どうしようもない僕に天使が降りてきた

 ばたん!!


 思わず耳をふさぎたくなるような大きな音を立てて、目の前の扉が勢い良く閉まる。閉まるというよりも、叩きつけると言ったほうが良いかもしれない。唖然とその扉を見つめながら、しかし何も言うことが出来ずにただ呆然と。…呆然と。
「……。」
 めちゃくちゃに散らかった部屋、あっちこっちに落ちた小物や文房具たちが、無言で自分を責め立てているような気がして居たたまれない。「ほら、言わんこっちゃ無い。」一様に皆、そういっているような気がした。
 扉が閉まった勢いに巻かれて、無残に引き裂かれた枕から溢れた、大量の羽毛がひらひらと舞い上がる。ひらひら、ひらひら、まるで真っ白い雪が降りしきっているみたいで、迂闊なことにシャアは一瞬見とれてしまっていた。
 事の始まりは、どこだったのだろう。この居心地のいい部屋に来てからもう半年、不思議な同居人が増えて、まだ一週間、といったところだろうか。舞い上がった羽は容赦なく部屋中に降りしきり、情けない顔をしてキッチンに据え付けられたカウンターに力なく肘を突いたまま、このまま部屋を片付けるべきか、それとも飛び出して同居人を追いかけるべきか暫く悩んでしまっていた。
 大きな窓の外では、時々思い出したかのように車が壊れたエンジン音を響かせながら通り過ぎて行き、定員をゆうに超した人数を押し込まれた乗り合いタクシーの呼び込みの声が、独特に間延びしたアクセントを伴って遠くに消えていく。とっぷりと日は暮れて、間を置いて点灯する外灯と、けばけばした色合いの通りに面した看板だけがあたりを薄ぼんやりと照らしている。
「ばか!」
 拙い言葉で、それでも必死に自分を責め立てて飛び出していく背中が、いやに瞼に焼き付いて離れなかった。小さな背中、怒りを耐えて叫んだ……泣きそうな横顔。
「……くそ、」
 久々に口を付いて出た母国語は、口汚いののしりの言葉だけだった。アムロに、ではない。自分に、あの泣きそうな顔を見て見ぬ振りをしてしまった自分の弱さに、今更ながらに腹が立ってきていた。
 また、あんな顔を見てしまった。それも今度は自分が原因だ。不可抗力だと言うことはアムロも十分承知だったのだろう、けれど生理的にその不安定を抑えられなかったのだ。
 馬鹿みたいにこんな、
 他人なのに、
 ただのルームメイトで、
 おまけにまだ一週間しか一緒に居ないのに。
「アムロ、」
 あの小さな背中はどこに行ったのだろう。早く見つけてあげないと。きっと飛び出したアムロの手に握られたままになっていた目覚まし時計が、一秒ずつ彼を苦しめているはずだから。






 アムロを「拾った」のは、丁度一週間と少し前の雨の日だった。
「…?」
 しとしとと陰鬱な雨が続く、薄暗い午後、かさを必要とする程でもないそれに、頭からパーカーのフードをすっぽりとかぶってコンビニエンスストアのビニル袋を片手に、間借りしているフラットへの道を歩く。はじめは、どこかのルンペンかはたまた野良犬だと思った。
 公園の前に、ぽつんと。
 濡れた、少し赤みがかった髪の毛が、重そうに水分を含んで目元を隠している。髪だけじゃない、全身を降りしきる雨に満遍なく湿らせて公園の入り口でうずくまっていたのは、大荷物を抱えた子供だった。…いや、子供…ではない。確かに自分に比べて小柄ではあるが、まるまった背中にはしっかりとした骨格が見て取れたし、荷物を抱える指もそこそこ長い。女…いや男だろうか、そのびしょぬれの物体は動かないので、まさか死んでるんじゃないだろうなと少し不気味になったシャアは、よせば良いのに気づいたときには思わず声を掛けてしまっていた。
「…生きてる?のか?」
 ぴくん。
 濡れた肩が、微かに震えてもそもそと蠢く。声に反応したのか、それとも気配に気づいたからかは分からなかったけれど、その茶色い塊はゆっくりと顔を上げると、ぱちりと開いた目で真っ直ぐに、シャアを見つめていた。
 アーモンド形をした、少し大きな瞳、濡れて重そうに伏せられた睫、そして何より彼が驚いたのは、その人物の顔立ちだった。
 これはまるで、東洋人じゃないか。
「どうしたんだい、こんなところで、」
「…て」
 唖然とシャアを見つめたままの目に、心配になって屈み、声を掛けると青年(だろう、多分)は震える声を必死に絞り出して呟いた。
「なんだって?」
 ずっと雨に打たれていたからだろう。かすれた声は幾分聞き取りづらく、首をかしげて聞きなおしたシャアに、柔らかい象牙色をした肌が、指が、すがり付いてくる。
「…助けて」
「ちょ…っ、ちょっと君…!」
 たどたどしい英語で、確かにそう呟いたと思った途端。
 ずるり、と。傾いだ体はそのまま屈んだシャアの腕の中へと崩れ落ちて、唖然とする青年を尻目に気を失ってしまったのだ。
 何てことだ。
 少し強まった雨脚と、コンビニの袋、気を失った東洋人、抱え込んだボストンバック。この大荷物、全部運ばなきゃいけないのかなぁと、絶望的な顔をして、自分のお人よしさ加減にちょっぴりうんざりしながらも…シャアは大きすぎる荷物を両手に抱え上げたのだった。

Amuro Ray
 失礼だとは思ったものの、身元が分からないのではどうしようもないので、探ったポケットの中に入っていた旅券を開くと、名前はそう記されていた。アムロ・レイ。旅券は日本のものだと書いてあり、さらに中を確認すると学生ビザが発行されている。
 …ということは留学生なのだろう。
「…日本人、ね。留学生だったと。」
 シャアの間借りしているフラットには、以前インドからの留学生だった少女が一緒に暮らしていたのだが、先日ビザの期限が迫っていることもあり、彼女は母国へと帰還してしまった。その際に使われていた部屋が空いたため、びしょぬれだった青年…アムロの体を申し訳程度にタオルで拭くと、空っぽのベッドへシーツを引いてそこへ体を横たえてやった。自分とは違う顔立ち、丸い鼻が弱々しく、けれど案外しっかりとした呼吸をしていることを確かめてほっとする。
 それにしてもあんなところで一体何をしていたと言うのだろうか。アムロの顔立ちは、一昔前の女優みたいな、整っているくせに太い眉が酷く中性的なイメージをシャアに与えた。旅券の性別にはしっかりと男と刻まれていたけれど。
 濡れた荷物は、そのままにしておいても状態が改善するとは当然思えなかったので、ボストンバックのチャックは開いて床に引いた新聞の上に並べて置いておいた。窓際に並べれば良かったのかも知れないけど、生憎陰鬱な天気は続き、汚れた大きな窓の外ではしとしとと強くも弱くもない雨が降り続いている。…いやな天気だ。
 さて、この一番大きなお荷物はいったいどうしたら良いんだろうか。警察に届けるべきか、それとも事情を聞いて留学生ならホームステイ先を探してもらうべきか。
「……、」
 らしくもなく真剣に考え込んでいた矢先に、小さな吐息、今までと違う一息を漏らして青年が薄く瞼を開いた。すっかり乾いた睫が彩る瞳は、雨の中で見たよりも明るい飴色をしている。暫く、自体を理解しかねたのかきょろきょろと辺りを見回していたその赤毛の丸い頭は、自分の姿を認めると漸くせわしない動きを止めた。
「おはよう、アムロ・レイ」
 にっこりと、極上の笑顔を向けて挨拶をしてやると、しばらくぼんやりとしていたアムロの柔らかそうな丸い頬はさっと赤みを指してから一気にそのまま青ざめた。恐らく、どうして自分の名前を知っているのか、とここはどこなのか、と貴方は誰なのか、とか言いたいことが一気に押し寄せてきて混乱しているのだろう。
「あの、俺は…」
 結局事情説明から入ることにしたのか、たどたどしい英語を紡いだ青年はそこまで呟いたところでいきなり言葉に詰まってしまった。暫く考え込むように頭をめぐらせていたのだけれど、困惑したように眉を下げると一言、
「あんまり…しゃべれないんだ…」
「うん、いいよ。」
 あっさりと肯定の言葉を口にすると、青年は多少は驚いたようで。それでもゆっくりと頭をめぐらせて言葉を選んでいるようだった。
「空港で、迎え…会えなくて」
 しどろもどろの口調はしかし、めちゃくちゃな文法ではあったがシャアに彼の置かれた状況を理解させるには足りるものだったので、なるほど、と呟いて首をひねる。つまりは空港に迎えに来るはずだったホストファミリーだか、迎えの代行だかが現れなかったのだろう。しかし、だとしたらどうやって、
「…で、歩いてきて」
 ああ、なるほど歩いて…
「って、ええ?!歩いて!?」
 たどたどしく状況を説明する口調に、一瞬すんなりと頷きかけたもののその口から出たとんでもない一言に素っ頓狂な声を上げたシャアは間抜けにも目を丸くしたままベッドに半身を起こしたアムロの顔をまじまじと…たっぷり五秒ほどは見つめてしまっていた。
 歩いてきた、とアムロは言った。どこから?…勿論空港からだろう。ゆうに三〇キロはあるのに。
「よ…良くもまあたどり着けたものだな」
「二日かかっちゃったけど。」
 参ったんだよ、とでも言いたげな顔をして見せた青年にシャアはまじまじと顔を見たままそのとんでもない行動に思いを巡らせていた。お世辞にも英語がうまいとはいえないのに、空港から歩いて二日。さらに重ねて言えば治安だってよろしくないお国柄。よくもまあ無事にたどり着けたものだと思う。
「とにかく、何か作るよアムロ君。君だって二日も歩き通しじゃ疲れただろう?その様子じゃどこかでまともに食事をしたとも思えないし。」
 やつれたのか疲労のためか、とにかくあまり良好とはいえない顔色を見て呟くと、タイミングよく「ぐう」とアムロの腹は不満の声を上げた。なんだか間抜けなその音に、けれど笑うタイミングを逸して赤毛の青年は黙り込む。もしかしたら言葉を選んでいるのかもしれなかった。
「あの…、ありがとう…ええっと…」
「シャア、だよ。シャア・アズナブル。さん、も君もいらない、ただのシャアでいい」
 ミスター、と言いかけた口を指先でふさいで笑って見せると、多少ぎこちなくはあったものの、「ありがとうシャア。」そう言ったアムロは、やっと屈託のない笑顔を向けてくれたのだった。


あまり上等だとは思えないけど、それがアムロ・レイとの奇妙な生活の始まりだった。
たどたどしい英語で彼の話すところによると、どうやら留学生案内所の不手際で、ホストファミリーとの間に情報の行き違いがあったようだ。自分は暫く、のつもりで空いたベッドを貸し出していたのだが、気が付いたらすっかり住処を覚えた猫みたいにアムロはふらふらとフラットに住み着いてしまった。どうやら昼間は近所の語学学校に通っているようだけれど、夕方になるととことこと帰ってきて、
「ただいま」
 無邪気にそう笑うものだから、つい追い出すタイミングも、言葉も見失って何も咎める事も出来ずに…結局の所甘やかしてしまった。…のだ、多分。私が悪いんじゃない。
 毎日、その日にあった出来事をたどたどしいながらも、話すようになってくれるまで、そう時間は掛からなかった。やはり上手いとは言えないけれどゆっくりとした口調は、聞いていて気分が悪いものではないし、それに。
 …一人ではない生活と言うのは、どうしてこう甘美に精神を安泰へと導くのだろう。共にすごしてきた少女と別れて少し、一人きりで過ごしていたフラットは、酷く冷たくて、寂しくて、なんとも味気のない生活だったのだろうと思い返す。
「シャア」
 母国の、正確には正しいと言えない独特の発音で自分を呼ぶ声は、決して高いわけではないけれど、耳の奥に残る甘いものだ。安心する、もっと聞いていたい、と考えよりも先に体が求めてしまう。
(ガキか、私は)
 聞いていたレコード(これはなんと部屋に据え付けられていたものだ。状態が良く、聞けるものだったので、時々古いレコードを買ってきては聞いている。これはアムロも気に入っているらしかった)から針を上げて苦笑する。足元にはこのフラットに住み着いている、白と黒のしなやかな猫が擦り寄ってきた。
「私は飼い主では無いのだよ…」
 ごろごろと喉を鳴らして甘える、小さく暖かい毛の塊を抱き上げて撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。名前が無いので、ただ子猫ちゃん、とだけ呼んだ。プッシーキャット。もう子猫と言う年では無いのかも知れないけど。
「シャア、お茶、わいたよ」
 くすぐったそうに身をよじって、軽やかに腕から抜けて行ってしまった猫を、恨みがましく見つめていると、キッチンから顔を出したアムロがマグカップを片手に声を上げた。いつの間にか猫は勝ち誇った顔で、アムロの柔らかそうな腕に体を摺り寄せている。…このやろう。小さく口の中で呟いたのは、勿論アムロには内緒だ。
「ああ、有難う。ミルクと砂糖…アムロはレモンかな」
「俺も、ミルクと砂糖がいい」
 いつもの癖で、大降りのマグカップを片手に、暖かなミルクティをキッチンに立ったまま飲む。ゆっくりと胃の中に滑り落ちていくベージュ色をした液体は、体を深いところからゆっくり解きほぐしてくれる、アムロの声と同じだ。
「銘柄、変えたのかい?いつもと味が違うな」
 目の前に立ったままのアムロの肩に、顎を乗せて呟くと、一瞬びくりと肩を震わせた青年は一度大きく息を吐いてから振り向いた。どうやら、日本人のこういった接触のあるコミュニケーションが苦手と言うのは本当なようだ。少し、目元が紅い。
「分かるの?昨日紅茶が無くなったから。買ってきた。…おいしくない?」
「いいや、私はこちらのほうが好みだよ。ミルクティに丁度良い」
 不安そうな青年の目を見て小さく微笑むと、安心した色を湛えてこくりと喉が動く。いつも会話のたびに黙り込んでしまうのは、こういったことが嫌いなわけでは無く、言葉を選んでいるのだと言うことは、ここ数日のアムロの行動を見ていて学習したので、なるべくプレッシャーにならないようにさりげなく視線を外す。顎の下の肩から伝染する体温が気持ち良いなんて言ったら、怒られるだろうか。…それとも呆れられる?
「シャアってば、子供みたいだ」
 結局の所、最終的にアムロの口から漏れたのはそんな一言で、思わず面食らって目を丸くする。子供。
「…そうなのか?」
 肩に乗ったままの頭を、アムロのマグを持ってい無い片手がぽんぽんと撫でる。その手が気持ちよくて、自然と目を細めて笑うと、その仕草がプッシーにそっくりだと言ってはまた笑った。
「……馬鹿にされているのか、もしかして。」
「そうじゃなくて、」
 呟いてから、暫く考え込んだアムロは、単語にたどり着いたのか少し頷くと笑って呟く。
「誉めてるんだよ」
 なぉぉ。かたん、と小さな音を立てて再び古びたレコードが部屋に流れ出す。かすれたノイズ交じりの音。見ると、構ってもらえなかったのが不満なのか、レコードプレイヤーの乗ったデスクに座った猫が不満げに鳴いて、振った尻尾でレコードの針を盤に落としてしまったところだった。その音に自分で驚いて、白黒の彼は部屋の外に逃げていく。
「…あの猫って。」
「うん?」
 アムロが喉を震わせて笑うので、肩に乗せたままの顎が、ひっきりなしに小さく震えている。さすがに痺れてきてはいるのだけれど、そのまま首を傾げて聞き返した。
「シャアに似てる」
「やっぱり、馬鹿にされてる気がするんだけれどね、アムロ君。」
 不満の色を滲ませた声で呟くと、マグカップをカウンターに置いて、青年は盛大に吹き出した。がくがくと顎が揺れて、さすがに肩から顔を離す。似ていると言うのがどういうことかは分からないけれど、今の自分の顔はさすがに想像できる、多分、あれだ。
 お預けを食らった犬みたいな顔。
「シャア可愛い!」
 仕舞いにはそうトドメを刺されて、肩を落としたところを抱きしめられた。情けない!
 でも、その抱きしめる腕が気持ちがいいので、やっぱり手放せないなんていったら、余計に情けないのだ。これが幸せって言うのかもしれない。


嫌な予感はしていた。
その日は、眠りに付く少し前、ベッドに入ったときから体中に不穏な空気がまとわり付くのがはっきりと感じられて、どうしても眠る気にはなれなかった。今眠ったら、恐らくあのいつもの悪夢にうなされて飛び起きるに決まっている。隣の部屋は、すでに電気が落ちていて、薄い壁を通して決して大きいわけではないが、規則正しいシャアの寝息が聞こえてきていた。
眠りたくは無い、けれどその幸せそうな規則正しい寝息を聞いているうちに、気づいたらもう泥みたいなずるずるとした眠りに引き込まれていた。

 頭の奥で、ごんごんと鈍い音が響いている。
 それが頭の奥で響いているのではなくて、自分自身の頭が立てている音だと気づくまでにそれほど時間は必要としなかった。音を立てるたびに、ぼんやりと霞んだ視界はブレて揺れる。やがて鈍いながらも鮮烈な痛みが全身を駆け抜けていき、半分うつろに突っ込んだままの意識は一瞬で冴え渡っていった。
「いっ……!」
 後ろ髪を引いた何かは、悲鳴を上げた口を無視すると、そのまま勢い良く頭を押さえつけて…というより壁に頭を叩きつけられていた。頭の中でものすごい音が響き、痛みを通り越して痺れが全身を駆け巡る。
「やめ、やめて…!やめて!」
 何度も持ち上げられる頭に、恐怖のあまり悲鳴を上げて腕を突っ張り、壁との激突を拒むと腕は背中を殴りつけて漸く俺の頭を破壊することを諦めたらしい。
「ほら、やっぱりまだ大丈夫じゃないかぁ、もう少し大丈夫だろう、アムロ」
 背中がぞっとする。この冷たい声、振り返ると顔色の悪い男が君の悪い笑みを浮かべて、あまりの痛みに目を回してうずくまっているこちらを見下ろしていて。その目はまるで、実験動物を見るソレだ。
「なぁ、まだ大丈夫じゃないか、もう少し、もう少しいいだろう?」
 声も上げられずに首を振る。
 やめて、触らないで。伸びてくる腕に、引きつった声で懇願して弱々しく這いずり逃げる。
「駄目だよアムロ、耐久度をしらべないといけないんだ。」
(駄目だ、それ以上近づいたら俺は!)
這いずる体を支える腕、伸ばした指先が何か硬いものに触れて、頭の中のどこか、違う自分がやめろと悲鳴を上げた…気がした。
動きの鈍った体に、再び腕が伸びてくる。
「やめてください、『父さん』!!」
 何か、酷く鈍い感触が、腕に、

――――――――――ッ…!
「アムロ!!」
 上手く上げられたかどうかは分からないけれど、悲鳴、と声。悲鳴みたいに自分を呼ぶ声に、意識が急浮上する。
「アムロ…!」
 どうやら、息が暫く止まっていたらしい。ひりひりと痛む喉に、無理やり空気を流し込んで肩を喘がせると、滲んだ視界の中、暗い部屋の中でもぼんやりとそこだけ光って見える、シャアの金色の頭が目の前に見えた。
「…シャア……?」
 情けないことに、涙のたっぷり溜まった目を擦って視界をクリアにすると、鮮明にふわふわした綿飴みたいな、シャアの甘い匂いのするハニーブロンドが目の前で微かに揺れている。
「ああ、良かった…!息が止まってたんだ、どうしようかと、」
 早口でシャアがまくし立てる。もっとゆっくりしゃべってくれなきゃ分かんないよ、と苦笑したかったのに、上手く笑えずに、結局シャアの言葉は半分も耳に届かなかった。その綺麗に整った顔立ちをみて、苦笑する。全く…
「…なんて顔。」
 そっと、もともと白いくせに白を通り越して青ざめてすら見える頬に触れて、かすれた声で呟くと、一瞬言葉を詰まらせたシャアは、今にも泣きそうな顔をゆがめて、がばりとこちらに覆いかぶさってきた。薄いシーツごしに、その体が微かに震えている…ような気がした。
「心配したんだぞ私は!!」
(…子供みたい)
 怒ったような…そのくせ拗ねたような、大声を上げたシャアの頭を、少し汗ばんだ手でぽんぽんと二度叩く。何か言わなければいけないはずなのに。
「なんていえばいいのか、単語が出てこないんだ」
 ごめんね。と続けて日本語で謝ると、
「もっと勉強したまえよ!」
 良くわかんないけど、怒られてしまった。
 拗ねた横顔、前言ったら不満そうな顔で怒られてしまったけれど、やっぱりその顔は猫に似ていると思う。すらりとした鼻筋も、少し目じりの上がった綺麗な青いビー玉みたいな目も。その、少し寂しがりでわがままな所も。
 そう、言いたかったのだけれど、やっぱり英語は分からなかった。
「ごめん、頑張る。だから、今は許して」
 小さく呟いて少し躊躇ったけど、それはほんの一瞬のことで。色の薄くて、形のいいイチイの葉みたいなシャアの唇、吸い寄せられるようにキスを落としていた。
「ア、ム、」
「……、わー!!!ごめん…!」
 ちゅ。と小さく音を立ててはなれた唇に目を丸くしたまま、こちらを見上げているシャアの蒼い目。一瞬後に、ちこーん、と音を立てて(実際音なんか立つはずは無いけど、多分そんなような音だ)動き出した理性に、喉はなんとも情けない悲鳴を上げた。
「いや、違…そうじゃなくてあの、」
 こんなときにいい訳の言葉の一つも言葉に出来ないのは、本当に苦しくてイライラする事だ。多分、有難うって言いたかっただけなんだと思う。それが気づいたらキスしてたなんて、自分は本当に日本人なのかと疑いたくなる。きっとこの数日間でシャアの、距離の近いスキンシップに慣れすぎたせいだ。…そうだ、シャアが悪い。
「…く、ふふふふ、あははははっ」
 にもかかわらず。暫くは目を丸くしていたシャアは、あろう事かシーツに突っ伏したまま肩を震わせて笑い始めたのだ。今度はこちらが唖然とする番だった。決して華奢ではないが、パジャマ代わりのTシャツに包まれた細くて白い肩が震え、喉を引きつらせて笑うシャアを見ていたら、多分怒声の一つや二つ上げるべきなんだろうけど、そんな気も起こらない。
「…シャア……?」
「っ…く、ふふふ、す、すまないアムロ…、いや、なんと言うか…君も十分可愛い」
「はぁ?」
 まだひーひー言いながら涙を拭っていた顔を上げて、シャアが唇を開く。思わずそれから目を逸らしてしまうと、長い指先が伸びてきてこちらの唇に触れた。ふに、とやわらかく指先で唇を摘まれると、それだけでもう何も言えずに顔が一気に火を噴くのが自分でも分かる。
「自然としてしまったんだろう」
「それはっ…」
「それなのに、焦ってる。」
 当たり前だ!って叫びたいけど、何て言っていいか分からずに黙り込む。嗚呼もう。
「…馬鹿にしてるの?」
 先日の彼の口調を真似て、静かに呟くと、やっと唇をつまんだままの手が離れて行き、それはそのまま彼のやわらかいハニーブロンドを撫でた。
「誉めてるのさ」
「シャアー…」
 あっはっはっは。
 そのまま声に出したみたいな笑い声。こちらも先日の自分の台詞をそのままそっくり返されて反論できるはずも無く、悔しかったのでもう一度唇を押し付けて…齧ってやった。
「…シャアだって可愛いのに。」
 もう一度、確かめるように呟くと。ひゅっと薄い唇を完璧な笑みの形に持ち上げて、シャアはおどけた声で、「勿論!」と歓声を上げる。
 その顔を、俺はやっぱり可愛いと…思った。桃色をした唇には、微かに歯形が残っていたけれど。


 手の中で、投げつけてやろうと思って思いとどまった目覚まし時計が、ちくたくと耳障りな音を上げている。
 どうして、どうしてこんなことになったんだっけ?上がる息に音を上げて、公園のベンチにしゃがみこむと、その途端耳の中でどくどくとうるさく心臓が悲鳴を上げた。喉が熱い。引きちぎった枕から溢れた羽は、走っている間も全て体から零れ落ちることはせずに、シャツや髪のあちこちで、ひらひらと頼りなげに揺れていて、風が吹くたびに少しずつ地面に落ちていく。まるで、少しずつ羽を毟られてくみたいだ。
 これはただのヒステリーだ。ドアを閉めた瞬間の、酷い仕打ちに傷ついたシャアの横顔を思い出して、鼻の奥が痛くなる。部屋中の、手の届く距離にあるものを手当たり次第に投げつけて、日本語で喚いて、罵っても、ぐっと何かを耐えていた顔が、部屋を出て行く瞬間に…歪んだ。頼りない子供の顔で、行かないでと訴えていたのに、馬鹿と投げつけて飛び出してきてしまった。

 フラットの天井から、雨が降ってきたのは、さてこれからお昼ご飯の準備をしようかとキッチンでまな板を前に意気込んでいたときだった。
「あ…れ?え?、うわっ!何だよこれ!」
 はじめはぽつりと天井から落ちてきた雫に、何だと思って顔を上げたのだけど、だんだんと増え、勢いを増して落ちてくる水にパニックに陥って立ちすくんでしまっていた。途方にくれる、というほうが近いのかもしれない。慌てて部屋中の食器をかき集め水受けを作り始めたのは、異変に気づいた隣の部屋の住人がバケツを持って駆けつけてきてくれてからだった。
「大丈夫?あら、やだ、水浸しじゃないの!」
 多分そんなようなことを言って(実際聞き取れていたか甚だ怪しい。)恰幅のいい初老の婦人は手際よく部屋の中に食器とバケツや、たらいを敷き詰め、大量のタオルまでも用意してくれたのだが、なれない言葉の応酬と異常事態に混乱していて「すみません」と「ありがとう」しか口に出来なかった自分に、だんだんと腹が立ち。「上の階のデッシュウォッシャーが壊れたのよ。」老婦人の声は届かない。
 最終的に水漏れが収まった頃には、憔悴しきって病院にいくかと心配されたほどだった。これじゃあまるで強姦された後の女の子みたいだ。ソファにぐったりと身を投げ出した、己の情けなさには、疲れた苦笑しか出てこない。たまたま訪れていたらしいプッシーキャット、白黒のしなやかな雄猫は、迷惑そうな声を一つ上げて早々に辛うじて被害の無かった寝室に退避していたし、まあ…実際猫の手も借りたかったのは事実だけど。
 何より、
「どうして肝心なときに…居ないのさ」
 事前に教えられていた携帯電話は、虚しくシャアの寝室でコール音を響かせている。恨みがましく、二回、三回、四回、溜息を吐いて受話器を置くと、当たり前だがコール音も鳴り止み微かに残った水音と、重苦しい疲労感だけが体にわだかまる。
 結局、シャアはその日帰ってこなかった。

…帰ってこなかった。

「………。」
 ただいま、といったまま金髪頭は玄関で凍り付いて唖然とした顔でこちらを見下ろしている。当たり前だ。多分今自分が酷い顔をしているだろうということは、容易に想像できた。
 一睡も出来なかった、『酷い』顔。目の下には隈、唇はがさがさに乾いて、つめの先は何度も齧っていたためか、せっかく綺麗に整えたはずなのに、ぼろぼろになって少し、血が滲んでいた。痛みは感じないけれど。
「…ア…ムロ…?」
 おびえた声に、ざまあみろと小さく日本語で呟く。ぴくりと、シャアは肩を震わせ、恐る恐る部屋に戻ってきた。大量の食器、バケツにタライ、あちこちに掛けられたバスタオルは水を吸って変色し、重そうに垂れ下がっている。
「…おかえり」
 なんとも、酷い声が出るもんだと感心できるくらいに、それはもう酷い声だった。まさに上出来。一睡もしていない(本当だ)喉はすっかり嗄れて、壊れたアコーディオンみたいにすうすうした空気の音ばかり。
「ど、どうしたって言うんだ、一体…!」
 『こんなに散らかして』
 …多分。その一言は無意識に口走ったのだろうと思うけど、些細なその一言に、ぼろぼろにつかれきって、辛うじて引っかかっていた神経の糸が、ぷつんと音を立てて…切れた。

がしゃーん!

 まず真っ先に被害にあったのは、一番近くに転がっていた硝子のコップだった。これが夜中なら、間違いなく騒音公害だ。昼間でよかった、と少しは考えつつ、それでも振り上げた手は止まらない。手につくものを手当たり次第に掴んでは、シャアに当てるというより、地面に叩きつけるように何度も投げた。
「っ、ちょ、アムロ、アムロっ!やめてくれ!」
 悲鳴を上げて頭を庇うシャアなんてお構いなしに、コップに皿、本や新聞、挙句の果てには花瓶…に活けてあった花までも投げた。
「どうして!どうして帰ってこなかったんだ!!」
 こんなのはただの八つ当たりだ。やめろ、やめろ、頼むから静まってくれ、と体中が悲鳴を上げながらも、振り上げた手はとめることが出来ない。甲高い音を立ててグラスが弾け飛び、散った硝子の破片がシャアの頬に細く赤い筋を作る。投げようと枕を握った指先が痛い。
 止まれ、止まってくれ。
 見えない咆哮と聞こえない慟哭、これでは、これでは自分はあの男と同じだ。握り締めた枕は、悲鳴を上げてはらわたを撒き散らし、一瞬視界が白いノイズに覆われた。次に投げようと握った小さな目覚まし時計の冷たさに、はっとして顔を上げると、シャアは、
 口を閉ざしたまま何も言わずにこちらを…みていた。
「…っばか!!」
 唖然と立ちすくんだままのシャアに、憤りを隠せず、どうして何も言わないんだ、と唇をかみ締めながら押しのけ、飛び出した瞬間。
 泣きそうに歪んだ顔が白いノイズの合間から覗いて、すさまじい音を立てながら扉を叩きつける。
 ちがう、こんなこと、言いたかったんじゃないのに。
 そんな顔、させたかった訳じゃないのに。
 目が壊れそうに熱くなって、…涙が、止まらない気がした。

馬鹿は俺のほうだ。
息を切らして公園のベンチに座り込んで、本当…何やってるんだろう。こんなに酷いヒステリー、あの男と同じだ。自分の、父親だった、男と。
その男は偏執的なマッドサイエンティストで、世間一般では「天才」と呼ばれる部類の人間ではあったらしいのだが、幼い頃から父親を「天才」などと思ったことは一度も無く、ただ「狂人」としか考えることが無かった。数字に狂ったスプーキー。恐ろしいほどのヒステリーを持っていて、何かの弾みでそれが表に出てきてしまうと、力ずくで押さえ込むしか、その暴力を押さえ込む術が無いほど…酷いものだった。
母親は勿論、まだ幼かったアムロにまでその被害は及び、なんども壁に頭を叩きつけられたり最悪の時は足を骨折した。やめて、許してと泣いて懇願してもその声が聞き届けられることは無く、入院を余儀なくされたことも一度や二度ではない。
だから、
…だからぞっとした。あのままあの部屋にとどまっていたらどうだったろう?まだ物を投げるだけにとどまっていたから良かったものの、シャアに手を上げていたら?この目覚まし時計を投げつけていたら?
「……」
 そう考えると、こちこちと手の中で健気に堅実な、小さな音を刻むこの時計が、ずっしりと重く感じられた。自分には、…あの狂人と同じ血が流れているんだ。
 せっかく逃げられたと思ったのに。呪縛を断ち切ろうとして、こんなに遠いところまできたのに。
「助けて…助けてよ、シャア…」
 声に出して呟くと、血の滲んだ指先が急に痛み出す。冷たく冷えた肩に熱が戻って、時計の音もよりいっそう煩く鼓膜を振るわせた。そのくせ、すぐ近くを走りすぎていくおんぼろ中古車や、通行人の喧騒は膜一枚を隔てた映画の中みたいに、霞んで現実離れしていて。
 どうしようもない自分に、腹も立ち、呆れて、ごめんなさいと泣きながら繰り返し呟いた。狂人じゃない、狂人になんかなりたくない、
 その狂人に手を上げた自分が、一番の危険分子なのだと、認めたくなかっただけなのかも知れない。
 繰り返し続けられたヒステリーの暴力に、母親に向かってゴルフクラブを振り上げた父親を、アムロは素手で殴り飛ばした。素手とはいえ…殺すつもりだった。不思議と冴え渡る意識と、死んだように地面に伸びた父親、そして守ったはずなのに、恐怖に歪んだ顔で自分をみた母親が今でも脳裏から離れない。
「…助けて、…っ、」
 だから、逃げてきたのに。
 風に乗って、白い羽がふわふわと剥がれて飛んでいく。早くしないと、飛んだまま翼をもがれて奈落に落ちていくだけなんだ。だから、誰か助けて。
 この公園で、あの雨のふる一週間前の夜、すがる様に掴んだ救いの手は天使みたいに綺麗なシャア。自分のヒステリーで傷つけて、自分から突き放したくせに、助けてほしいなんて。なんて、
 …なんて醜い。
 嗚咽が喉を震わせて、抱いた肩が再び、ぞっと冷えた。





 傷つけるつもりなんか無かったのに。
 点々と、走る道路の行く先には白くてふわふわした羽が、ころころと風に吹かれていくつも転がっている。海辺に面した土地のため、時折強い風が気づいたように羽を転がして浚ってしまい、そのたびにどきりと心臓が跳ねた。
 友人のパーティに呼ばれていて、うっかり羽目を外したがために、一日フラットに帰ることが出来なかった。互いに子供ではないのだし、干渉しすぎるのも気が引け、連絡を入れずに携帯すら部屋に忘れてしまったのが悪かった。ひらり、と目の前を横切って流されていく羽にしくりと心が痛い。
 どうか、どうかもう少し、凪を。この心もとない道しるべが、吹き消されてしまわないように。
「アムロ、…アムロ」
 あの時、力ずくでも、縋ってだって止められたはずなのに、どうしてしなかったのだろうと後悔ばかりが頭をよぎる。きっとアムロは、止めてほしかったんだ。殴ってだって、止めるべきだった。ドアを閉める瞬間、ほんの一瞬だけ覗いたアムロの頬は、酷くやつれて今にも泣きそうな顔をしていたのに。
 たかが一週間だ。
 捨て犬みたいに頼りない、濡れた小さな背中を見つけて思わず「拾って」しまってから、一週間。最初は…ただ人恋しかっただけだったのに、いつの間にか依存していたのは、アムロではなくて自分の方だったのかも知れない。今だって、アムロはきちんとフラットの合鍵も持っているんだし、パスポートも財布も、全てフラットに置き放してあるのだから放っておけば戻ってくるに決まっている。でも、それでは違うのだと思った。
 それでは違う。確かに、アムロは帰ってくるかも知れない。でも、
『ばか!!』
 耳に甘いはずの声は、とがったナイフみたいに頭の中で何度も耳の中を傷つけた。
 でも、あのアムロはもう戻ってこないんだ。優しくふんわりと笑う、英語の上手くしゃべれない東洋人の小さな青年は、もう戻ってこない。
 …だから迎えに行かなくては。
「……アムロ」
 丁度一週間前。
 しとしとと降る冷たい雨に、たっぷりと水気を吸って、捨てられた猫みたいにうずくまっていたアムロ。もう、あらかた風に吹き飛ばされて消えてしまった羽の道しるべは、辛うじて公園の前まで続いていて、ヘンゼルとグレーテルみたい。はたりと消えたその道しるべの途切れた先には、ベンチで膝を抱えて蹲っている小さな背中が見えた。
 声を掛ける、と途端にびくりと震える背中。
「アムロ、」
 もう一度ゆっくりと声を掛けると、やつれた頬が、涙に濡れていた。手の中には、飛び出してきたときのまま、小さな目覚まし時計が握られて、体中で白い羽根が揺れている。多分、自分と同じように。
「…シャ、ア」
 あのときよりもっと酷い、今にも目の前から消えていきそうな、号泣されたほうがまだマシ、な顔。全身全霊でこちらを拒んでいるのは、その気配だけで知れたけど。そんなものは無視してずんずんと近寄る。そんなものは知るものか。あからさまにこちらを避ける態度はあえて知らないふり、ぐ、と肩を掴んで…ああ、駄目だ。
「…置いてかないで」
 縋りつくように、その体を抱きしめると、眠らなかったアムロの体中から水の匂いがふわりと漂った。驚いたまま硬直した背中に腕を回し、揺れる羽ごと、きつく、きつく。
「シャア…?」
「ごめん、…ごめん、アムロ」
 縋りついたアムロの緊張は、すぐに戸惑いに取って代わった。そりゃそうだろう、こんな大の大人に縋りつかれて、あまつさえこんな泣きそうな声で謝られていれば。そう意識してしまうと、自分がなんとも卑怯な行動をしているのだということに気づいたのだが、どうしてもこのまま腕を放す気には慣れなくて、ベンチに座る体に覆いかぶさるように抱きついたまま、何度も「ごめんなさい」を繰り返す。多分、今回捨て犬の顔をしているのはアムロじゃなくて自分のほうだなと思いながら。
「どうして…」
 ぎこちない仕草で背中に腕が回されてくる。その暖かな感覚に、ほっと息を吐きながら、もう完全にアムロの意識をこちらで掌握してしまったことに安堵と罪悪感を同時に感じながら顔を上げた。
「どうして、俺のこと怒らないんだよ…」
 鳶色の目は、怒りを通り越して唖然とした色を湛えてこちらを見上げている。全て許して、アムロの逃げ道を塞いで、その上での計算した行動だと言ったら、彼はどんな顔をすることだろう。お互いに逃げ道を塞ぎあって袋小路に閉じ込められているのだから、そんな事言えっこないけど。
「ごめんね」
 その代わりに、思い切り甘えた声で謝ってやるともうアムロは何も言えない。私の勝ちだ、と小さく心の中でアムロに謝って、ぎゅうと強く背中を抱きしめてくれる腕に甘えながら「馬鹿」もう一度呟かれた声は、もうあの傷ついた色は無い。振り上げられたアムロの手から離れた目覚まし時計はこちらに飛んでは来ず、天高く舞い上がると小さな音を立てて地面に落ちていた。
 かしゃん。
 軽く乾いた音を立てて、ばらばらに壊れたプラスチックの目覚まし時計を見つめて、新しい目覚まし時計を買いに行かなくてはと小さく微笑む。そう、アムロと一緒に買いに行けばいい。
「…部屋の掃除は、全部私がやるから」
 繋いだ手を引っ張ってアムロを立たせ、怒られた子供の顔で目を覗き込むと、彼は困ったように笑う。
「だから、一緒に帰ろう」
「…うん」
 繋いだ手が暖かい。どうか、遠くに行かないでと思う自分の本心に、沸き起こった酷い独占欲をこの青年に知られたくなくて、半歩先を歩いて、二人でフラットに帰った。










「なんて顔してるんだい」
 手を伸ばして頬に触れる。小さく笑い声を立てたことか、それとも子ども扱いされたことが癪に障ったのか、微かに眉を寄せてアムロは小さく呻き声を上げた。相当我慢をしていたのか、引きつるように腰が震えてどくりと熱が膨れ上がるのがありありと分かる。
 部屋の片付けはまだ始めていないのだけれど、フラットにつくなり、照れ隠しなのは分かっているけどむくれたままのアムロに、「ごめんね」とキスをいたずらのように繰り返していたら、どうやらご無沙汰していた年若い青年はぷつんと来てしまったらしい。効果的だと分かっていながら、唇だけで微笑んで「どうしたの」と聞くと、困ったようにトイレに行くといって聞かないアムロを強引に引き止めてぷくりとした唇にやわらかくキスを落とした。
「代わりにしていいよ」
 視線を合わせて囁くように耳元へ吹き込むと、ごく、と喉を鳴らした青年は勢い良くベッドへ体を突き倒して、噛み付くようなけれど拙いキスを繰り返してくる。
「…慣れてるの」
 触れるだけのキスに、首を支えると唇を割って舌を割り込ませ、ぬるりと上あごを舐めると肩を震わせたアムロは小さく呟いた。どうしてそう、不満そうな顔をするのかな。
「それはまあ、君より少しは長く生きてるし…」
「って、いくつ?」
「28だ。」
 糸を引く唇をぬぐいながら滞りなく答えると、一瞬うっと言葉に詰まった青年は、ショックを受けたようにがくりと肩を落とした。そんなに衝撃的なことだろうか。
「…五つも年上……」
「ははは。別にかまわんだろう。それとも何だ、年上だと勃たないとか?」
「…たた…、何だって?」
 冗談めかして呟いた英語は、アムロの耳に届かなかったらしい。聞きなれない単語に戸惑って首をかしげている青年に、もういちど「エレクト、」と吹き込むと熱を持ち始めている半身をズボン越しに握る。
「うぁっ、な、何?」
「…ここが、こうなること。」
 ジーンズに覆われたままの雄を、ぐにぐにと広げた手で包み込んで遠慮なく揉み込むと、引きつった声を耐えたアムロは膝を立てて小刻みに震えた。少しずつ形を変えるそれは、分厚い布越しにでも、手のひらに熱を伝えてはっきりと分かる。
「ふ、ぁ…ァ!や、ちょっとま、っ…」
「待たない」
 必死にたどたどしい抗議の言葉を上げる唇が可愛くて、意地悪く微笑むと、下着ごとするりとズボンを下ろした。
「貸してあげるよ、アムロ」
「え…何、」
 ぼうっと頬を染めてこちらに見とれるアムロの頬に、ちゅ、と唇をつけると、するんと自分の体からもスラックスを落として膝を開く。息を呑んで驚く青年を見て、目の前で濡れた指を自分の体に突き立てた。
「シャ、シャアっ?!」
「…私の体を貸してあげる。だから、もっと近くに来て」
 甘えた声音で囁けば、ほら優しいアムロはもう逃げられない。わざと音を立てながら慣れないながらも体を開いて、苦しさと侵食する熱に小さく息が零れ始め、やがて明らかな声になって唇を落ちる。
「っ、ン…く、……ッ、これくらい、かな」
 ずるん、勢い良く引き抜いた指に体が少し強張ったけど、まあそれは見ない振り。濡れた入り口を確認して視線を上げると、アムロは真っ赤な顔をしてそれでもこちらから視線をそらせないでいるらしかった。
「ほら、こっちにきて、…わかるよね?」
 固まったままの手を引いて目を覗き込むと、頷いたアムロの手が、肩に触れた。酷く緊張しているのが分かる、熱くて、熱い。ぎこちなく近づく腰を抱いて、膝を開いたまま「大丈夫」と呟くと、熱い熱の塊が一息置いて腰に押し付けられた。
「ぅ、…ン」
 ぎち、と狭い胎内を割りながら進んでくるアムロに殺せなかった悲鳴が喉を震わせると、驚いたように青年の動きが止まる。中途半端に繋がったからだが、もどかしい快楽を生むのだろう、目元を赤く染めながらこちらを見下ろして困った顔でうつむいている。
「大丈夫だって、言っただろう?おいでアムロ。もっと、近くに来れるはずだよ」
「んぁ…!シャアっ…!」
 緩く吐息をこぼして微笑むと、耐え切れなくなった青年が腰を押し付けて体の奥が熱に焼かれた。ずん、と一気に腰が重くなり、胎内をえぐった熱に背中が大きく仰け反る。
「あ、あっ…ん、きも、ちい…っ」
 無意識に声を漏らす体にのしかかったアムロの言葉は、聞き取れない。どうも英語ではなさそうなので、母国語なのだろう、これだけ急に快楽を与えられては無理がないのかも知れない。夢中でこちらの体を抱えると、何度も深く揺さぶられて、気づいたときにはもう、奥のほうにどろりとした熱があふれ出していた。
「っあ、ご、ごめん…っ、」
 快楽の余韻にぼんやりと色っぽい表情で抱きしめていたアムロは、はっと気づくと慌てて体を引く。その体が離れきらないうちに、ぱしりと手首を捕まえて、閨の延長の濡れた笑顔でにっこりと微笑むと、ぎょっとした顔で、まだ体に残るアムロの熱が小さく震えた。
「もう一回」
「…え?」
「もう一回、付き合って。君ばかりじゃ…ズルイ」
 きょとんとした顔のままこちらを見つめる、童顔の青年は、まだ栗色の頭に白い羽を揺らしていて、指先でつまむと息を吹きかけて窓の外に流した。埃っぽく明るい通りには、いつもと変わらない喧騒と潮風が、やわらかく羽を流していく。
「…ね、アムロ。…もう一回」
 甘えた声で擦り寄ると、頬を染めて頷く青年の体にちょこんと乗って。次は一緒にね、と優しく囁いて再び熱に侵食され始めた互いの体を、再びしっかりとくっつけた。



 このままアムロが私におぼれて、離れられなくなってしまえばいいのに。
 なんて、そんな事を考える自分が、ぞっとするほど怖くなる。…期間限定の恋人。いつか見たドラマでそんな事を言っていた気がするけど、期間限定なんて、そんなに苦しく濃い恋愛は…したくなかったのに。
 もう遅いよ。
 頭のどこかで小さく警鐘が響いた…気がした。



 目を覚ますと、もう空はとっぷりと闇の色を濃く溜め込んで、部屋の中までをやわらかい闇が満たしていた。ごしごしと目を擦る。結局「もう一回」とねだったシャアに乗せられて、一回どころか互いの体が溶けるんじゃないかってくらい、たくさん抱き合ってしまった。こんな真昼間から不健全だ、なんて思う余裕なんて無いくらい、美しい顔をしたシャアには到底逆らえない。どちらが主導権を握っていたかは火を見るよりも明らかで、もう終いには自分で何を口走っていたかさえ思い出せなかった。
「いたたた…」
 普段使わない筋肉を酷使したためか、不満の声を上げる体に鞭打ってベッドに腰を落ち着かせると、やわらかい暗闇の奥でじっとシャアがこちらを見ているのに気がつく。
「…うん…?」
 首をかしげてそちらに首を回すと、暗がりから伸びてきた白い腕が縋るように背中に回された。シャア、と呼びかけて腕に触れると甘えた声で「アムロ」と囁かれる。さらされた背中越しに触れる体温は、先ほどの熱を捨てきって落ち着いたのか、すこし低い。
「どうした、の」
「……もう、独りにしないでくれ」
 ぎゅう、と体に回された腕が痛い。突き放して、傷つけたのはこっちなのに、罵られるよりももっと痛い仕打ちがあることを…初めて知った気がした。痛いのは腕に締め付けられた体だけじゃなくて、きっともっと…ずっと深くてやわらかい場所なのだ。
「せめて、今だけでいいから、ここにいる間は、」
 泣きそうな声と、震える腕、自分の言葉に自分で傷つきながら、きっとこの人はぼろぼろになっていくんだろうと思ったら、締め付けられたように胸が、痛くて。
「っ…」
 体を反転させてしっかりと白い肩を抱きしめたら、もうその先に言葉を継ぐことは出来なくなった。ああ、落ちてしまった。多分、無意識にシャアが張った網に、二人まとめてかかってしまったのだ。馬鹿みたいに喧嘩なんかしなければ、こんなことには…きっとならなかった。はずなのに。
 今は眠ろう。
 腕の中で分け合ったぬくもりに、とろりと瞼を落として…シャアは一人でやるといっていたけれど、めちゃくちゃに散らかした部屋の掃除は、明日目覚めたら二人でやればいい。おはようっていつもどおりに挨拶をして、トーストを二枚焼いて、学校はサボってしまおう。
 シャアが泣かなくなるくらいに強くなったら、ちゃんと、
 (ちゃんと好きだよって、言ってあげるから。)
 腕の中ですすり泣く天使の頬に、ぴったりと頬を寄せて抱きしめると、互いの編んだ繭に守られた蛹みたいに眠りに落ちた。

 どうか明日また、おはようって笑いあえますように。

作成:2006年8月14日
最終更新:2016年12月10日
昔昔のガンダムオンリーで出したコピー本の奴

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