…と考え込むように細いあごを指で撫で摩る。
 さて、どうするべきであろう。ひょこりと路地から顔を出したシャアの目に飛び込んできたのは、土煙を上げる勢いで(小脇に何か抱えて)走ってくる大柄な人影だった。
「…厄介な…奴に…見つかってしまったなぁ…」
 こちらは頭でも抱えたい衝動に駆られるも、二つ三つすばやく打開策をひねり出すところは忘れない。常に行動は二手三手先を予測するというのは、信条にしていることだからだ。最も、今猪突猛進の勢いでこちらに近づく人影に言わせれば、その明晰な頭脳をもっと有効に生かして欲しいとのことで…まあ、最も。
 ともかく、それにしたってこんなところであのデカブツに捕まってもみたまえ。シャアは眉を寄せたまま、ほやんとした緊張感の無い顔でこちらを見上げる友人を見返して溜息を吐いた。きっとたっぷり油を搾り取られた挙句、どういうお仕置きが待っているか…知れたものじゃない。
「よし、こうしようガルマ。」
「うん、どうするんだ、シャア」
 これっぽっちも人を疑わない瞳に、罪悪感が無いといえば…嘘になるけれど。許せ友よ!アーメン、なんて心の中で十字を切って耳打ちをする。有体に言ってしまえば「おとりでとんずら」作戦。いうまでも無く、おとりはガルマである。
 本人はそんなこと、気づいても居ないようだけれど。
「…うん、…うん、分かった!じゃあまた後で落ち合おう。シャアも気をつけろよ!」
(…そっちこそな)
 無邪気に手を振って通りの反対側に駆け出した背中を見送って、小さく苦笑を一つ。聞こえてくるであろう悲鳴を聞きたくなくて(さすがにそこまで残酷じゃあ無い)、逃げるように駆け出した。
 ―――いい、天気だ。



「おとうさん、おはよう。少し遅くなっちゃったけど」
 屈みこんだ自分の影が、黒々と地面に落ちている。今日は朝からとても天気が良いので、鮮やかな日差しをやわらかくしてくれる、小さな小屋に掛かった木の枝からは、気持ちよさそうな小鳥のさえずりがずっと響いていた。
 のんびりとした風景、いつもと同じ空気。座ったまま、綺麗に手入れの行き届いた石碑に今朝つんだばかりの小さなブーケを添える。
「今日は…とても天気が良いんだ。ほら、これ、とうさんが好きっていってた…ヤグルマギク。きれいでしょう、今朝見つけたの」
 もう一つのブーケは、その隣の石碑へ。青い繊細な花弁を風に震わせるその花は、父が愛してやまなかったヤグルマギクだ。
 仕事中毒だった父親が、生き物に興味を示すなんて驚いたけれど…と、確か日記にはそう記されていた。
(だから、僕はそれを自分の記憶にしたんだ。)
 ざらりとした手触りの石碑は、墓地に有るような立派な大理石では出来ていない。その辺で拾ってきた大きめの岩を削り出してしつらえたような、本当に本当に簡素なものだったのだけれど、まだ…比較的新しいものだ。その隣の石碑に比べれば。
「そこに居るのかな、今でも、僕のこと…見えてる?」
――愛しているよ。
 貴方がくれるその一言が、世界の全てだった。なら、世界を失った僕は、これから一体どうしたらいいのだろうか。どうして、世界の無くなった世界で、僕はまだ生きているのだろう。
「また、いつか会えるんだよね?」
 繰り返される言葉は、昨日も、一昨日も、一昨昨日も、その前も、ずっとずっと呟き続けた懇願で。答えの無い呟きでも、声に出さないよりはずっとマシだった。そうやって、毎日まだ自分が動いていることを確認している。この先も、自分が動き続ける限り繰り返されるであろう愚行。
「僕は…君がうらやましいよ」
 そっと撫でたのは、父親の隣にひっそりと寄り添って立てられた小さな石碑。そこには、ずいぶんと風化してかすれた文字で、眠り人の名前が刻まれている。

『Amuro Ray 享年十五歳 優しき天使 ここに眠る』

(君は、僕から全部奪ってしまった。…いや、もともと、僕は何も持っていなかったんだ。君が居ただけ、ここに…僕の中に)
 触れた石碑の表面ですら、自分の体温よりずっと暖かい気がして、思わず手を引っ込める。そうやっていると、自分がずいぶんと汚いものに思えていたたまれなかった。
(貴方が居なくなって、僕が得たもの…新しく覚えたのは、ここが痛くなること…それって大事なことですか?)
 俯いた頬、胸を押さえて首を振った。どうしていいかわからずに、毎日以前と変わらない暮らしを続けている。それが…いいのか悪いのかも分からないで。
 懺悔にも似た祈りを終え、石碑の前から立ち上がる。ゆっくりと腰を伸ばすとその倍の時間をかけて一度瞬きをし、よし、と小さく声を掛けた。懺悔するのはここに跪いている時間だけと決めているのだ。それ以外は、いつもどおりに…いつもどおりに生活をしなくてはならない。
 そうだ、どうしても生きなければならないし、いつもどおりにしなければならない、お墓参りはきわめてイレギュラーな行動なのだから。思考を切り替えて、さてこれから掃除でもしようかと袖をまくった時だった。
「…あ。」
 がさがさと城下町から続く、細い獣道(この小屋は森の外れにあるため、獣道を通るか遠回りして整備された道を通るかの二つの道しかないのだ)が揺れて、なんとも間抜けな声を上げてひょこりと顔が覗いた。はじめはまたいつもの猫かウサギか…小動物が買いだめした食料をおねだりしに来たのかと思ったのだけれど、上がった声に目を丸くする。
 鮮やかな緑から突き出したのは、頭にたくさんはっぱの飾りをのっけた、それはそれは美しい人でした。
「あの…すまない、手伝ってくれるかな。どうやら何か引っかかってしまったようなのだけれど…」
 日に透けたハニーブロンドが、涼やかな目鼻立ちが、そして何より透き通ったアイスブルーの瞳が綺麗で思わずぼんやりと見とれてしまっていたのだろう。困ったように手を伸ばすその人の一言でわれに帰ったのか、ぜんまい仕掛けの人形が飛び起きるような仕草で顔を上げた彼は、ごめんなさい、そういって差し出された腕を取る。
「ありがとう、ここ、はじめてきたんだ…邪魔だったらすまない、すぐに引き返すよ」
 手を貸して引き上げてやると、その人は笑ってそう言った。頭についた何枚もの葉っぱを払って落としながら、服のあちこちは獣道を歩いている途中で引っ掛けたり躓いたりしたのだろう糸がほつれているし、破れているところも有る。
「大丈夫です。僕はどうせ暇だし…めったに人が尋ねてきてくれる場所でもないですから」
 青年が体を起こすのを助けてやりながら、遠慮がちにつぶやかれた台詞をやんわりと返す。それは上っ面だけの行儀ではなくて、本心から吐いた言葉だった。町外れの、しかもこんなに入り組んだ道の先、知り合いでもなければわざわざ訪ねて来ようなどと思う変わり者も居ない。
「じゃあ私は久しぶりの訪問者ということになるのかな」
 思ったより、大きいな。
 目の前にしゃんと背筋を伸ばした青年は、思いのほか上背があって、少し驚く。自分の中の世界というのは、長い間父親と自分のたった二人だけだったので、それ以外の人間に会うのは本当に久しぶりだったのだ。ただ、上背はあるのだけれどしなやかな体つきをしているせいか、威圧感は感じなかった。
「ええ、そういうことになりますね。ふふ、道、迷っちゃったんですか?わざわざこんな細い獣道を通ってくるなんて。この道はここまでしか繋がっていないし、裏街道に行くにしたって…ここからじゃ遠回りになるだけですよ?」
「えー…まあ、そんなところかな。散歩がてらといえば散歩がてらだったんだけれど。探索していたらここまで来てしまったというわけで…」
 しどろもどろと言葉を選んでいるところを見ると、何かやましいことでもあるのだろうか。でも、その焦った仕草の取り繕いようが可笑しくて、失礼だとは知っていながら少し笑ってしまっていた。
「ふふふ、ごめんなさい。もし急いでいなかったら、少しよっていきますか?貴方が…よければですが」
 言葉を発したのは自分のはずなのに、自然と口からこぼれた台詞に自分で驚いていた。他人と接触するのは、父が死んでからはなるべく避けてきたのだ。それは、臆病な自分の静でもあるのだけれど、手に入れることを知った今、失うことの恐怖感が勝って足がすくんでいる。
 何かを失うのは、もう嫌だった。
「そうか!それは助かる。是非お邪魔してもいいかな、ええと…」
 片手を差し出したまま、目の前の青年が考えるようにこちらを見つめていたので、小さく笑って(それはとても簡単なことだった)名前を告げた。
「アムロです。アムロ・レイ」
 差し出された手を、恐る恐る握り返すと暖かな人肌の体温が懐かしくて、少し泣きそうになったけれど、それよりも自分の手の冷たさにいつ、驚いて突き放されるのではないかと内心はひやひやしていたのだ。
 けれど青年は、しっかりと手を握ったまま、
「私はシャアだ。よろしくアムロ君」
 寸分の狂いも無い笑顔の手本があるとしたら、きっとこういう顔なんだろう。思わず見とれてしまうほどに完璧な笑みを浮かべると名前を告げた彼に、こくんと頷いてアムロは背中で石碑を隠す。
(だってこれは、僕のお墓だもの。)
 見られたら、シャア不安にさせてしまうだろう。この手を取ってしまった瞬間から、すでに失うことへの恐怖はどんどん膨らんでいってしまうのだ。幸い彼は事情を悟ったのか、特に事情を聞こうとはせずに穏やかな顔をしている。
「よろしくお願いします、シャアさん」
「おいおい、他人行儀はやめてくれたまえ。シャアで良いよ。その代わり、私もアムロでいいかな?堅苦しいのは…嫌いなんだ」
「いいんですか」
「ああ、かまわないとも!」
 陽気に笑ったその横顔を、綺麗だとアムロは思った。ずっとずっと日の光の当たらない、暗い穴の中に住んでいたのに、急にお日様が訪ねてきたような。永遠に届くはずの無いそれに向かって、ずっとずっと手を伸ばし続けている。
 だからお願い、どうかもう僕から何も奪わないでください、――神様、

 ジオン王国。
 さして大きくも無いが、小さすぎもしない、隣国である連邦国との和平協定で平穏な時間を刻むこの国に、シャア…キャズバルはいずれ国を預かるものとして生を受けた。平和な国を愛していたし、そんな国を愛する父を誇りに思っていた。
 だが、十の誕生日、父の気が触れた。
 何が起こったのか当時の自分に知る由も無かったのだけれど、猛毒を盛られた影響で、幸い死には至らなかったがその毒は父の精神を、獣に変えてしまったのだ。
(…くだらない、権力争い、か)
 必然的に父親は幽閉され、実質的な権力者は父ではなく父が最も信頼を置いていた側近の一族へと移行していて。今考えれば、誰が毒を差したのかなどと…明確すぎて暴く気にもなれない。
 そしてなにより、周りが貼った「悲劇の王子」としての振る舞いをすることに…疲れてしまったのだ。自分はただ、父の築いた平和な国で穏やかな暮らしをしたかっただけなのに。
 いつからか、シャアというもう一人の自分を作り上げ、そこへ安息を求めるように…なっていた。
(病んでいるのだろうか、私は)
 悲劇の王子から、手のかかる、出来損ないの王子へ。そうやって本当の自分をどんどん遠ざけるにつれ、自分を閉じ込める殻が分厚くなって、しまいには出れなくなってしまったとしても…それでいいと思っていた。
 もう、傷つくのは嫌だ。
 分厚い殻は、やがて自分を深くに閉じ込めて、消してしまうだろう。
「どうかしましたか?」
 どうしてそんな昔のことを思い出したのかわからないが、どうやらぼんやりしてしまっていたようだ。掛けられた声にはっと顔を上げた瞬間、自分がどこに居るのか分からないほどの、軽い混乱を覚える。見知らぬ、狭い天井と暖かな木の匂い。ああそうだ、ここはアムロの家だと思い出してから、安堵の息を吐く。
「いや、なんでもないよ。ありがとう…いい家だね」
 ことり、と目の前に暖かな湯気を立てる大きなマグカップが差し出される。中にはたっぷりの、ルビー色をした液体が揺れていて、ミルクさしからアムロが注ぐ暖かい液体と交じり合って、優しい渦巻きを描きながらベージュへと落ち着いた。
 いつも華奢で装飾的なアンティークカップで出されるのとは、格別に違うであろうミルクティは、なぜだろう、とてもおいしそうに見える。
「いいにおいだ。」
「いえ、本当に…たいしたものは出せないんですけれど」
 満足げに笑って頷くと、少年はふっくらした頬を僅かに染めてはにかむ。ミルクを注ぐ前の紅茶と同じ色をしたふわふわの髪の毛は、緩やかなカーブを描いて丸い輪郭をかたどり、アムロの持つ雰囲気をより穏やかなものに見せている。
 じっと自分を見る視線から逃れようとするかのように差し出されたクッキーの小皿に、やっと自分がアムロを凝視していたことに気付く。はっと目を逸らすと、微かに頬が熱くなった。
「…ありがとう、とても美味しそうだ。君が焼いたのかい?」
 飾り気の無い素彫りの木の器に盛られたクッキーは、決して上品とはいえない大ぶりのものだけれど、中にくるみや椎、アーモンドが焼きこまれていて楽しい歯ざわりになるのは一目で見て取れた。
 うれしそうにアムロが頷く。
「はい、僕…好きなんです、何か作るのって。お客さんは本当に貴方が久しぶりだったから…いつも焼いても動物にあげちゃうんですけど」
 無邪気な笑顔につられてシャアも笑った。
「ははっ、それは羨ましいな。この近くの動物たちはいつもこんなに美味しいお茶を戴けるのかい?それなら私も是非またお邪魔したいものだね」
 言葉に偽り無く、一口かじったクッキーは歯ざわり軽く、優しい甘さでたちまちシャアを懐かしい気持ちにさせる。幼い頃、料理人に隠れて母がこっそり焼いてくれたお菓子の味に、よく似ていたのだ。
「アムロは…食べないのかい?」
 しばらく、おいしいおいしいと言いながら夢中でティタイムを楽しんでいたシャアだったのだが、そんな彼を楽しそうに見ながらも、しかし紅茶にもクッキーにも手を付けようとはしないアムロに気付いて、ふと手が止まる。
 その言葉に不自然なほど驚いたアムロは、ふっくらとした小さな唇を震わせていた。
「僕は…おなかがいっぱいだから」
 言い訳なのか、本心なのか取りかねる笑顔だ。そうなのかい、深く詮索はせずに目を逸らしたのだが、横顔に微かに滲んだ表情は何だったのだろう。
 動揺か、悲壮じみた。
「…ど、」
「ああ、そうだ。もし良かったらもって帰りますか?まだ少し焼いた分が残ってるんです」
 どうしたの、本当はそう言って手を伸ばそうとしたのだけれど、どこかとってつけたように呟かれた台詞は、まるでその手を拒むかのようで。口を開きかけた間抜けな体勢のまま固まって、シャアは目を丸くした。
「どうか、しました?」
「……………あ、いや、何でも」
 からからと乾いた音を立てて、器にクッキーが流れ込んでいく。
 本日二度目の問答を、またぼんやりとした顔で返してしまってから、内心苦笑を隠せずに居た。これでは、相当な間抜けだと思われているんじゃないだろうか。
 『お持ち帰り』用のクッキーは、その間にも慣れた手つきで包まれて、すっかり余所行きの装いでテーブルの上に鎮座しているけれど。
(なんだかこれじゃあ、追い出されてるみたいだ…邪魔、だったかな)
 空になったマグカップは、まだじんわりと余熱を包んだ手のひらに伝えていた。
「えと…今日はありがとう。アムロ。もし良かったら、…またお邪魔してもいいかな」
 差し出された包みを受け取って、すんなりと口をついた台詞に自分で驚く。こんなにも真っ直ぐ本心が出てくるとは、いったいこの少年はどこまで人の警戒心を食べてしまうのだろう。
 これだけ無防備にさせるくせに、彼自身は不透明な硝子の中に居るような…よそよそしさを感じさせるのは気のせいではないはずだ。シャアの台詞をただの社交辞令と取ったのだろうか、
「いいですよ。いつでも来てください。シャア」
 あっさりと微笑んでみせる横顔も、無防備なのではなく、指先であと少し触れることの出来ない壁が隔てている。その瞳を…やっぱり少し悲しいと、シャアは思った。
「それじゃあ、また、ねアムロ。きっとまたくるから…絶対だよ」
水槽を一枚通してみているようなアムロの動きは、なぜだろう、何か、
(…何か違和感を感じるのだけれど……)
 それが何なのか、まだシャアには分からない。




 ―――あれがあってから、ずっとあの調子だ。
 きらきらと星みたいにどっさり、クリスタルの飾りのついたシャンデリアが上品なやわらかい光を投げかける執務室で、コウはもう幾度目になるか分からない溜息を吐く主を、不気味な生き物を見るような目で見つめていた。
 あれ、というのは勿論あのど派手な脱走騒ぎのことで、まあ、コウにしてみればとんでもない乗り物(無論、ガトーのことだ)に捕まって酷い乗り物酔いはするし、丸一日市外を駆けずり回って靴擦れはするし。おまけに翌日はまれに見るほどの筋肉痛で仕事に差支えが出たりと、本当に何一ついいことが無かった厄日なのだけれど、
(これが一番不気味だ…!)
 そう。何が一番困るって、この憑き物にでも乗られてるんじゃないかと思うほど、急におとなしくなってしまったキャスバル王子だった。
 帰ってきてガトーやらなにやらに、こってりたっぷり油を絞られたのは言うまでもないのだけれど、いつもならそんなことどこ吹く風でふらりとまた脱走する彼が、どういうわけか大人しくなってしまったのだ。
(今回は改心した…とか?)
 はじめはそう思っていたコウなのだが、どうやら原因は別のところにあるらしく、今ではすっかりガトーですら気味悪がって近寄ろうとはしない。
「っはぁぁ………」
 まあ、おとなしくなるだけなら百歩譲って許せるとして、問題はこの溜息と雰囲気だ。生けた花も三秒でしおれるんじゃないかっていうくらいに、辛気臭い溜息!一体どうしたって言うんだろう。
「もう、王子…!本当にどうしたんですか、仕事もさっぱり片付かないし、姫もガトーも気味悪がって全然手をつけようとしないし!」
 そこへダメ押しよろしく吐かれた溜息に、いい加減限界が来たのか(というのも無理は無い。ガトーに王子番を押し付けられて、朝からずっとこの溜息を聞かされていたのだ)コウが叫び声を上げる。
 王子に向かってそれは無いだろうという態度だったが、シャアはシャアで慣れているのか、どんよりと生気の無い顔を向けて、
「ああ、コウ君…」
 …これだ。
 思わず悲鳴を上げて髪の毛をかきむしりたい衝動を何とかこらえて、大きな公務机にばしんと両手を叩きつける。
「そんなにお悩みなるようなことですか?俺じゃあ何のお力にもなれないんですか?!」
 ええい、ままよ。
 あまりにうじうじと、カビでも生えてきそうな雰囲気に耐え切れずの一言だったのだが、これがさらに地獄への片道切符になるなどと、コウは知る由も無かった。
「聞いてくれるのかい、コウ君…!」
「っへ…?え、あ、まあ…」
 とたん、先ほどとは打って変わって「お願い聞いて」モードの発動したシャアの目に、ぎょっとして体が勝手に逃げてしまう。いかんいかん、と首を振ってすんでのところで足を踏ん張ったけれど。
「き、聞きます聞きます…!」
 こくんこくんと勢い良く頷いて、きらきらしいシャアの顔を真っ直ぐに見つめ返す。ああ、もう…なんでこの人はこんなに文句なしの顔をしているくせに、わざわざこうやって一歩はずしたところを歩きたがるんだろう。
 日に好ける金髪も、ミルク色の肌も、サファイアみたいな瞳も、言い古された言い方だが「絶世の美男」だというのに!
「どうやら、恋をしてしまったようなのだよ…!」
 演技じみた仕草で両手を広げて見せる様は、どうしたって「絶世の美男」とは程遠いものだった。
「…ええと…」
 がっくりと、体中の力が抜けていくのを感じながら、なんとかそれだけ声を絞りだして視線を上げた。売れない三流役者みたいなポーズで公務机に座ったシャアは、ゆっくりと両手を戻して、はぁ、などと恋する少女の溜息を吐いていたけれど。
「ええと…」
 どうしていいのか分からず、とりあえず同じ台詞を繰り返してから、コウは先ほど自分が吐いた台詞をたちまち後悔する羽目になっていた。こういう事態を避けるためにガトーが仕事を自分に押し付けたのだとしたら、何で二つ返事で引き受けてしまったのか…わが身を呪うばかりである。
 まあ、あの声とあの顔で「頼む」って言われたら、断れるほうも珍しいだろうけど!
「…恋…ですか…」
「そう、恋だ…ああ、いや、そんな変な動物を見るような顔をしないでくれたまえよ。これでも私は人間なのだよ?恋だってするし、悩みもするものさ」
 はっきり言って、何の動物と比べたのかは分からないが、確実に貴方のほうが珍獣ですよ、とはさすがのコウも口には出さなかったけれど、まあ…ちょっぴり考えてしまったのは秘密だ。
 やっと一言搾り出したと思ったら、どんどん追い討ちを掛けられてコウはちょっと泣きたくなった。誰にとは言わないが、謝って逃げ出したくもなった…が、それは男の意地でなんとか耐え抜いていた。
「それで、最近ずっとあんな様子だったんですか?」
「うん…まあ、そんなところかな。厳密に言えば恋とはちょっと違うのかも知れないけど…すごく、気になるんだ、その子が」
 ふっと、こぼれるように呟かれた一言に「おや」と思う。ちゃらんぽらんな態度でこちらに真意を悟られないようにしていたくせに、今の台詞は気が抜けたのだろうか、こちらのほうがよほどシャアの本心を語っているように思えたからだ。
 一瞬細められた目は、コウの知らない光と影を潜ませていて、普段見せている薄っぺらな表情とのギャップに本気で目を奪われてしまう。
「…君は…恋をしたことがあるのかな」

 び、

(…びっ…くりした…!)
 本当に、死んでしまうかと思った。きっと今自分はとんでもない顔をしているのだろうという自覚だけはある。だって、耳元で鼓動がどくどく煩く鳴り響いているし、耳が酷く熱い。
 反則だ反則だよ、あんな顔であんな声で、だからカオのキレイな人はずるいんだ、と情けなく俯いたままコウは内心悲鳴を上げていた。逃げ出さなかっただけ、自分をほめてやりたいくらいだ。耳元で囁かれた声はいやおうなしにコウの意識を直撃して、意識無意識関係なく、容赦なく血圧を上げる。
 シャアはといえば、そんなコウを面白がって、硬直した頭をなでてみたりしているし、これでは形成逆転ではないか。だって、あんな間近であんな声を出されるとは思っても見なかったので、完全にコウの油断負けである。
「はははははは、コウ君はやっぱり面白いね」
「あ、あ、あ、遊ばないで下さいよ…!本当に、死んじゃうかとおもった…!ずるいです、あんな…」
 ぱくぱくと酸欠の金魚みたいに息を喘がせて叫んだ台詞も、シャアに掛かれば「面白い」の一言で片付けられてしまうのが、この人に勝てない実力の差というものだろうか。心臓の上を押さえて、顔を真っ赤にしているコウを観察しながらシャアが笑う。
「そうかい?でも、そんなの君はガトーでなれているのかと思ったけど…」
「っだ…、」
 しゃっくりと声の、ちょうど中間みたいな音を出すと、今度こそ完璧にコウの動きは止まってしまった。面白半分、からかいながら見つめるシャアの視線の先で、もとより高潮していた幼い横顔は、やがて哀れなほど色をさらに濃くして、僅かに潤んだ黒曜石の瞳はやがてぽろりと透明な雫を一欠落とす。
 そのまま、声も出せずにばたばたと逃げ出してしまった少年のしなやかな背中を見送って、シャアは小さく溜息を吐いた。
「泣かせるつもりは…無かったんだけれどね」
 苦笑を隠しえずに呟いたのは、無論、独り言ではなく会話の始まりとしての投げ石だったからだ。証拠に、低い吐息の音がこぼれて、チョコレート色をした扉からぬっと顔が突き出る。
「趣味が悪いぞ、貴様」
「君も立ち聞きなんて、いい趣味とは言えないんじゃないかい?それに、その調子じゃあコウ君とばっちり顔合わせしてしまったんだろう、自業自得だよ」
 わざと意地の悪い声色を出してやると、みるみる目の前の男が不機嫌になっていくのが見て取れた。もともと刻まれている眉間の皺が濃い影を落とし、アメジストの視線が射るような鋭い視線をシャアに投げている。
「あ、言っておくけど君の恋愛相談を受け付けるほど私はお人よしじゃあないからね。逆に私の話を聞いて欲しかったのに、君は逃げたんだから」
 先ほどのコウに対する態度とは似ても似つかない、歯に衣着せぬ言葉はなまじシャアがととのった顔立ちをしているから、一歩間違えばキツい印象を与えるだけだろう。だが、育ちのよさか、立ち振る舞いに含むウィットに富んだ物言いが、それをうまく緩和していた。
 いずれにせよ、器用な男である。
「誰が貴様の恋愛相談など…大体、唐突過ぎるんだ、何もかも。急に居なくなって、急に帰ってきてこれだろう、何もかも、自分勝手すぎるぞ」
「そんなの、コウ君を良いように『縛り付けて』る君が言えた言葉かい…、」
 どん。
 銀色の影がゆれ、机においてあったインクのビンが床に転がり落ちる。ガトーが拳を机に叩きつけたせいだ。分厚い板は、加えられた重量のせいで鈍い音を立て、僅かに撓みさえした。
しかし台詞を途中で切られたのにもかかわらず、シャアは相変わらず涼しい顔をしていたし、逆にガトーは苦々しい顔を少しも隠せずに居る。
「怒るのは、図星な証拠だろう」
 床に、転がったインクのビンが取り残されている。蓋を閉めておいてよかったな…分厚く毛足の長い、上等なワインレッドの絨毯をぼんやりと視線の先に捕らえながらシャアは思った。机に叩きつけたままの形になっている、ガトーの大きな拳は僅かに青ざめているように見えた。
「…私は、コウを縛り付けてなど、」
「ああ、そうだね…縛られているのはむしろ君のほうか?コウ君にあんな顔をさせて、…お互いにお互いの臆病さでがんじがらめになって、それでも君は離すつもりが無いって言うんだろう」
「黙れ!」
 コウ君が立ち聞きしていたらどうするんだ。響き渡った怒声に一瞬ひるみながら苦笑したものの、まあ、コウがそんな事をするはずは無いと知っていたので、ゆっくりと肩の力を抜く。
「…っ、すまん……いや、申し訳ありません『王子』」
 さすがにガトーも気がとがめたのか、叫んだ後、ことさら慎重に息を整えると首を振って目を伏せたままそう呟いた。
「白々しいね、君も。…怒るわけないだろう、そういう生の感情を…私にぶつけるのは君らぐらいのものだからな」
「コウは…、売られた彼を買ったのは確かに私だ。…だから、貴様はそれがただの同情だと思っているんだろう」
 ぽつり、ぽつりとガトーが話すとおり、コウはもともと奴隷商の連れて来た薄汚い子供でしかなった。大方、どこかの没落貴族か何かの末裔だったのだろう、育ちのよさそうな、人を疑うことを知らない目をしていて。
 冷たい檻の中で、ガトーを見て…笑った、のだ。これから自分がどうなるか、これっぽっちも疑うこともせず。
「衝動的に彼を買ったのは事実だが、私は決してコウに同情しているから、今でも傍に置いているわけではない」
 恐らく、コウはそのときのことをもうあまり覚えては居ないだろうし。
「…私には君たちの事情や感情は、よく分からないし、介入すべきでないのも分かっているよ。」
「……。」
 真っ直ぐに目を逸らさずに、前を向くこの二人を、どれだけ羨ましいと思っていることだろう。きっとガトーもコウも、そんな自分の気持ちなど知りもしないのだろうけれど。
「ガトー少佐、」
「…なんですか」
 小さな笑みを唇の端に浮かべたまま呟くと、その硬質な声の響きに、珍しくガトーは戸惑ったような顔でシャアを見下ろす。その顔を真っ直ぐに笑みで包んだ殻に篭ったままのキャスバル王子を演じながら、問いかけた。
「…愛されることがどういうことなのか、よく分からないんだよ」
「…え、」
 それは、どういうことですかという前に穏やかな顔は言葉を続ける。
「なのに、人を愛するなんて、どうやっていいか…わかるわけないじゃないか。これが恋かどうかなんて…私に分かるわけがないんだ」
 ガトーは、
 穏やかなままのその笑顔が、今にも泣きそうに悲しい顔だと…思ったけれど。それを言ったらこの美しい顔をした男が壊れてしまいそうで、とうとうころを口にすることは出来なかった。
(…本当は、言うべきだったのだ)
 ……言うべき、だったのだ。たとえそれが、シャアを壊すことになったとしても。




「こんにちは。」
 果物というのは、どうしてこうも綺麗で艶やかな形をしているのだろう。かじったら、きっとすばらしい味がするんだろうな。
 そんな事を考えながら果物やの軒先を冷やかしていたアムロは、不意に背中から掛けられた声に、一瞬本気で飛び上がりかけていた。
「え?!あ、うああ」
 あまりに驚いたので、そんなような「声」を上げて人影に笑われる。
「そんなに驚くことはないだろうに、それとも、そんなに驚かせてしまったなら、謝らせてもらうよ」
「シャア!」
 そう、振り向いたアムロの視線の先で甘いハニーブロンドを風に遊ばせているのは、見間違えようも無くあの晴れた日の美しい訪問者、シャアと名乗ったあの青年だった。
「ああ、よかった。君はアムロだよね、間違えたらどうしようかと思ったんだ…久しぶりだね、買い物かい?」
 何日ぶりかになるのだろう、青年の美しい顔立ちは忘れようも無い、間違いなくシャアのものだ。穏やかに緩められた視線の先で一瞬顔を赤くしたアムロは、やっと落ち着いたのか、軒先から立ち上がった。
「こんにちは。本当に…また会えるなんて思わなかった」
 穏やかな微笑みは、確かに柔らかいアムロの印象とあいまって心まで温かくしてくれるようなものだったけれど、シャアの感じている違和感を拭い去ることは出来ない。
「酷いなぁ、私は本気で言ったのだよ、また来るって。まぁ…なかなか君の家に行くことが出来なかったのは事実だけれど。」
「ふふ、ありがとうございます。嘘でもうれしいです、シャア」
「だから嘘ではないって…どうすれば君は信じてくれるだろうね、アムロ。…そうだ、君はこれから君は暇?もしよかったら少し一緒に散歩でも…どうかな」
 はにかんだように笑うシャアの顔を、アムロは思ったより幼い人なのだと素直に感じていた。美しい顔立ちをしているから、きっと黙っていれば近づきがたいほどの雰囲気なのだろうけど、人懐っこい笑顔と柔らかな立ち振る舞いが彼をずっとアムロの元へと近づけている。
(いけない…期待なんかしたら、駄目だアムロ。この人は僕なんかとは違う世界の人なんだから)
 それでも、優しくされてしまえばほのかな期待を抱かないわけにはいかないのだ。
「シャアは、ずるいです」
「…え?」
 ぽつりと呟かれた一言に、彼は怪訝な顔をして首をかしげていた。怪訝、というよりももっとずっと「驚いた」という顔。
「…ずるい?どうしてだい?」
「だって…貴方はそんなにきれいな顔をしているし、そんなに優しいのに、どうして僕なんかに優しくしてくれるんですか。そんなことされたら、誰だって期待しちゃいます」
 だが、疑問に答えたアムロはそんなシャアを知ってかしらずかのらりくらりとした返答でお茶を濁してしまった。背を向けて先を歩く後姿は、頼りなく細い。
「期待しても良いよ、私はアムロが好きだもの」
 先を歩く背中が、びくりと震えて、とまった。
「アムロ?」
 追い越して顔を見てみたい気もしたけれど、それをしたらいけない気がして半歩後ろを歩いていた自分も足を止める。いぶかしげに声を掛けてみるものの、微かに震えているように見える彼の背中が、不安を煽り立てるばかりで。
「どうして…?どうして、そういうこと、言うの、」
 声、まで震えているから。
(抱きしめてしまうかと、思った)
 ぎゅ、と広げた手を握り締める。消え入りそうな声は、アムロの細い背中越しに問いかけるというよりはシャアを責め立てているように聞こえた。それからやっと、自分が何を言ったのか思い出して、シャアの頬が微かに紅潮する。
 好きだといったのだ。
(でも…でもこれは嘘じゃない、素直な気持ちなんだ)
 執務室でガトーと言い合ったことを忘れたわけではなかったが、アムロに投げかけた言葉は不思議と包み隠さず、素直なものだと思っている。「愛する」「愛される」がどういうことなのか明確に分かるわけではないのだけれど、少なくともこの心もとない小さな体を守りたいと思うのは、冗談なんかではないということ。
 初めて出会ったあの日、どこか一枚壁を隔てて笑っていたこの柔らかな頬を、包み込んで抱きしめてやりたいと思っていた。
「…アムロこそ、酷いじゃないか」
 だんだんと力なく震え出した背中、思い切って手を伸ばすと簡単に体がこちらを向く。それは本当に…簡単なことだった。
「や、…っ」
 逃げようとする細い肩を、優しく(でもしっかりと)両手で引き止めて、紅茶色をした、今にも泣きそうに揺れている目をしっかりと覗き込む。
「本当に、好きだよアムロ。こんなの初めてで…私だって戸惑っているんだ。あまり…寂しい思いはさせないでおくれよ」
 やんわりと、優しい言葉でアムロの心を縛る。これじゃあガトーたちのことを言えた立場ではないな、とシャアは苦笑した。ずるい、とコウが言ったのは、アムロが言ったのは…きっとこういうことなのだろう。
 拒否できないと知っていて、それでも優しい言葉で逃げ道を塞ぐ。
「シャア、…っ僕は、」
「うん、…本当は……愛するとか、そういうこと…うまく出来るか自分でもよく分からない。でも、アムロを大事だと思うのは本当だよ、これが……これが好きって言うことなのだろう?」
 ゆらゆらと光の揺れる目を覗き込んでそう、ことさらゆっくりと丁寧に声を言い含ませると、困ったような目から光が一欠けら…こぼれたように見えた。
「僕は…貴方に大事になんてされたら困るんです…」
「どうして?」
「だって、期待してしまうから、そうやって僕の世界を作っていかないで。もう…悲しい思いは怖いんです…あんなのは、嫌だ」
 アムロが何を指して言葉を紡いでいるのか、シャアには分かりかねたので、立ち止まったまま優しく肩を抱くと膝を着いて視線を合わせた。
「少し、ゆっくり話をする時間をもらえるかな。…私には時間が必要なのかもしれない、アムロにも」
 一瞬おびえたようにも見えたアムロの目は、やがて焦点を結ぶと小さく頷いてもとの色を取り戻していく。
「ありがとう。…困らせるつもりは無かったんだ…いつも突然すぎるって、よく友人にも怒られているよ」
「本当です。貴方は、突然すぎる。流れ星みたい」
(あっという間に流れ去ってしまうから、何をお願いして良いのか…僕には分からないんだ)
 ふふふ、と小さないつもの笑みを浮かべて見せると、やっと安心したのか肩を掴んでいたシャアの手の力が緩んでいった。やがてその手が離れて、体を引こうとすると、手を差し出される。
「?」
 何の意図なのか分からずに首をかしげると、
「…手を繋いでもいいかな」
 まるで子供みたいなお願いだ。思わず笑い出すと、すねたような横顔が、やっぱりこの人は幼いのだと…もしかしたら自分よりもずっと純粋なのだと、感じさせる。
 冷たい手を悟られるのが怖くて戸惑っていると、ためらいがちに指先が触れてきた。
「嫌なら、いいんだ」
 おずおずとこちらを伺うように触れた指先が温かくて、ちょっと泣きそうになる。思い切って絡めたシャアの指は、…温かかった。
(ああ、駄目だ。)
 この人の温かさを…失いたくないと、思ってしまうから。
 それでも繋いだ手がうれしくて、ゆっくりと森へ向かって歩き出す。今は多分、少しゆっくり話をする時間が必要なのだろう。…お互いに。









 『おはようアムロ、私のアムロ。』
 その言葉で、僕の世界は始まった。
僕が知る『アムロ』に関する情報は、全て父の書き残した日記に綴られていた僅かな記録と、彼の望んだ人格がプログラムされた自分自身が全てだ。
 性格に言えば、僕はアムロではない。僕が生まれてくるずっと前に、アムロは死んでしまったのだ。残された数少ない記録を見る限り、どうやら彼は生まれつき体があまり丈夫ではなかったらしく、何か決まった大きな病気…というわけではないのだけれど、厳しい冬を越すこと敵わずに幼くして命を落としたようだ。
 小さな小屋の中、リビングに大事そうに飾られていた写真立てには、ふっくりとばら色の頬を穏やかな笑みで彩った紅茶色の髪の少年と、頬の削げた父親が並んで笑っているポートレートが入っていた。まだ、彼が生きている頃の写真だ。
 この少年はどうやって笑って、どうやってしゃべって、…どうやって生きていたのだろうか。
『RX、私の天使、今日からお前はアムロだよ。さあ、おいで…その顔をもっとよく見せておくれ』
 僕はアムロじゃない、あのときの目覚めたばかりの頃の自分には、まだそういって哀れな男の腕を振り払うだけの、十分な知能は持ち合わせていなかった。けれど、
 少なくとも僕は父さんを愛していた。とアムロは思う。たとえあの人が見ていたのは、自分ではなくて…本当のアムロだったとしても。
 僕は、人間ではない。
 今は亡き父、テム・レイは連邦国では名のある錬金術師だった。錬金術師というのはつまり、石ころから金を作るなんていう、突拍子も無い職業などでは無論無く、工業で使うような機械をもっと複雑にしたような機器を作ったりする職業だと、父は笑いながら教えてくれた。
 もともと仕事の虫だったこともあり、体の弱い一人息子をあまり手にもかけてやれず、そのことだけは生涯忘れることの出来ない彼の傷となっていた。証拠に、よく写真を見ながらすまないと何度も何度も謝っていたのを思い出す。
『だからお前は…アムロ、お前だけは失いたくないのだよ』
 僕は、父親が国の中枢で働いているところを知らない。というのも、目覚めたその日から、彼は家の外に仕事に出ることを止めたからだ。その原因ともいえるのが言うまでも無く『アムロの死』で。
 大丈夫だよ、どこにも行かないよと何度も何度も繰り返しても、彼は時々子供じみた恐怖に襲われるのか一晩中すがりついて離してくれない日もたくさんあった。そしてそれを当たり前のように受け止めている自分もまた、彼の一言一言を痛いほどに欲していたのもまた、事実なのだ。
 根本として、僕は常に奇妙に歪んだ父からの愛に飢え、それで今でもこうやって愛されることを渇望しているのかもしれない。そしてそれと同時に、失うことを心のそこから恐怖している…
「どうしていいか、分からないんだ。」

 どうしていいのか分からない、あの日そういって真っ直ぐこちらを見ていたアムロは、今にも泣きそうな顔をしていた。
 あれ以来、…あれというのはいわば強引にシャアが『話す時間が必要』だとアムロと散歩をしたあの日以来、その言葉通り彼とはちょくちょく会うようになっている。まるで小動物を飼っているみたいだ、と緩む口元を引き締めて思った。
 はじめは警戒心を持って、少し離れた距離が、回数を重ねるごとに少しずつ縮まっていくような気がする。間に挟まっていた硝子の仕切りを打ち砕いてしまったときから、彼は急に距離をおくようになってしまっていたのだけど、それも今は少しずつ縮まる距離のおかげでやっと触れられそうになってきた。
「…少しずつでいいんだよ。ちょっとずつ、君のことが知りたい。」
 そう言って小さく笑えば、はじめは戸惑っていた赤い目も、今では柔らかな微笑みを返してくれて、
「僕も…シャアのことがもう少し知りたくなってきました」
 なんて、うれしい言葉も返してくれるようになったものだから。もう少し、良いかな、なんて甘えてしまう。そう、時間が必要なのだから、彼の心がゆっくりと溶けるまで待てばいい。
 まあ、美味しいケーキを持っていっても、綺麗な果物を差し出しても「ありがとう」と微笑むだけで一向に食べてはくれない彼に少し不安になったりもしたけれど、最近ではそれも気にならないくらいにはたくさんの時間を共有できているのではないかと思う。
 シャア、と柔らかな唇で紡ぎ出される声は耳に甘く、もっと聞いていられたらと、貪欲な希望さえ抱かせた。どうしたってあのふわふわと甘ったるい容姿と、優しい色をした瞳の視界に入っていると思うと、子供じみた喜びが体を包む。これっていわゆる『ショタコン』なんてやつなんだろうか、と本気で悩んだりもしたのだけれど、どうもアムロに対するそれは性的な欲望は含まないようで、どちらかと聞かれれば母親の愛情を渇望する子供の感情によく似ていた。
 幼くして母を失い、父親から隔離されて育ったキャスバルにとって、つたないながらも優しさで心を包み込んでくれるあの純粋な少年は、いわゆる心のよりどころとなっているのかもしれない。だから、あの日彼に語った『大切だと思う』という言葉に偽りは無かった。
「…そのだらしない顔をなんとかしたらどうだ」
 あきれた声と共に、乱暴に机の上に投げ出される書類の束に、しかし勝ち誇った顔をしたままにやりと笑うと、さらに渋面を濃くして悪友(親友などと呼んでやるものか)は腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「ふふふ、負け惜しみかね、アナベル・ガトー君」
「馬鹿を言うな。犯罪者ぎりぎりのお前にそんな事を言われたくなどない。そういう奴が、こう…ストーカーになったりするのだぞ」
 アムロにねだって漸く許してもらった、小さな電気写機で撮った彼のスナップショットを焼きまわしたものをガトーに見せたら、彼は『幼児趣味があったのか』とさんざんなじられたものなのだが。キャスバル自身に言わせれば、ガトーだって似たようなものだということらしい。
 素直に口に出したら何をされるか分からないので黙っていたけれど。
「なるわけないだろう、アムロと私は対等だよ。別に権力を傘に着て彼をどうこうなんて考えても無いさ。それとも、『普通の』友達をつくることすら私には許されないって言いたいのか?」
 普通の、を強調したのは王族ゆえ、社交だのなんだので社会的権力問題がらみの『知り合い』を作ることを強制され続けたかれなりの皮肉だったのだが、ガトーは渋い顔をして黙りこくってしまったので、出鼻をくじかれた形になったキャスバルも次ぐ言葉を一瞬見失う。
「そういうわけでも無いんだが、ただ身分を隠し通すことがお前にいつまで出来るのかって私は言っているんだ。」
「…冗談を真に受けること無いだろう」
 暫く考えて、一言ずつ慎重に言葉を選び出したがトーに、きょとんとした顔でそう告げてやると、頭をはたかれた。
「おちょくっているのか、貴様は…!!」
「ははははは、冗談だよ冗談、真に受けてくれなくたっていいだろう!……それに、…感謝しているよ。君には」
 その言葉に反応を返すよりも早く、ぱたぱたと廊下を駆けてくる軽い足音が聞こえて二人とも顔を見合わせた。この独特のリズムを立てる軽い足音は、この宮中一人しか居ない。イヤガラセのごとくにやりと笑って見上げると、僅か一瞬頬を上気させたこの大男はむすっとした顔のまま、次に訪れるであろう瞬間に備えてか、まっすぐ扉を見つめて息を吸った。
「ガ、……」
「コウ!貴様は…!」
 ばたん!といつもの通り勢い良く扉が開き、顔を紅潮させて(走ってきたからだろう)声を張り上げるべく口を開いた少年は、いきなり目の前に現れた顔と声に言葉尻をとられて、きょとんと目を丸くしたまま口を閉じれずに居る。
「ええと、あれ?あ、王子こんにちは…」
「こんにちは、コウくん。」
 混乱しているのか、大男よりも背後に立つキャスバルに挨拶をするコウに、彼自身は笑いをこらえるのに必死だった。こちらからでは背中しか見えないが、ガトーの肩が微かに震えている。
「貴様という奴は…何度宮中では作法をわきまえろと言えば気が済むんだ?!私にどこまで恥をかかせようと…」
「うん、ごめんね?ごめん、ちゃんと気をつけるから」
 お見事。
 ついそう言ってしまいそうになるのをこらえて(うっかり呟こうものなら、恐ろしいことにこの大男の鉄建が振ってくるのは目に見えている)感心したのは、コウの一言だった。鶴の一声、というのはこんな少年にも扱えるものなのかと感心する中、反省のかけらも滲ませずコウの吐いた一言は見事にガトーを沈黙させていた。
 本人には自覚は無いのだろう、相変わらず悪気のかけらも感じさせない顔で確かに見える尻尾を振っている。
「あのね、明日カーニバルがあるんだって!だから俺、ガトーと行きたいと思って!!」
 二撃目も見事にクリーンヒットである。きちりと着込まれたモスグリーンの軍服の袖を引くコウの目は、疑問でも誘いでもなく、はっきりと肯定を示していた。
「しかし、仕事が…」
「冷たいことを言うな、ガトー。私が休みくらい取らないと思っているのかい?」
 そのまま頷くのも気が引けたのか、一瞬考えて戸惑った声を上げた彼ににやりと笑って見せると、あからさま嫌な顔をして眉を寄せられてしまった。…失礼な。
「…貸しにするつもりなのだろう」
「はっはっは。人聞きの悪いことを言わないでくれたまえよガトー少佐。楽しんでくるといい、たまには休息も必要だ」
「あ、よかったら王子も一緒にどうですか?楽しいんですよカーニバル!屋台もたくさん出るし…あ、飾火大会もあるって聞きました。」
「うーん…そうだね、もし気が向けば私も出かけてみるよ。コウ君はガトーと一緒に出かけるといい。まあ…あとは君に任せれば大丈夫だろう?」
 ありがとう!とコウが文字通り跳ね上がって大喜びしているので、小さくウインクをしながら横目でガトーを見つめると、それはもうこの世の終わりのような顔をしてキャスバルを見返していた。
「…あのな、念のために言っておくが…」
「心配しなくても、きちんと変装ぐらいしていくさ。今までばれたことは一度も無いのだぞ」
 しかし、口を開きかけたガトーの真意は汲み取られること無く、上機嫌に明日の『衣装』探しを始めたキャスバルはそう快活に答えると、極上の笑みを浮かべて見せる。そんな王子の姿を見ながらもしかし、片腕をコウに引かれながら、ガトーは胃がきしむのを感じていた。


 とても珍しいものをもらってしまった、と手の中にある一枚のカードを見つめて、アムロはそれをもてあましていた。こんな辺鄙な場所にあったとしても、メッセンジャーはきちんとメッセージを送り届けてくれるらしい、ということを今日始めて知ったのだが、それにしたって…なんだって今日に限ってこんなものなのだろうか。
 手の中のそれは、きりりとした赤いカードホルダーに収められた柔らかなクリーム色のカードで、流れるような字は全くあの人らしい。
『アムロへ。
 もし君が良いと思ったら、今日の夕刻、日が暮れたらバザールの東門で。一緒にカーニバルに行こう。:C』
 C、と最後の署名は彼のサインなのだろう。鮮やかな赤いインクで、音符のト音記号を崩したようなデザインでアルファベットのCと組み合わせたマークが記してあった。
 生まれて…このかた、ずいぶん長いことこの小さな家に暮らしているのだけれど、一度もカーニバルには行ったことがないので、いきたくないといえば嘘になるのは分かっていた。けれど、とアムロは思う。戸惑うのはカーニバルに行くこと自体ではなく、シャアの優しさなのだ。
 こんなに優しくしてくれているのだから、今更彼を嫌っているというわけでは無論無い、が、だんだん近づく距離は貪欲に愛情を求めていた自分にとって、それこそ麻薬のような魅力でもって感覚を麻痺させている。このまま甘え続けてはいけない、と分かっていてもその優しさにどんどん足を引かれていくのが実感できた。
(シャア…貴方は僕の知らないドアをまたそうやって壊してしまうの)
 心の…もし自分にそんなものがあればの話だが、心の奥底に眠っている、自分の一番強い欲求を、幾重にも扉で硬く閉めて誰にも見せまいと隠しているそれを、彼はいつか除いてしまうのではないかと、それだけが怖い。
 きっと、この誘いを断ったとしてもシャアは決して自分を責めたりしないだろう。しかし、だからこそこのカードは絶対的力をもってアムロの行動を強制する。すなわち、いかなければならない、と。
「…やっぱり貴方はずるい」
 小さく呟くアムロの唇は、けれど微かな微笑みを浮かべて、大切そうに持った招待状に軽く押し当てられた。乾いた紙の感触を確かめるように暫くそのままじっとして、傾き始めて窓から見えるでこぼこした地平線を暁に染めている太陽を眺める。
 硝子を一枚隔てて差し込むオレンジ色の光は部屋の中を、見事なまでの朱色に塗りこめゆっくりゆっくり色を濃く移ろっていく。今から急げば、シャアを待たせずに済むだろうか、『日が暮れたら』なんてあいまいな表記に任せたのも彼の優しさ故かと、思わず笑みがこぼれる。
赤い封筒にカードを仕舞いなおすと、太陽光(ソル)の最後の雫が鮮やかに地平線へ光の筋を引くのを眺めながら白いダッフルコートを出して腕を通した。このたっぷりとした真っ白いコートは、数少ない持ち物の中でもひときわアムロの気に入っているもので、その理由はと聞かれれば、父親にプレゼントされたからだと言う事。物欲があるわけではない、が彼にとって、たとえハンカチ一枚にせよ父親から買い与えられればそれは『宝物』だ。
ふわふわとした襟元のファーを靡かせて慎重に町への細道を急ぐのは、大切なコートを小枝にでも引っ掛けて破かないようにするためで、慣れた道とはいえ気をつけて歩かなければならない。ただでさえ最近はどうも体の調子が芳しくなく、シャアには見せまいと努力はしているものの、時折急な眩暈や立ちくらみが頻発するようになっていた。
しかし、立ちくらみなんて、そんな『人間らしい』こと!見当違いだとは分かっていても、それだけで少しアムロは嬉しくなる。
(そうだ、僕は…人間なのかもしれない)
 かさかさと足元の木の葉を踏み分ける乾いた音と、一歩ずつ前に踏み出されるつま先をじっと見つめながら考える。漸く、耳のずっと奥のほうで町から立ち上る微かな人々のざわめきを拾えるほどになっていた。いつもと違う空気、いつもと違う活気、いつもと違う町。
 春の到来を祝う冬の祭りは、ジオン王国の中でも節区四大祭りのうちの一つで、殊更春という季節柄か盛り上がり方も一味違う。町に近づくにつれ、街頭に飾り付けてある桃色の光を滲ませるランタンや、硝子球、窓を彩るさまざまなステンドグラスが鮮やかに目に飛び込んできた。
「うわぁ…」
 軽いカルチャーショックだ。いや、同じ国…どころか同じ町なのだけれど、このかた一度もカーニバルに来たことの無いアムロは、だんだんと量と勢いを増して流れ始めた人の波に飲まれながら、抵抗も出来ずにあたりをきょろきょろと見回している。
 何より、アムロを不思議な気持ちにさせたのは、行きかう人々の、笑顔、笑顔、笑顔―――…皆、まだ宵の口にもなっていない時刻だというのに、一様に酒に酔ったような艶やかに上気した色艶をして肩を寄せ合い、笑っていた。
 父親も、こんな風に笑って過ごした事が有ったのだろうか。こんな風に、…家族そろって。すれ違った親子連れの明るく澄んだ笑い声を聞いたとたん、ぐっと胸がつかえた様に苦しくなって頭が揺れた。いけない、と思ったときにはもう遅く、人波に足を取られて倒れこみそうになった…瞬間、腕を引っ張りあげられてぺしゃんこに踏み潰されることだけは回避できたらしい。
「す、すみません、…ありがとうございます」
「本当に来てくれたんだね、アムロ!」
 羞恥に顔も上げられず、ぺこりとさらに深く頭を下げたアムロにしかし、降ってきたのは心地よく甘い響きの、嬉しそうな一声。え、と顔を上げる間もなく人ごみから小さな体を守るようにふわりと抱き上げられ、今度は違う意味で目が眩んだ。
「シャア!」
 眼下でふわふわと風に巻き上げられて揺れる、細いハニーブロンドを捕らえて一も二も無く声が上がる。こんな子供じみたことをしているくせに、ちっとも悪びれもせずシャアは笑っていた。
「遠くから見えたんだ。君のこの髪、よく目立つからね」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、彼はそういってやわらかいアムロの紅茶色をした髪をゆっくりと梳き、自分の法がよっぽど目立つくせに。嬉しそうにはしゃぐ青年を見てアムロはそう思ったけれど口には出さないでおいた。
「急にすまない。まさか本当に来てくれるとは思っていなくて…」
 自分で誘っておいたくせに、と思いもよらず浮き足立つシャアにすこし意地悪な顔をしてそう言うと、彼は困ったようにそうなんだけど、と呟く。しっかりと握り締められた手が心地よくて、長い指にためらいながらそっと自分の指を合わせると、無邪気な声が何度も名前を呼んだ。
 シャアの隣に居て不思議と安らぐのは、彼の振る舞いのせいではないかと最近気づき始めていたところだ。整った顔立ちをしているために黙っていれば、冷たい印象を与えるのではと思うのだが、屈託なく見せる笑顔や、甘えたような仕草を見ていると、自分も彼もまるで5つか6つの子供みたいで。兄弟のような気分にさせられるのだ。生まれたときから隣で育って、ぴったりくっ付いて手を繋ぎ、歩いてきたような。
 甘えてもいいのかな、ぼく。あれだけ優しさにおぼれそうになっているくせに、そんな虫のいいことを考えてしまうほどに。
「でも…本当にありがとう。行くならアムロと一緒が良かったんだよ。…君は笑うかもしれないけれど、わがままを言って君を呼び出したくらいなんだから」
 照れたようにうつむく横顔を、アムロは文句なしに綺麗だと思う。どうして彼がここまで自分に好意を寄せてくれるのか、今でも疑問に思っているのだ。人ごみの中、手を繋いでゆっくりゆっくり歩を進めながら、静かに会話を繋ぐ声を心地よく耳に落としている。
 眉目秀麗、これだけの器量なのだから、彼が望めばそれこそどんな女性だって手に入るはずなのに、もしかしたら。
(シャアがほしいのはそんなんじゃないのかもしれない)
「…来てよかったと思う。」
 だから、暫く歩いていてぽつんと呟いたのはあながち嘘ではなく、アムロの本心だった。随分と間の開いて返された答えに、最初シャアはきょとんと目を丸くして考えていたようだったれど、途中で買った羊缶(これはおもちゃで、ひっくり返すと中から羊の鳴く声がする)を片手にもてあそんでいるアムロに、ありがとうと言った。
「アムロはこのカーニバルは?」
「初めて。きっとシャアに誘われなかったら、一生来て無かったかも…ほら、僕出不精だから。買い物くらいしかこの町には来ないし」
「それは重役だったのだな、私は!張り切って案内してあげよう。また来年も来たいって思えたら、合格点を貰えるかな」
「そうだなぁ…じゃあ合格したら、来年もまた誘ってくれるって、約束してくれるなら」
 べえええ、ひっくり返した缶、アムロの手の中からは小さな缶詰に詰められた羊のつぶれたような、しわがれた泣き声が響く。屋台の前で小さな缶から響く鳴き声に、不思議そうな顔をして見ていたらシャアが買ってくれたそれは、すでにお気に入りらしい。空色のラベルに薄桃色をした羊の絵が描かれている小さな缶詰。
 何の役に立つわけでも、特別高価なわけでもないそれは、だからこそアムロにとっては特別な贈り物になる。
「勿論。それこそ愚問じゃないかアムロ」
 にぎやかな通り、鳴り響く音楽と行きかう人々。少し頭がくらくらするのは、きっとこの熱気のせいだ、と嬉しそうに手を引くシャアの背中を見ながら思うことにした。
 どれくらい歩いてきたのか分からないけれど、バザールの入り口からはもう随分来たのだろう。屋台が連なる入り口では、あちこちに向かっていた人の流れはいまや一定の力でもって皆同じ方向に流れているらしかった。あまり背丈があるわけではないので、シャアの背中に守られるようにして歩くアムロには、林立するとりどりの人しか見えない。
「この先に飾火の展示場があるんだよ」
「飾火?」
 アムロも知らないわけではないのだが、飾火というのは、単純に言えば蝋燭なのだが、無論ただの蝋燭というわけではない。毎年秋の初めから冬が終わるまでに作られる工芸品で、一本ずつ細かい彫刻と彩色を施される蝋に、錬金術師が薬品や鉱石を混ぜ込んだ火種を練りこむので、まるで花を咲かせたように色とりどりの焔を上げる。
 工芸品とはいうものの、飾火は葬儀の際には欠かせないアイテムで、要するにカーニバルには似つかわしくない代物なのだ。それで訝しげに首をかしげたアムロにシャアが笑う。
「ああそうか、アムロは知らなかったのだね」
 シャアが話すには、この飾火をカーニバルで灯すのは華やかなこの祭りで、亡き大切な人を幸せに送り出すためなのだという。しみったれた葬式などではなく、お祭りで盛大に送り出してやろうと…いうのである。
「確かに、大切な人との別れは辛いだろう?だからせめて最後は華やかにお別れしようって始まったんだよ」
 ほら、ついた。バザールから真っ直ぐ城下町を歩き、巨大な城門を抜けるまでいつの間にか歩いてきたらしい。ソロモン城を眼前に人ごみの中、日の落ちて屋台も無いその場所はしかし、柔らかな光に縁取られて皆一様に感嘆の声を漏らしていた。
「…これ、全部飾火…なの?」
 あっけに取られてアムロが立ちすくむのも無理は無い。幾重にも重ねられた祭壇には、視界の端から端まで、これでもかというくらいの飾火が並べられていたのである。その光は花畑のように華やかな色を揺らめかせて、あたりの空気を焦がし、光を立ち上らせていた。
「人を思う数だけ、皆蝋燭を持ち寄るんだ」
 言いながら棚を隅々まで眺めていたシャアは、やがて目を留めると少し冷えた手を握り締め、迷わずに一本の飾火の前まで歩み寄っていく。その背中を、一瞬ためらってからアムロは追いかけた。
 それは、華奢ながらも一目で高価だと分かる飾火だった。白をベースにした体に、繊細に刻まれているのは百合の花で、蝋も薄桃色の芯に白を巻きつけているのだろう、掘り込まれた百合の花はほんのりと内部から発光する焔に透けて、柔らかな桃色を覗かせている。頂で揺れる焔も、小さな星を散らしながら、白から桃色、オレンジと繊細な移ろいを見せていた。
「…私の母のだよ」
「シャアの…お母さん、」
 背中越しに呟いた声が、あまりに穏やかだったので、アムロはシャアの顔を見上げることが出来なかった。声は揺れてもいなかったけれど、なんとなく、彼が泣いている様な、気がしたのだ。
「もう十度にもなるのかな、こうやってここに飾火を添えるのも」
 大切な人を失うほどに、この飾火は毎年増えていく。悲しみと痛みの数だけ、華やかになるのかと思うと、それはやっぱり皮肉なことに思えた。
 恐る恐る、蝋燭の火を見上げるシャアの手を握ると、しっかりとした力で握り返してくる。それは崩れそうになる心を、すがりつくことで耐えているかのように。ここで彼を優しく抱きとめてやれたら、どれだけ救われただろう。シャアも、自分も。
 それだけの器量を持ち合わせていない自分が悲しくなる。
「…父さん」
 そうだ。
 このシャアの背中を悲しいと思ったのは、これがどこかで見たことがあると思ったのは、この背中が自分自身だったからなのだ。
 あの日、やっぱり父を失った自分はこうやって静かに眠る父親の傍らに立てた飾火をみつめていた。あの飾火はもっとシンプルで、安いものだったし、こんなにたくさん華やかだと感じられるほどなんて無かったけれど。ただ数本、ゆらゆらと頼りなく夜気に震えていたあの焔、白い、焔。
 …父さんの、体を焼き尽くした、焔。
「アムロ…?」
 あの、脳裏で揺れる白い光はきっちりと深層に焼きついて離れようとはしない。僅かに震えたアムロの手に気づいたのか、はっとしてシャアが振り返ったので、なんでもない。そう言おうとしたら途端に目が眩んだ。
 ぐにゃりと海に敷いたじゅうたんを踏みしめたように体がかしいで、声が遠くなる。驚いた叫び声で何度も自分を呼ぶ声すら、耳に綿を詰められたみたいでうまく聞き取れない。
「アムロ、どうしたんだ、アムロ!」
「だ…い、…ぶ」
 大丈夫、ごめん、少し立ちくらんだだけ。いつものことだから。そういいたかった口はしびれてしまったのか、結局声を紡ぐことも叶わず、そのままアムロの視界はブラックアウトした。



 全く、本当にいい迷惑というか、運が悪かった。
 先ほどから彼のほうはまんざらでもなさそうに、かいがいしく動き回っているのだが、ガトーに言わせればその働きすら、嫉妬の原因だと…知られたら大笑いされるだけだろう。
「ねえガトー、大丈夫かなあ…こんなの初めてだし、ちょっと信じられなくて」
 そんな内心を知ってかしらずか(知らないに決まっている。大体コウはそういう男なのだ)、ベッドの脇に座っていた少年は、さらりと音がしそうな真っ直ぐに濡れ羽色をした髪を揺らして振り向く。
 臨時休暇を貰った(というか、半ば無理やりキャズバルに掴まされた感も否めないのだが、まあ嬉しくないといえば嘘になるので、ここでは言わないことにしよう)ガトーとコウが門前の飾火を眺めていたとき、それは起こった。
 遠くで叫び声があがり、ただでさえ今日はカーニバルだ、何か問題でも…しかも城門前で何か起こったのでは目覚めも悪いと二人して駆けつけたそこに居たのは、真っ青な顔をして小柄な体を抱きかかえた王子の姿だった。介抱する方こそ今にも倒れそうに狼狽え、駆けつけたガトーとコウの姿を認めるや、驚いたことに彼は、
「助けてくれ」
 と懇願したのだ。理由は一目で知れる、腕に抱えた少年の事だろう。これで貸しは帳消しだと、軽口を叩く雰囲気すら見出せず、面の割れているガトーやシャアに王子だ騎士団長だとわいわい人が集り始めたので、慌てて城の中へと撤収した。
 うろたえているシャアをとりあえずなだめすかし、落ち着くようにと別室に座らせると、宮廷医師を呼びに行くと行って飛び出していったガトーにかわり、コウはよく少年の世話を焼いた。自分と同じほどの年齢だと感じて、放っておけなかったのだろう。だが、
「ガトー、どうしよう!これ、ちょっと危ないよう!この子死んじゃうよ…!」
 医師に連絡をつけて駆け戻ってきたガトーを待ち受けていたのは、今度は取り乱したコウの姿だった。思わず眉間を押さえそうになった手で、さらさらとした頭を撫でて、とりあえず落ち着けと促す。
「どうした、そんなにまずそうなのか?」
「だって、…だって、息してないんだよ…!」
 なんだって。
 その一言にはさすがのガトーも息を呑んで目を丸くした。今思えば、その声が隣室に居る(であろう)シャアに良く聞こえなかったものだと思う。もし、このとんでもない一言を聞きつけていたら首でも括りかねない勢いだったからだ。
「息をしていない?」
 しかし、見る限りベッドに横たわっている少年の小柄な体、シーツのかかった薄い胸は…たしかに緩やかにだが上下しているし、顔色が悪いわけでも…無い。つまりは、いたって正常で、これが倒れていた少年を見ても二人がそれほど取り乱さなかった理由でもあるのだが。
 訝しく思って、眠っているように見える少年の鼻元に手を持っていってみると…確かに空気の震えを感じることは出来なかった。…しかし、胸はきちんと動いているのだ。
「…どういう…ことだ?」
 念のため、と首元に指を添えて脈を探ると、とんでもないことにそれすら感じることが出来なかった。
「ど…どうしよう、ガトー…、この子、死んじゃったの…?」
「いや、そんな訳は…」
第一に、死んでいるとしたらこんなに顔色が良い訳は無いのだし、胸だって動くはず無いだろう。さすがに少し君の悪さを感じて少年を眺め、ガトーは首をひねった。
 どうしたものかと考えをめぐらせていると、ふと思い浮かんだ単語にまさか、と顔を上げる。
「…アルクスノイドか…?」
「な…に?」
 しゃっくりのような声を詰まらせて顔を上げたコウの顔を、泣き出しそうだ、とガトーは思った。
「アルクスノイドだ。…そういえば四年前になるか、宮廷錬金術師にレイ大尉という学者が居ただろう。」
「レイ大尉?…ああ!あの細い人、だよね?」
 ひょろりとして顔色の良くないその学者は、気難しいことで有名な主権補佐のギレンをもって天才と言わしめた男で、ガトーも詳しくはその怪しげな研究を知っているわけではないのだが、なにやら動く人形を作っているとかいないとか、うわさを耳にしたことはあった。
 もっとも、その当人は四年前に他界しており、部署の全く異なるガトーがその真相を知ることは無かったのだが。
「ああ、彼は何か…その、人形を作っていると聞いたことがあったから、まさかそれではないだろうかと思ったのだ。」
「それってつまり…あの子が人形…機械だってこと?」
 あくまで可能性の話だ、そう括るガトーに目を丸くしたままのコウは、まさか!と首を振る。
「いくらなんだって、そんなこと、あるわけ無いよ!だってあの子、ちゃんとやわらかいよ。あったかいもん」
 そんなこと、一緒に居たキャスバルが一番良く知っているのだろう。それに、あそこでこの少年が倒れたと顔を真っ青にしていたのは他ならない王子自身なのだ。なんにしろ、このまま放っておくにはいけないのであるし…とんでもない拾い物をしたと、王子を責めるわけにもいかない。
 どこか、今にも静かに涙をこぼしそうな顔に見える、赤毛の少年をぼんやりと見つめて腕を組む。
 数度のノックののちに見慣れた横顔が覗いて、面倒くさそうな表情の青年が入ってきた。
「カミーユ、すまないなせっかくの休みにわざわざ」
「別に構いませんけどね。あんまり合わないんで、あういう人ごみ。どうせずっとここに待機してました」
 これですか、涼しげな目元を細めた青年が方膝を着いたベッドの先では、相変わらず物音一つ立てずに少年が眠っている。
「あの…大丈夫だよね、死んだり、してないよね…」
 不安げに声を上げるコウは、しかしカミーユが苦手なのかおびえているのはもっと別の理由からなのか分からないが、ガトーの背中に隠れて様子を伺っている。カミーユは藍の色をした瞳でそんなコウを一瞥して、まるで犬だな、と声には出さずに呟く。ちょろちょろといつも騎士団長であるガトーにまとわりついているこの少年は、皆愛称を込めて犬だのわんこだのと影で呼んでいるのを知っているのではあるが。
 どちらかといえばそんなコウに救われているのはガトーのように思える。…そう考えてしまうのは自分が皮肉屋だからだろうか。
「多分ね…っていうか…」
 そんなことを考えながら、じっと眠る静かな横顔を調べていたカミーユは、涼やかな声でそう括った。
「…死ぬっていうのは少し間違いだと思うな、」
 どういうことだ、とガトーが言うよりも早く、カミーユは持っていた聴診器で少年の薄い上下する胸板に当てたそれを、ガトーとコウに差し出してみせる。促されるまま耳へと押し当てた聴診器からは、
 …何も聞こえてこなかったのだ。

「おい。」
 心臓がひやりと冷えた気がしたのは、その声に驚いたからではなく、その先の報告を聞くのが怖かったからだ。ゆるゆると首を上げて前を見据えると、扉の前には銀の髪を揺らした大男が立っていた。
 恐らく今自分はひどい顔をしているのだろう。終わったのか、と呟いた声があまりにかすれていて惨めで、その声に自分で驚いてしまう。
「…ああ、終わった。とりあえず、お前の心配しているようなことは無いからその点は安心してもいい」
「そうか…良かった…」
 その一言に安心したのか、ふっと張り詰めた肩からみるみる力が抜けていくのが見て取れた。糸を切られた人形のようにぐったりと座りこんだキャスバルを見て、この男はこんなにも華奢だったのだろうかと考える。
 それほど、いつもは自信に満ちたこの男が、小さく細く見えたのだ。
「だが…、」
 さらに、次の句を継いだ瞬間、男の肩が強張った。
「…直接、見たほうが良い。…あの子は、」
「アムロが…、なんだ、なんだっていうんだ?!」
「いや、口で言うより直接見ろ。…現実から、目を背けないというなら、その覚悟があれば、の話だがな。」
 覚悟、そう口にした目の前の男からは、何の情報も読み取ることが出来なかったので、暫く逡巡した後に、分かった、と丁寧に…自分に言い聞かせるように呟いた。多分、このままアムロのことを何も知ることなく、なかったことすることだって、簡単だったはず。けれど、どうしたってあの柔らかな笑顔が手の中から抜け落ちてしまうのが怖かった。
 シャア、とあの甘い声でもう一度笑いかけてほしかった。
(…好きなのだ、アムロが)
 もうきっと、自分をごまかせないほどのところまで来てしまったのだと、理性よりも耳が欲しがるあの声にシャアはもう…我慢するのはやめようと、思った。
「…もう、子供みたいに逃げるのはやめようと思うんだよ」
 僅かにやつれた顔を上げてそう告げる主人の横顔を、痛々しいと感じながらもしかし、それは決意を持ったものだけが匂わせる強さがあるとガトーは感じる。今までこの飄々とした青年があまり感情を素直に人にぶつけているところを知らないので、こんなにも真っ直ぐに想いを寄せているあの少年が、この想いに絡め取られはしないかと不安になってしまうほど。
「強すぎる想いは、人を食い殺すぞ」
 部屋を出て行こうとする背中に、静かにそう投げかけると、
「君たちは、だからってその想いを自分の中だけで殺すことが出来るのかい?」
 先ほどと打って変わって穏やかな声色は、しかし背筋をぞっと冷やす。その、あまりに真っ直ぐすぎるまなざしを受け止めきれず、静かに目を逸らした自分を、ひどく惨めだと…苦虫を噛み潰した。
 それは王子の吐いた台詞自体に対してではなく、人を想う自分の心はどこまでいったって最後は隠すことが出来ない…そんな当たり前のことを知っていて、彼に吐きかけてしまった自分に対する嫌悪からの顔だ。
「…愚か者は私か。言うとおりだ、私は気持ちを殺せなかった。」
「人間、そう都合よく出来ているわけないだろうに。君には分かっていたはずだ、とうの昔に、な。そうだろうガトー。」
 そう、だろう?
 苦笑する。そうだ、言うとおりだ。と肯定の言葉さえ吐けないことがなんて子供じみた…、振り向いた先の彼の睫は金色の光を湛えてゆらゆらと揺れている。
「…行ってやれ、何が必要か、どうすれば良いのか、……整理を付けられるのはお前だけだ」
「正直、私は怖いよ。」
 アムロと真っ直ぐに向き合うのが怖い、と付け足して微笑むその笑顔を文句なしに綺麗だとガトーは思った。勿論、口に出すことは無かったけれど。
「でも…、」
 形のいい口がひゅっと閉じられて、一瞬の間のあと考えるように丁寧に、それでもキャスバルは微笑んでこういった。
「私はアムロが好きだから」
 だから、一緒に居たい、と。

 頭が痛い。
 いや、これは頭が痛いんじゃなくてそういう風に伝わってきているだけかもしれないけれど、目を覚ますと脳の中に異物を押し込められたような違和感が襲ってきて、アムロは小さくうめくとゆっくりと首を振った。
 ここは、どこだろう。ぼんやりと視界に捕らえる空間は暗く、恐らく窓であろう壁際に設置された四角い枠には、外の光を僅かに取り込んでうすぼんやりと発光して見える。ということは、ここは部屋なのだろうか。
 体を包み込んでいる暖かい何かを持ち上げる。どうやらシーツのようだった。
 飾火を掲げた会場に、シャアと二人で居たところまでは覚えているのだけれど、そこから先はよく分からない。視界が真っ白になったあと、何度も名前を呼ばれたような気はしたのだけど。
「あ…目が覚めたの?」
 不意に部屋の片隅から降ってきた声にぎょっとして顔を上げる。聞き知らない声は、とたんに警戒心を煽ってアムロを身構えさせた。だれ、と目を細めて声の先を探ると、ぱちり。音がして視界が明るく開いた。
「ごめん、驚かせちゃったかな…からだ、もう大丈夫?」
 部屋の隅に立つ少年は、アムロと同じか…少し幼いくらいだろうか、真っ直ぐな黒髪を綺麗に切りそろえて清潔な眼差しで物怖じせずにこちらを見つめている。ここは…と彼を見ながら呟き、そこでやっと気がついたように彼はああ、と声を上げた。
「ここはソロモン。門のところで倒れてたの、王子が連れてきたんだよ」
「…王子?」
 腑に落ちない顔で聞き返す。
「王子って?」
 それにソロモンといえば、この国の城の名前ではないか。目を丸くしたまま鸚鵡返しするアムロはしかし、視界が開けた途端に広がった一般の宿にしては豪奢すぎる内装に戸惑っていた。
 体に触れている、さらりとしたシーツだって手触りだけでそれが高価なものだと知れるほどだし、第一に目の前にいる少年の体を包むローブの胸に縫い付けられた紋章は紛れも無くこの王国の紋章である。
「…すまない、騙すつもりは…無かったんだ。」
 がちゃり。
 軽い混乱に陥ってしまったアムロに止めを刺したのは、心外なことに聞きなれた声だった。重厚なオークの、チョコレート色をした扉を両側から押し開いて現れたのは、見慣れたハニーブロンド、涼しげな顔立ちをした…シャア。ただ、違和感を覚えるとしたらいつものフットワークの軽そうなパンツジャケットではなく、鮮やかな赤いベロアで丁寧に作られたカラーに、金で縁取りの施されたローブを着て、真っ白な毛皮でぐるりとふちを留めてある長いマントを羽織った。…つまりは見たまま「白馬の王子様」をそのまま演じられそうな格好をしたトモダチの姿。
 シャア、とかすれた声で呼びかけた後にどうして言いか分からずに黙り込み、アムロはただ呆然とその姿を見つめることしか出来なかった。
「王子、あの…」
「ありがとうコウ君。話は全部ドクターから聞いたよ。君は少しその…下がっていてくれないか?アムロと二人で話がしたい」
 ぴしりと綺麗に型にはまった敬礼をした少年を見つめて、シャア…いや、殿下と呼ぶべきなのか、彼は硝子で出来たみたいな横顔を綺麗な笑顔にして肩を叩く。コウと呼ばれた少年は分かりました、と頭を下げると丁寧に礼をすると(これもきちんと決まった手順が有るのだろう)部屋を静かに出て行ってしまう。
 見知った、見慣れたトモダチのはずなのに、とアムロはとたんに降りてくる気まずい沈黙にうつむいて口を閉じる。
「あの…殿下、」
 窓の外では、かすかな歓声と間隔を開けて鳴り響く破裂音が、花火が始まったことを伝えていた。硝子一枚を隔てて、色つきの光が鮮やかに部屋の中を浮かび上がらせる。
「シャアで良いよアムロ。…いままでどおり、シャアでいい」
 おずおずと開いて絞り出した声はしかし、穏やかな王子…シャアの声に阻まれて空中に溶けた。なんて声を掛けていいのか分からずに戸惑っていると、ふわりと隣に降りてきたシャアの体重に、ベッドが柔らかくしなると二人分の重みを沈ませる。
 声も掛けられないような人だったのだ。普通に暮らしていたならば。
 少しずつアムロの中に入ってきていた彼は、気づけばこんなにも近くに…隣に居て笑ってくれているのが当たり前の存在になっていた。ほら、だから甘えるなと言ったんだ。心の中で、傍観者の自分がそう冷たく呟くのを感じて、アムロはしゃっくりのような声を上げると、泣きそうになる。
「…ごめん…なさい、僕、貴方に……」
 失礼な振る舞いを、とその先の声は出すことすら許されずに、体を拘束した強い力に動けなくなる。
「謝らないで、…私の目を見て話してくれ。いつもみたいに、…私はシャアだよ、アムロの知ってる、ただのシャアだ」
「…シャア……」
「そう、シャアだよ。…アムロには誰でもない、何にもとらわれないで…私を見てほしかったんだ。騙すつもりなんか……すまない、すまないアムロ」
 泣きそうだったのは、自分じゃなくて彼のほうだったのかもしれない。子供みたいにぎゅうぎゅう体を抱きしめられながら、気のせいかもしれないけれど、震えているシャアの肩を抱く。それは、思ったよりもずっと細く頼りない気がした。
 何度も謝る言葉は、きっと彼の言うとおり包み隠さず真っ直ぐな彼の言葉なのだろう。名前を呼んで柔らかな髪に触れると、少し熱っぽい体温がじんわりと手のひらに伝わって、それだけでアムロは少し、泣きたくなった。暖かい、暖かくて優しい体温だ。
「うん、分かってます。…シャアはずっと僕を見ててくれた。でも、僕はあなたに甘えるのが怖くて、……ずっと傷つけていたのは、僕のほうです」
 今にも泣き出しそうな目を見て、呟いた言葉はためらいがちに降ってきた唇に吸い込まれていて、驚くよりも何よりも、まず感じた安心感と幸福に似た暖かさに、自然と体の力が抜けていく。
 ずっと、ずっと欲しかった暖かさはこれだったのかも知れない。
「……逃げないのかい?」
 甘んじて唇を受けたせいか、離れた唇の吐息の合間からためらいがち囁かれた言葉に思わず笑い出す。ぽん、ぽぅん、びりびりとかすかな振動で窓を揺らす花火は佳境に差し掛かっているのか、ひときわ大きな歓声が上がった。
 不安そうな瞳を揺らしたシャアを少し迷ってから抱きしめる。
「逃げない…僕は、ここに、ここに居たいんです。シャアの隣がいい」
 微笑んで答えると、今度ははっきりとした意志を持って唇が押し当てられた。きっと冷たいであろう自分の唇は、貪欲にシャアの体温を吸い込んで少しでも暖かさを得られるだろうか、背中に回された腕がキツイくらいに抱きしめていて、それでも少しも…苦しいとは思わない。
 もっと、もっと抱きしめて欲しいと。
「ずっと居てくれ…ずっと、どこにも、私はアムロを失いたくないんだ…!」
「…シャア……?」
 色とりどりの光を撒き散らしながら跳ね上がった光が、きらきらと揺れながらシャアの髪を七色に染め上げていく。低く響く破裂音に混じって吐き出された言葉が、行為と裏腹に悲痛に沈んでいてアムロはいぶかしげに声を上げた。
 ゆがんだ瞳、今にもこぼれそうな光が見えた気がして息を飲み込んでしまう。…涙、
「…あなたは、僕の何を…」
 知っているの、そう聞こうとしたのだけれど最後まで言葉を接げなかったのは、自分の弱さゆえか。暫く何かを耐えていたような、シャアの唇が静かに開かれた。



「おはようアムロ。」
「おは…よう…?」
 それは、美しく晴れた秋の日の朝、僕の世界が始まった朝。
 僕の父さんは、僕に「アムロ」という名前をくれた。それは、彼の死んでしまった本当の息子の名前だと、しばらくしてから教えてもらったのだけれど、目が覚めたとき最初に告げられたその響きが僕の体を縛るのに一瞬も掛からなかったのもまた、事実だ。
「いい子だ、ちゃんと喋れるね。RX、私の天使、今日からお前はアムロだよ」
 私の息子だ。
 そういって優しく頭を撫でる腕がうれしくて、何も分からないまま僕はただただ笑っていたのだ。あの時、僕はあなたの息子にはなれませんと、アムロの代わりはできませんときっぱり跳ね除けるだけの知能が育ってなかったのはなんとも皮肉なことだろう。
 あの、壊れてしまった男は、それでもやっぱり僕の父さん、なのだ。拒むことなど、知らなかった。
「父さん」
 それに、どんなに歪んだ形であったとしても、確かに僕は父を愛していたし、父もまた、僕を愛してくれていた。
「愛しているよ、私の愛しいアムロ」
 それが、その一言が僕がこの世に生れ落ちてきた理由なのだと「プログラム」は言っていた。
 RX、それが僕の本当の名前だ。父によって作られたこの体は、見た目は確かに子供にしか見えないのかもしれないけれど、…人間などでは無論無く、この皮膚の下に流れているのは赤い血ではなく、透明な色をした溶液だし、臓腑の収まるべき場所には歯車で組まれた機械の塊が動いている。
 つまりはそう、僕は…人形なのだ。アムロの形をした、偽りの。
 必要とされること、愛されることが僕の全てだったのだから、その全てだった父親が居なくなってしまった瞬間から、僕の世界は音を立てて崩れ落ちていってしまった。これからどうして良いかも分からずに呆然としていた。
 でも、そこに現れたのがシャアだったのだ。再びくみ上げられていく世界は、父さんと暮らしていた時とは、比べ物にならないくらい大きくて広くて、戸惑うばかりだったのだけれど、とても楽しく…うれしかった。
 少しずつ扉を開いていく彼が怖くなったりもしたのだけれど、誰でもない、「僕」を見てくれるシャアが単純に好きになっていった。そしてまた、彼も「自分自身」を見てくれる僕に惹かれていったのだと笑う。
 それは単純にうれしくて、幸せなことだった。
 …父さんの腕から逃げられないことなんて、そのときはまだ…知らなかったから。



「時間…制限?」
 呆然としながらつむいだ言葉は、耳から吸い込まれて理解を得るまでにひどく時間がかかり、その間言われた自分自身よりもよほど苦しそうな目をしたシャアをずっと見つめていることが酷く悲しかった。
「そう、だ…時間制限、きっとテム博士が君の中に組み込んだ命令…だと思うとドクターは言っていた」
「父さんが、」
「君の体は…時間が来れば機能を停止してしまうと」
 今にも泣き出しそうな瞳が、ゆらゆらと不安定な光を湛えて揺れている。意外なことにシャアは僕のことを「知っていた」。というのはつまり、僕の体のこと、人間ではない、ということ。しかしシャアはそれ自体になんら動じることも無く、それは些細なことだよと髪を撫でてくれた。
 しかし、僕ですら知らなかった事実を吐いた後、彼は苦しそうな顔をしたまま何かを耐えるようにきつく体を抱きしめてきたので、僕はどうしていいかわからずに、ただ力ない声で鸚鵡返しに言葉を反芻した。
「それは、いつなの…?」
「分からない、けれどかなり危険な状態であるのも事実だ。さっきアムロが倒れたのも…そのプログラム…ドクターが言うにはウイルスの一種らしいんだが、それがかなり中枢まで蝕んでいるかららしい。それに、」
 エネルギーが無いんだ、と弱々しい声で続ける。
「君の動力源は博士が独自に開発していたものだから、…今は資料が残っていないらしい…」
「じゃあ、僕は……死んでしまうんだね」
 不思議と、落ち着き始めた頭はそれほど動揺を生み出すことは無かった。ただ、事実だけが純化されてすとんと心の真ん中に落ちてくる。死ぬというのがどういうことか、うまく理解できていないだけかもしれないけれど、それはただ、単純で確実な事実として吸い込まれていく。
(死んじゃうんだ、僕)
 それは、とても甘美な響きに聞こえた。死ぬ、なんてまるで…人間みたいで、無機物である自分が唯一手に入れられる「生きた」証であるように感じる。
「駄目だ…!死ぬなんて、…そんなこと、言うな…簡単に私の隣から居なくならないでくれ。折角……折角すぐ隣まで来てくれただろう…?」
「シャア、」
「こんなに近くに、やっとこれたのに、もうお終いだなんて……嫌だ、嫌だよアムロ」
 ぽつり、腕にこぼれた感触にはっとして顔を上げると、くっきりとした空色を湛えたシャアの両目から、透明な涙が一筋零れ落ちたところだった。嫌だよ、と子供みたいなわがままで腕を引く彼はしかし、その引き裂かれるような痛みが伝わってきてこちらまで苦しくなる。
 はらはら、はらはらと、零れ落ちる涙が痛々しくて、泣かないでと言いたいのにいえない代わり、震える体をしっかりと力いっぱい抱きしめた。
「ごめんなさい…」
 悲しませて、
「ごめんなさい…」
 あなたを好きになって、
 こんな顔をさせたいわけじゃないのに、あなたとは笑って隣に座っていたいだけなのに、シャアに近づこうとすればするほど、傷つけてしまっていた。謝らないでくれと震える声が告げたので、その代わりのごめんなさいを込めて、すっぽりと体を抱き寄せる。
「もう、どうにもならないというのか…?私は君を、失うのか…?」
 そんなのは嫌だ、と幼子のように首を振るシャアを抱きしめて、その透き通った目を見つめる。青い色が深くまで溶けていて、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。とアムロは思った。
「…どうにも、ならないって…そのドクターは言ったのでしょう?」
 シャアは答えられない、が沈黙が何よりの肯定だと、その震える肩が言っていた。
「好きなんだ、好きなんだよアムロ」
「はい。」
「…大切なんだ、…離す…ものか…っ」
「…シャア、」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしながらもきつく体を絡め取る腕の力は確かに強く、解こうとして簡単に解けるものではなさそうだった。
「シャア」
 しかし、そんな拘束も一言でとたんに力を失うということは…知ってしまっている。頬に触れて小さく何度も名前を呼ぶと、悲しそうな顔をしたままシャアはゆるゆると腕の力を失っていく。暖かな腕に包まれて、気を抜けばとろりと瞼が落ちてきそうな安心感が体を抱いている。
 抱きしめていて、離さないで。そう、言えたらどんなにか救われただろう!
「…ありがとう」
 かわりにそう呟いて頬を撫でる。暖かな丸みが愛おしく、冷たい指先にシャアの体温を残そうとするかのように、ずいぶんと長い間そうして見つめ合っていたように思う。気がつくと、涙の跡はやっと少し乾きを取り戻してきつつあるようだった。
「ありがとう。…大好き、大好きです。」
 これが、この時間こそが父さんが僕に残した愛情なのだと、シャアに言ってもきっと分からないだろう。壊れている、狂っている、でも…確かにこれは父さんが残した愛に違いないのだ。最後まで、彼のものであるために残された時間。
 もし、僕が壊れたらあの小さくて綺麗な丘に父さんの隣に、僕の墓は立つのだろうか。
「やめてくれ、そんな…最後みたいな言葉、私がほしいのはそんな言葉じゃない」
「…ごめんなさい……僕はあなたを困らせてばかりだ」
 最後の花火。視界が失われるほどの光の洪水があふれ出して、一瞬部屋の中は真っ白な光に満たされる。肩を急に抱き寄せたシャアの手のひらの体温を、きっと僕は忘れないだろう。泣きそうにゆがんだ横顔も、何度も名前を呼んだ、その声も。
 シャアが見てくれているのは、僕自身、それだけで僕はここに存在したという証は十分残された、と思いながら。
 渇きを癒すように、無我夢中でシャアの優しさに甘えてしまった。まるで、本当におぼれるように彼におちて行って、とうとう…こんなところまで来てしまっていた。終わりの見え始めた道のど真ん中に立っていて、それでもどうしたって離れては歩けない二人。
 ぴったりと繋がったみたいに寄り添ったまま、後戻りできない道に立ってお互いに抱きしめあっている。
「…僕はここに居ます。」
 繋いだ手が、暖かい。ずるい言葉だと思いながらも口に出したそれは、うそではないが、真実でもないもの。この時間が止まってしまうまで、先の見えてしまった道の、その終着点につくまでは、その言葉を裏に秘めている。
 今にも崩れ落ちそうな、絶望にくれたシャアの横顔は青白く月明かりに透けて、いまにも溶けてしまいそうに見えた。
「ここに、シャアの隣に」
「ずっと、と言ってくれ。ずっとここに居ると…私の隣に居てくれると」
 悲しげに霞んだ声に、静かに首を振る。優しく穏やかな、しかしきっぱりとした否定の意味をこめて、それはできない、と。
「後悔はしてないんです。…むしろ僕は、シャアに会えたことを神様に感謝します。……あなたは、僕の世界に色をくれた。」
「色、」
「そうです。父さんが死んで、…ううん、その前からずっと、僕の世界には色が無かった。でも、あなたが色をくれたから、だからこんなにも見える世界が増えたんです。」
 以前は、本当にグレイッシュな世界構成のなかに居た。ひどく、孤独だった。
 でも、色のしまわれた扉を、シャアは一つずつ開けて回り、とうとう最後の一つまで全て開ききってくれたから、僕はこんなにも自分が笑ったり、困ったり、泣いたり出来るなんて、あなたに会うまでは…知らなかったから、
「…大好きです。あなたが…大好き、シャア」
 うそじゃないよ、そういって微笑むと、
 …泣きそうな顔をして、シャアはきつくきつく抱きしめてくれた。



 丘に駆け上る青い風が、さらりと涼やかな音を立てて肩で切りそろえられた青年の藍の髪を揺らした。もういいんですかと目の前で自分に背中を向ける青年に声を掛けると、石のかたまりを軽く撫でた彼は頷いて立ち上がる。
 日に透ける、色の薄いハニーブロンドは僅かな風にすら揺れてふわふわと光を撒き散らした。
「すまなかったね、わざわざ付き合わせてしまって」
「別に…かまいませんけど。それにこれは僕の責任でもあるわけだし」
 視線の先では、綺麗にラッピングされた、こぼれんばかりのフラワーリースがいたずらな風にそよいで、数枚の花びらを空に巻き上げていく。
 三つ並んだ石碑、一番右は一番新しく、磨きぬかれた小さな大理石にはあまりに若すぎるその石碑の主の名前が刻み込まれていた。ずっとしゃがみこんでいたせいで、微かに不平の悲鳴を上げる膝を軽く叩くと、ズボンのすそに絡みついた白い花びらが風に散って飛んでいった。
「もうあれからどれくらいになるんだ、カミーユ」
 顔を上げた男は、しなやかに背筋を伸ばして前を見据える横顔に問いかけると、丘の上に立つ小さな小屋を眺めている。七年経ちますかね、藍色の髪を揺らしながらカミーユが静かに答えた。
 もうそんなに経つのか、か、まだそれしか経っていないのか、かそのどちらを言うとでもなく、そうか、と一言。何も変わっていないようでもあり、何もかもが変わってしまったようにも思える。
 白い雲、青い空、涼やかな風と…隣に居ない君。
(ずいぶん遠くに来てしまったな、私は)
 小高い丘から見渡すと、小さな森の向こう側に見慣れた自分の暮らす場所が見える。この場所に来て、こうやって眺めを確認するのはもう何度になるのだろうか、二人で訪れるよりも、アムロが居なくなってからここにきた回数のほうが多くなるほどには、月日は流れてしまっている。
 それでも、こうやって風の音しか聞こえないこの場所に立っていると、時間のわっかが外れてばらばらになり、こんにちは、なんて親しげな声を上げてアムロが現れるのではないかなんて思ってしまうこともあるのだ。
「君も無茶をしてくれるよ」
 数秒か、それとも数分か、撫でるまま撫でられるまま風の中に棒立ちになって、静かに町を見据えていた男が笑い、一瞬いぶかしげな顔を向けたカミーユも意図を汲み取ったのか、大人びた横顔(実際、猫のような中性的な顔立ちをした少年は、この七年で美しく齢を重ねていた)に不釣合いなほど子供っぽい笑みを浮かべて言った。
「それはまあ、成長だってしましたよ、あなただけの為だなんて、勘違いしないでくださいクワトロ・バジーナ陛下、」
「君も相変わらず意地が悪い。」
「それはどーも。まあ、貴方ほどではないと思いますけどね。」
 少しも動じないままそう言い放った青年は、すんなりと伸びた指先で所在投げに艶やかな髪をかき上げる。
「どうして誘って二人で来ないんです、俺なんか呼んだって貴方は面白くないくせに。それこそ意地が悪いって言うんじゃないんですか」
 そういうわけでもないのだよ、男が小さく笑う。
「ここには、一緒に来るような事じゃないんだよ。ここに居たのは違うアムロなのだし、私もあの子も、それを確認しに時々来るだけなんだ。一緒にきたら、きっと混乱してどうしていいか、分からなくなってしまう」
(七年前ここにいたのは、確かに私とアムロだった)
 そしてその二人はまだ、微かな笑い声の余韻を残して穏やかなこの丘に、確かに存在しているのだ。それは過去ではく、現在進行形での話である。
「笑ってくれて、かまわんよ」
 へえ、と分かったような分からないような返事を返したカミーユに、クワトロ呼ばれたその男は相変わらずのベビーフェイスのままそう呟いた。シャアと言う名前も、クアズバルという肩書きも、ここでは何の役にも立たないので、クワトロ、と皮肉をこめてカミーユは呼ぶ。
 それはその名が四番目に彼の仮面を作った、名前であるからだ。いつの間にか本名であるキャスバルさえ、演じ続けた役柄のせいか仮面の一つになり下がってしまっていて、一番その仮面が薄い名がシャアではないのかと、自分で思うほどだ。
「僕にはまあ、関係ない話ですよ。貴方がどれだけあの人と関係が深かろうと、僕は彼の特別になった。それだけで十分です」
「つまり君は二番目の父親と言うことか?…確かに天才なのは認めるが…」
「それを認めてくれるなら、貴方と僕が今同じスタートラインだってことも認めてくれるとありがたいですね」
 ゆっくりと丘を下りながら、にっこりと笑ってカミーユが言ったせりふは聞こえないふりをした。聞いていても居なくても、悔しいことにそれは紛れも無い事実だからだ。今更肯定しても否定しても始まるものではない。
 もうすっかり慣れた道を歩き、獣道を縫って町まで下る。穏やかに晴れた空からは、暖かな日差しが降り注ぎ、彼の甘い金色の髪に光の王冠を輝かせた。やがて馴染んだ城下町の大通りに差し掛かり、ずっと待っていたのか城門のすぐ脇には待ちかねたように手を振る小柄な人影と、その隣に寄り添って立つふた周りは大きな影を認めてこっそり苦笑する。
「王子―!遅いですよ!!」
「…コウくん、何度も言うようだが私はもう『王子』ではないんだが…」
 ぶんぶんと千切れそうなほど大きく手を振る青年は、相変わらずの童顔のまま、しなやかな手足をもてあまし気味に、すんなりと身長を伸ばしたコウと、眉間にくっきりと皺を刻んでいるガトー(こちらはあまり変わりは無い)だった。
 苦笑したまま注意すると、反省しているのか居ないのか、すいませんーと艶やかな黒髪を風に刻まれながら青年がぱたぱたと頭を下げる。その隣で、遅いぞなんて不機嫌な声を上げるのは言わずもがなガトーである。
「ああ、でも王子が王様なんて、まだ実感ないんですよ」
「ううむ…さりげなく傷つくな、それも」
 あっけらかんと笑って言うコウに、わかるわかる、などとカミーユも相槌を打っている。ますます眉間に濃い影を落とすガトーの噴火が怖かったので、まあそれはともかく、なんんてうまく結んでおいたけれど。
「コウ君もガトーも、もう会ってきたのかい?」
 相変わらずのハニーフェイスに太陽みたいな笑顔を浮かべた青年を見て呟くと、もちろん!だなんていわれてしまった。
「俺だって必死に研究しましたからね。彼を思ってるのは何も貴方だけじゃない」
「…だ、そうだぞ。」
 追い討ちも見事にカミーユとガトーのせりふが重なり、ううむ、と小さくうなったままクワトロは黙り込む。少しすねたような横顔に、金色を透かせた髪が毀れて白い頬に薄い影を彩った。
 綺麗に晴れた空、芳しい風は一様に集まった人々を優しく撫でていき、ただここに必要な残りのピースのひとかけらを待っている。
「あ、」
 やがて誰が上げたものか、気がついたようなそんな声が毀れ、カミーユが、コウが、ガトーが、そしてクワトロがはっと顔を上げる。
 ぱやぱたと、まだ微かに覚束ない足取りで城門を抜けてきたのは、あの陽だまりに似た暖かで優しい面差しを残したまま、しなやかな手足を喜びで満たして駆け寄ってくる人影。紅茶色をした柔らかそうな髪が、ふっくらと丸い頬を縁取り、同色の瞳は今にも泣き出しそうに揺れている。
 誰も、何も言えなかった。
(嗚呼、)
 何も迷うことなく、真っ直ぐ飛び込んでくる体は、見知った甘さを含みながら七年分を見事に経たもので、まったくそれに関しては、昼夜死に物狂いで研究を続け、ついにはレイ博士の研究を『超えた』カミーユに頭が上がらないばかりである。
 本人曰く、
「七年もかかってしまった」だそうだけれど、そんな時間すらどうでも良くなってしまうほどに今は、
「…っ……!」
 迷わずにまっすぐ飛び込んできた人影は、穏やかな笑みを浮かべて両手を広げて待つクワトロの元にたどり着き、すっぽりと図ったようにそこへと収まった。
 耐え切れなくなったのか、揺れる紅茶色の瞳からは幾筋も透明な雫が溢れてしがみついた腕をぬらす。
「…私が判るかい?」
 そんな仕草が狂おしいほど愛しくて、七年なんて隙間さえ一息に飛び越えてきたその体は何度も何度も頷くと、シャア、と。…ただそれだけの言葉が、ただそれだけの言葉を、どれほど待ち焦がれていただろう!
 それほど、待ち望んでいただろう。
「シャア、…っ、シャア…!」
 ぐずぐずと顔中涙で濡らしながら、きつくきつくしがみついてくる彼の体をしっかりと抱きしめ、七年前より少し大きくなった(それでも柔らかくて、暖かくて、彼の体はちゃんと『生きて』いる)体を抱きしめ、ずっと用意していた言葉を丁寧に囁いた。
「お帰り、…アムロ…、」
 ただいま。くしゃくしゃと笑った頬、唇にキスの雨を降らせながら、もう二度とこの子を離さないと思う。ふわりとその体を抱き上げると、一瞬驚いた顔をしたアムロは、今までに無いほどの笑顔を見せてくれた。

―――誰より君を、愛してる!

小さく叫んだ言葉は、長い長い間ずっと言えなかったけれど、再会の言葉と決めていたもので、アムロが待ち焦がれていたそれは、失ったものを全て清算して、
アムロの新しい世界を、作っていくだろう。

穏やかで幸せな日を祝福するように、空からは光の雫がもみくちゃになって再会を喜び合う人々に、優しい光を投げかけていた。


凍りついた時間が溶けて、
…やっと春が、始まるのだ。

作成:2006年1月25日
最終更新:2016年12月10日
宇宙世紀オンリーに出した本のサルベージ

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