貝殻の中

あ。まただ。

と、思った。
自分だけだろうか、大勢が詰め込まれるように座る広いブリーフィングルーム。鼓膜をひっきりなしに打つ、ざわざわとさざなみめいた音に混じって、時折聞こえるのだ。
澄んだ、もっと深いところから聞こえるような。
最初は艦のエンジン音かとも思ったのだけれど、どうもそれだけではないらしい。顔を上げると、テーブルを囲んで話し合う人の頭の向こうに大きく開いたガラスが見える。実際にはガラスではなく、艦のメインカメラが映す外の映像が映し出されているだけなのだけれども。
漆黒の闇、屑のように散った白い星。揺らぐはずのない絶対零度が、スクリーンの向こう側でわずかに揺らいでいるように見える。
ガラスに耳をつければ聞こえるのだ、いつも。ざあざあと水が地面を洗うような、波、のような。
「ウラキ少尉」
「え?あ、はいっ!」
ふっと一瞬でスクリーンが真っ白にかすんで、星空が掻き消える。大きなモニタに映し出された実践データのグラフとデータをぼんやりと眺める形になって、少々気まずい思いをしていると、急に呼ばれた名前に心臓が跳ねた。
見れば、モニターの前で先ほどから指揮棒を片手に熱弁を振るっていた若き艦長は、いつもどおり眉間にしわを寄せながら、じっとこちらを見つめているところだった。一斉に自分のほうへと集まる視線に、声に驚いて反射的に立ち上がってしまったことを後悔しながらも、視線の先を追う。
聞いていたのかと、無言で非難されているようでいたたまれない。
「…聞いていたのか?まぁ、…君は前線のパイロットなのだから頼むぞ」
無言じゃなかった。
すみませんとうつむいて腰を下ろす。すぐに遠のきかける意識の向こうで、ブライトがあれこれ指示しているのが聞こえる。…ガンダムは好きだけど。
ガンダムは好きだけど、いまだに引いたトリガーの先で機体が消え散る線閃光にはぜんぜん慣れない。
いつまでも手に残って消えない、と仕方なく手元の書類(配備一覧らしい。名前と機体、座標で次の作戦開始位置が示してあった。)を一心に読むフリをしながら考える。
本当は、トリトンの小さな基地の端っこで、宇宙を見上げながらテストパイロットをやっているだけだったのに。
確かに、ガンダムに乗りたくないといえば嘘になる。むしろ好きだし、
「俺だって人殺しなんてしたくないけど、このそらでむざむざ死ぬのなんてごめんだしな、」
視線を上げた先で、柔和な顔つきをした青年が笑う。
「アムロ大尉。」
一瞬何を言われたのかわからずに、しばらくぼんやりと、馬鹿みたいにその顔を見ていた。すぐにアムロの顔からは表情が消え、ブライトやラミアス艦長が飛ばす指示に傾いていく。
顔がない、と思った。そうか、この人きっと、
(人を撃つときもこんな顔してるんだろうな)
今の、大尉に聞こえてしまっただろうか、とアナログな腕時計の刻む音を聞きながら、遠くで解散を告げるブライトの声も聞いていた。
窓の外、今は見えない星の海の音がひどく煩い。


「随分、今日は集中できていなかったみたいだね、少尉」
それでは解散、とお決まりの文句もなくばらばらと無機質なブリーフィングルームから吐き出されていく色とりどりの軍服。統一感のないそれらをぼんやりと眺めながら、その中では地味な部類に入るであろう、自分のカーキ色をした制服の胸元を見つめる。
コロニーをデザインしたウイングバッヂ。モビルスーツの、パイロット証。
少し前々では、誰かに自慢してたまらないほど誇りに思っていたのに、と思う。今は胸元に輝くそれが、とても重量をもって自分を押しつぶしているような気がする。
肩を叩かれ、顔を上げると柔らかそうな栗毛が白いルームライトに透けていた。
「大尉、すみません、」
濃き青に揺れる目は先程の静寂な無表情とは打って変わって、やさしい光をたたえていて。安心しながら頭を下げると、まあそんなときもあるよねと笑い声。10年か、と自分と同じ、旧日本の血が混じるのだというその幼くさえ見える横顔を見つめると、彼は小さくつぶやいた。
「俺なんか19のころ、ずっと引きこもってたようなもんだからね。少尉みたいに一人で立ててなかった。…いいんだよ、俺たち機械じゃないんだから、人殺しだって平気なはずないんだし」
休みたいなぁ。はたらきたくなーい、と冗談めかして背伸びしてみせる彼の、どこまでが本気でどこまでが慰めなのかはわからない。壁に表記されたデジタルのカレンダーは地球時間で8月の半ばをさしている。
「夏休みとかほしいよねぇ。」
「…なつやすみ。あったんですか、大尉のところにも夏休み。」
ジュニアスクール時代はね、と彼が笑う。
「少尉は連邦のスクールに通っていたんだっけ」
「はい。自分のところは…オーストラリアに基地があったので、夏休みは12月だったんですよ。でも、7月だと…クリスマスパーティーとかありましたね。」
季節感の希薄になった連邦国家でも、クリスマスや新年のお祭り騒ぎは随分と楽しみにしていたものだ。
さして時間もたっていないはずなのに、と思う。
つい最近まで教科書とにらめっこをして、砂漠をかけるテストパイロットたちの姿に心を躍らせてる、ただの学生だったのに。いつの間にこんなに遠いところまできてしまったのだろう。今は窓の外に青く輝く地球すら見えない。
「クリスマスかぁ。なんかずっとやってないな、そういうの。…あ、そうだ忘れてた。君ガトー少佐とバディ組んでたよね。次の作戦のとき。今日のミーティングにも来てなかったみたいだし、これ、紙面ベースで渡しておいたほうがいいかな、とおもって。」
アナログだけど、と差し出された紙の束は、今日のミーティングで配られたものだ。
「…まだ、艦に居づらいみたいです。あの軍服で出回ると皆動揺するからって。かといってこっちの軍服を着る気も無いみたいですし」
「彼は彼の信念があるし、無理強いして飛べなくなったら俺たちにとっても大きな損害だし、ね」
「飛ぶ、」
語彙に違和感を感じて聞き返せば、穏やかな微笑が帰ってくるだけで。なんでもないですと両手で書類を受け取ると、よろしく頼むよと言った細い背中が遠ざかっていった。
「…飛ぶだって。」
確かに、アムロ大尉のνガンダムは、と思う。方翼を何も不自由ともせずにそれこそ飛んでいるように見えるけど。
果たしてガトーや自分のそれが当てはまるのだろうか、と。
(そういえば、アムロ大尉はそら、っていうもんな。)
この広大な宇宙が、彼には自由に飛び回る事のできる空に見えているのだろうか。
だとしたら、俺は飛ぶ事などできない。溺れるだけだ。
「・・・俺には無理だよ」
誰とへもなくつぶやくと、白い廊下を後にする。手元のグリップを握って壁を蹴ると、流されるように区画を移動する。
パイロット居住区のどん詰まり、目立たない角に設置された扉へ手をかけて体を安定させる。グリップはそのまま少し流れていき、廊下の角、レールの端にぶつかってカタンと小さな音を立てた。
「ガトー、」
プライベートルームのエアロックが、あっけなく開いて動揺する。軽い空気の音を立てながら開いた扉の先は漆黒で、空調の低いうなり声と、時折壁際で閃く小さな光と。
そういえば、この部屋には窓があったかもしれない、と思いながら一歩を踏み込む。無防備な丸腰のまま、獣の巣に踏み込むような寒気に一瞬足がすくむものの何を考えてるんだ馬鹿、と自嘲の一言で緊張はあっけなく溶けた。
「ガトー?」
「起きてる。ここだ」
寝てるのか、と手探りで部屋を進むと、つま先がベッドへ突き当たったところでぱちんと部屋に電気がともった。目の前のベッドの中はもぬけの殻で、ぽかんとしているところを背後から伸びてきた手に手の中の資料を取り上げられる。
ぽたりと首筋に落ちたしずくに、声を上げて文字通り飛び跳ねると、よろけた背中にどしんと何かがぶち当たる。恐る恐る顔を上げて、怪訝そうにこちらを覗き込むすみれ色の瞳と目があった。深いくせにひどく淡く脆い色の硝子球。透き通った色の中に窓の外の小さな星がくるくると揺れているようで。
「相変わらずやかましいやつだな」
失敬な、と思わず反論しかけ(実際、自分は普段別にやかましいほうではない。逆におとなしいし地味なほうだ、とも思うのだけれど確かにガトーの前ではむきになって騒いでいるのかもしれない)、むっとして唇を閉じた。「そんなことないもん」負け惜しみのような一言しか出てこないのがなんとも情けない。
「…あ、それ。」
「今日のミーティングの資料か、すまない」
ガトーのこういうところがキライだ、とこちらばかり勇み足になって、前傾姿勢のままつっこむにも突っ込めず、多々良を踏んでいる自分を恥ずかしく思いながらも「気にしないで」と小さく声を交わす。こういうとき、勢いにのって悪態のひとつでもついてくれればもっとらくちんだったのに。このいかつい大男は妙なところで律儀だ。
どうやらシャワーを浴びていたらしく、ゆるく結った髪からはぬぐいきれて居ないしずくがぽたぽたと床に小さなしみを作っていた。
「…訓練でもしてたの?」
「うん、まあ…そんなところだ。練習用の機体が空いていたからかりた。シュミレーションばかりではなまるからな」
たまには実際に泳がないと、すぐに泳ぎ方など忘れてしまうと。窓の外を見ながら小さくつぶやく声にはっとする。
「あれ、」
「・・・なんだ。口を閉じろ。馬鹿みたいだぞ」
「うるさいなぁ、いちいち!」
ぽかんとほうけたところに突っ込まれて、またむきになって巻き返してしまう。タイミング悪いよもう!馬鹿みたいに二度三度と地団駄を踏んで顔を上げると、面白そうにこちらを見下ろす顔。いつものモスグリーンの軍服ではなく、シャツにパンツの軽装がなんだかくすぐった組みえてしまうのは、自分は相当な病気だろうか。
ガトーの腰掛けたベッドが小さくスプリングの音を立てる。決して上等とはいえないベッドの、大きな窓の向こうには黒い海。
「ガトーも、海なんだって思って。」
部屋に備え付けた小さな冷蔵庫から取り出した透明なペットボトルを、のどを鳴らして飲みながら不思議そうにこちらを見返してくる。全体的に色素の薄いシルエットが、漆黒の窓に切り抜かれてくっきりと浮かび上がる。
また、
まただ。
耳の奥でさざなみの音が煩い。
「…宇宙をさ」
指し示すように顔を窓へ向ければ、それにつられてすみれ色の視線も窓へと吸い寄せられる。
「アムロ大尉はそら、だって言ってたから。ガトーは海なんだなって思って」
「…ああ、そういう」
「俺もね、海だと思ったから。」
相変わらず要領を得ないような会話にも、ガトーはどうやら慣れたらしい。そうかとつぶやくと、窓ガラスに頭をもたせかけて静かに目を閉じる。
「お前は地球育ちなんだろう?ならばそう思っても不思議は無いんじゃないか」
「…なんで?」
「何でって…、私はアースノイドじゃないが…地球に降りたときに夜中に見た海、あれは宇宙にしか見えなかった…というか。」
こんなところに地球があったのかと、宇宙に戻ってからうれしくなった。
「…逆じゃね?」
「む。なぜだ。」
「だって…ガトーはスペースノイドで、宇宙から見れば地球のほうが中にあるものだし。」
でも、と硝子に頭をくっつけたままガトーがこちらを向く。あーあ、せっかくきれいに掃除してもらってるのに、ガトーがぬれた頭なんかくっけるから、髪の毛のあと、ついちゃってるじゃん。何でいろいろ考えるくせにこういうところで無神経になるんだろうと不思議に思いながらも、その視線につられて顔を合わせる。本当に、この男は自分にとって未知数だ。
「…でも、なんだよ」
「すべての命は海から生まれたんだろう?…私はスペースノイドだが、私もはるか昔をたどれば地球から生まれたのだろう?海から、生まれてきたのだろう?」
…本当に未知数だ。
と、唖然としながらコウは思った。
そんな当たり前のことは知っていた。けれど、改めて、しかも自分とは敵対関係にあるはずの男に、だ。そんな当たり前のことを言われるとは思ってもみなかったから。
「だから口を閉じろ。馬鹿みたいだぞ」
「だから煩いってばもーーー!」
ばくん、とわざと音を立てて口を閉じると、体を弾ませてベッドに腰を下ろす。どすん、と自分の腰が沈むのと同時、調節してあるとはいえ1Gに満たない重力の中で、かすかにガトーの体もはねる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
水に流れる海草みたいにガトーの髪が揺れた。
「…なんか、…納得したかも」
「何がだ」
自分で言っておいて自覚がなかったのかこの男はと、あきれながらも「海が」と口を開く。肩にかけたタオルで無造作に髪をぬぐいながらガトーは相変わらず表情のつかめない瞳をしてぼんやりと星の海を眺めている。
「空に居るのは鳥ばっかりじゃないってこと。魚も水がめも、川もあるよねって」
「意味がわからん。」
「意味がわかんないのはガトーのほうだろ!自分で言い出したくせに。」
黒い水にゆれるのは無数の小さな泡。分厚い強化硝子の向こうは絶対零度の海だ。
「アムロ大尉は海じゃなくて、空だって言ってた。」
「そういえば、」
どうせ聞いていないと思ったのだけれど、独り言のように呟いた言葉にガトーはタオルドライをしていた手を止めてこちらに顔を向けてくる。透き通ったすみれ色は、アメジストに似ていた。
「…ジオンでも、宇宙をうみ、とそら、と呼び方は違ったかもしれないな」
「へぇ、」
シャア・アズナブルを知っているか、とガトーが言う。無論知っている、とコウは思った。連邦の教科書のをめくれば、ジオンのパイロット一覧の「いの一番」に乗っている顔ぶれだ。そんなことを言ったら、この目の前に居るぎんいろをした大男だって、「いの二番」くらいには居るのだけれどそんなことを言うのも癪だから黙っておくことにした。
「そのシャア・アズナブル大佐もな、宇宙を空だといっていた。…多分、彼にとって宇宙は還る場所ではなく、手段の一つでしかなかったんだろう」
「…あんたは違うの」
「私か?」
「ガトーは海に還りたいと思うの?」
何を言われたのか理解できなかったのだろう、厳つい大男は一瞬ほうけたように目を丸くしてこちらを見つめ返してきた。水分をたっぷり吸った銀糸は、滑らかな光をたたえて太い首を流れ落ち、滝のように見える。
「…スペースノイドなのに、海に還りたいとと思うの?」
「……そうだな」
地球は好きだな、とあまりに場違いな一言に今度はコウが固まる番だった。
言うに事欠いて、この男は一体何をのたまっているのだろう。地球、綺麗だしな、とついでのように付け足された一言がさらにその奇妙さを浮き立たせる。
「…好きなの、地球、」
「何でそんなに不思議そうな顔をしているんだお前は。失礼な奴だな。スペースノイドだから地球を好きでいてはいけないということもなかろう?」
「そうだけど、」
と、正論に二の句を継げずに黙り込む。
自分は地球生まれだから、と思う。地球生まれだから、海は足の下にあるものだと当たり前のようにして育ってきた。無論、コロニーの存在は知っている。
訓練校時代の実習で、実際にコロニーに行った事もある。それでも頭上に海も、空も、大地すら存在するというのはどうにも落ち着かないものだった。しかも、硝子一枚隔てた足の下には広大な宇宙が広がっている。
箱庭。
小さな頃、祖母の家で見たことがある、小さな細工箱の中に精巧に形作られた綺麗な町並み。綺麗で、小さくて、作り物の街。コロニーへ足を踏み入れたとき、あの細工箱の中に踏み込んだような奇妙な違和感を感じていた。のは多分、
(・・・おれも、地球が好きだからかな。)
冷たいばかりに見えていた窓の外の漆黒は、微かな銀色を含んだ細かな粒子を漂わせて、ゆっくりとしたうねりを形作っているようにも見える。それがミノフスキー粒子の残骸なのか、それともうみの水なのか、コウにはわからない。
昔いつだったか読んだ話(もう随分と昔の事だ。まだ自分が幼い頃、母だったか祖母だったか父だったか忘れたが、何度も何度も繰り返し読んでもらったことがある)では、天の川は透き通った水晶のような冷たい水で出来ていて、肌を触れたところから水面を切り裂いて銀色の炎を上げるのだと、そう言っていた。川原には、体の中に小さな火を燈した水晶の砂利が敷き詰められ、どんなに走っても膝も痛くならない。
プロシオン海岸、だったっけ。確かその海岸の近くでは、何十万年も何億年も昔に滅んだ大きなトカゲの化石を発掘しているんだ。
「地球に行っただろう」
「えっ、」
急に声をかけられて素っ頓狂な声が上がる。
まっすぐに目を覗き込まれて、透き通った紫に吸い込まれそうになる。きっと天の川の川原の石も、こんな綺麗な水晶なんだろうか。
「…10月13日だ」
静かな声。ぼんやりとしていた思考を捕まえたそれは、たちまちコウの意識をさして過去でもない、数ヶ月前の時間の中へと引きずり込んでいく。
覚えているのは混乱と、引き裂かれるような痛みと悲しさと、屈辱と憎しみと。
「あんまり思い出したくはないけど」
それもそうかと苦笑する男の声は柔らかい。あの時は、どうしてこの男がこんな声も出せるものだと思っただろう。
「あの時、地球に行っただろう。夜、海岸で海を見ていたんだ」
ガトーの目は今は自分でも窓の外の宇宙でもない、過去の海を見ているように思える。薄い紫色の瞳には、微かな海の色。見えているのだろうか、彼にはこの絶対零度の波のずっとずっと向こう側、小さく蒼く輝く星が見えているのだろうか。
「まっくらっただろう。連邦に見つかってしまうしな、ライト一つつけられなかった。」
「…そりゃまあ、そうでしょうよ」
だから見えたんだ。
と彼が笑う。
(…何だよその顔)
心臓が、止まってしまうかと思った。
一瞬、酷く穏やかな視線をして笑うものだから、本当に、子供みたいに嬉しそうな顔をするものだから。
ふわりと気難しそうな顔の表面に浮き上がった表情は、すぐに解けて消えてしまったけれども。一瞬とはいえ浮き上がったその表情は、瞬く間にコウの脳裏に焼きつく。ピンヒールカメラの転写みたいに。ぼんやりと、けれどしっかりと。
「うみが見えた。」
「そりゃ海に居れば、」
「違う。そっちの海じゃない。そらの、星が落ちてきそうなくらいで、月明かりもまぶしくてな。それが全部船の浮いた水面に吸い込まれていたんだ」
ガンシップは、空に浮いてた。
と、ガトーは言う。
「オーストラリアは空が広いから」
「…そうだな、あのうみで、泳いで見たいと思ったな。モビルスーツは使わずに、自分の体だけでうみを泳げればと、」
ざぁざぁざぁ。
まただ。
また、窓の外からはすすり泣く様なさざなみの音が絶えず耳を打つ。
ゆっくりとたゆたう絶対零度。透明な強化硝子を叩く、見えない水。
「…波の音が、」
ふと呟くと、驚いたようにガトーが顔を上げる。聞こえるのか、とその唇が刻んだ。
艦に乗った直後、宇宙を航行するようになってから時折聞こえるようになったこの音は初めは何かの病気か何かと思い、精密検査を受けてみたものの特に異常は見つかっていない。
「うるさいくらいだな」
だから、そんなことを言うから、思わず目を合わせてしまう。
ガトーにも聞こえるのかと問うてみれば、ここは硝子一枚隔ててうみだからだろうと、さして当然のことのように言ってのける。
…当たり前のことを、当たり前に言う。この人はほんとうに、
(純粋なのかもしれないな)
「あのさガトー、貝殻の音って聞いたことある?」
「貝殻?」
「そう、海辺でさ、巻貝とか拾うだろ。中身はいってない奴。そういうのを、こう、耳に当てると海の音が聞こえるわけ。たとえば家に持って帰ってきて聞いても聞こえるの」
ほう、と感心したような声。それで、と無言で先を促されて続ける。
「なんでだろうって小さい頃ばあちゃんに聞いたら、それは貝が海を恋しがってるからだよって。海の音を貝殻はずっと覚えているからだよって。」
本当に、小さい頃はあの小さな巻貝の中に海が広がっているものと信じて疑わなかった。巻貝の奥、目の届かないその場所は海と離れていてもつながっていて、ずっと海の音を歌い続けているのだと。
「聞いてみたいな、貝の音か」
「聞けるよ。」
貝殻はないけど、と両手で見えないボールを包むようにゆるく合わせ、貝殻の形を作ってやる。
怪訝そうな顔をするガトーへ、耳を当ててごらんよと促す。手の合わせ目を僅かに開いて隙間を作ってやると、そこへ促されるままつめたい耳が押し当てられた。白くて、薄い、貝殻みたいな耳。
ごっつい顔してるくせに、と体格には不釣合いなほど薄くしろい、冷たい耳たぶに笑みがこぼれる。彼は、相変わらず気難しそうな顔をしたままぴったりと手のひらに耳を当て、熱心に音に聞き入っているようだ。
「聞こえる?」
こくん、と頷く首。
顔を上げた彼は、少し驚いたような目をしていた。
「…聞こえた。地球で聞いたのと同じ、波の音だ。」
「でしょ。」
自分でも手で覆いをするように耳をふさげば、さぁさぁと微かなさざなみの音が繰り返し鳴り響く。
本当は、
「これはね、おれの体が海とつながってるから。」
人の体の鼓動の音なのだと、知ったのは随分後になってからだったけれど、やっぱりこの音は海の音なのだ、と実感する。人の体が、海を抱いているから。
「ガトーの体からも聞こえるよ、波の音。…ガトーもおれも、海から生まれたから、だから聞こえるんだよきっと」
夏休みがほしいなぁ。と、波の音を思い起こしてコウは呟いた。
ばたんと硬いベッドへひっくり返れば、視線の端っこで自分で作った貝殻に、熱心に耳を傾けている大男の姿が見える。
「ねぇ、ガトー」
「…なんだ」
海が見たい、と急に思った。コロニーの空に回る海ではない、どこまでも丸い地平球の。オーストラリアの黄色い大地と蒼すぎる空の下の。
「何で戦争なんか、してるんだっけ」
ぽつんと声が零れ落ちる。無造作に転がったそれは、静かに水面に落ちて幾重にも波紋を広げながらさざなみを立てた。
さぁさぁと、小さく、小さく。
スローモーションで振り向いた横顔の、肩から滑り落ちた髪がとても綺麗だ、とコウは思った。ルームライトの鈍い光をたっぷり吸い込んだそれは、微かな星を瞬かせて天の川みたいに見える。
「…なんでだっただろうな」
そんなことわかるはずもない、と言わんばかりにガトーも首をかしげる。この男は。
これが意識的なことであれ、そうでないにしろ、相当な曲者だ。反則だ。教科書にはそんなこと、この男のこんなことは何一つ書いていなかった。
数値上のガトー、コウが知っているのはルウム戦役での撃墜数や、歴代乗りこなしてきたMSの種類。全部全部、
(どうでもいいこと、か)
「海、見に行こうよ。」
だから、無意識に声になってぼれたそれは、とてもすばらしい提案のような気がした。ガトーも、いつの間にか窓の外の虚空を見つめるのをやめて、まっすぐにこちらを見返してきている。
「夜の海だな」
ふいに、伸びてきた手に髪を撫でられる。びっくりして目を見開くと、その言葉が何を指していたものだか耳の中で反芻して考える。よるのうみ。で、何で頭なんか撫でられなきゃいけないんだろう。
「お前の頭。うみの色だな」
「…普通海の色は青だよ。」
それを言うならカミーユの鮮やかなサファイアブルーを思い出すのだけれど、そういうと彼は違うのだという。
「・・・私がみたのは、夜の海だからだ。このうみと同じ、黒くてきらきらした海だ」
なんて、本当に子供みたいなことを言う。
悪くないな、と思った。ビーチサンダルで、Tシャツ一枚で、ガトーと散歩をするのだ。オーストラリアの、夜の海を。
「戦争が終わったらさ。」
「うん?」
「見に行けば良いよ、戦争が終わったら。おれ、案内するし、…すごく、綺麗だから」
だからガトーにも見せたい。
と、そういって真剣な目で笑えば、彼は一瞬驚いたような顔をしてから、告白みたいだなと笑う。
告白なのかもしれない、と考えてからなんだか馬鹿馬鹿しくなって笑う。なんで俺達こんながむしゃらに戦ってるんだっけか、なんて。
「早く終わると良いね、戦争。」
「…そうだな」
他人事だ、とおかしそうに笑いながらガトーが言う。
これ、終わったら夏休みだな、と。海の色だと良いながら頭を撫でるガトーの手を心地よく感じながら、小さくコウは呟いた。
窓の外では、心地よい音を響かせながら、うみがゆっくりとたゆたっている。

作成:2009年8月15日
最終更新:2016年12月10日
夏の海をテーマにしたアンソロに寄稿したものでした

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