銀色ナイフ

『まったく、君も――――――・・・』
そのとき、確かに冷たいナイフが心臓に触れた。
多分、さして深い意味も持たずに呟かれた一言だ、と分かっている。それでもショックだった。
はっきりと胸がきしんだ。
「っ、」
いつもなら反論の1つや二つ、すぐに思いついて口に出来るのに、と音を立てそうな勢いで唇をかみ締める。
薄く、鉄くさい味が口内へ広がった。
ばか、と子供じみた反論が口をつきかけ、あわてて飲み込んだ先、のどに引っかかって、情けなく涙がこぼれそうになる。
「君は、もう少し落ち着けないんですかね」
透き通って色の薄い、綺麗な切れ長の目。・・・あの時貴方は何を見ていたの?
ふんわりと横切った、濃厚な香りにむせそうになって、あわてて唇と鼻を片手で覆う。
こんなの、子供じみた拗ね方、だ。
・・・そんなの分かってる。でも。
(やめて、見ないで)
一瞬だ。ほんの、一瞬。
貴方がそう言いながら視線で追いかけた先、見なきゃ良かった。
胸に差し込まれたままのナイフが、酷く冷たくて。・・・不思議と痛みは感じなかったけれど、棘の様に抜けないまま、くっきりと胸から生えたままで。
黙り込んだこちらを不審に思ったのか、泳いだ視線が降りてくる。嫌だ、こっち、見んなよ!馬鹿!
「・・・金田一くん?」
「用事、思い出した、帰る!」
がたん、と勢い良く椅子を蹴って立ち上がる。
唖然としたままの貴方。知ったこっちゃ無い。そんな、あんな目をした後で、その目を見られるはずなんて無い。
逃げるようにオープンカフェのテラスを飛び出した。背中で何か声が聞こえた気がしたけど、そんなの聞こえないから。
いつもと変わらない、ただの嫌味に決まってるのに、と思う。
どうしてあの瞬間、あんなに取り乱したのかと自分でも不思議に思いながら、テラスのテーブルの上に、置き去りにしてきてしまったケータイを思って歯噛みした。これでは、追ってきてくれと言わんばかりではないか。
図った行動ではないにしろ、結果的にそうなった自分の落ち度とふがいなさに胸中で悪態。
こんな自分は知らない、しらない、しらない。
泣きそうになりながら足を踏み出し、逃げる。
情けないことだが、わずかに視線がにじんで視界が定まらない。どれだからだろうか。
「一君!!」
すぐ耳元で鳴り響いた音と、目を焼く光に、その瞬間まで、気がつかなかった。
 
おばかさんねぇ
憔悴しきった同僚に、それがかけるべき言葉だろうか。
そうは思ったものの、気を使って差し入れを持ってきてくれたらしいその人影に一応は礼を述べて形だけではあるものの椅子を薦める。
「良いわ、顔を見に来ただけなの。命に別状が無くて好かった」
万が一死にでもしてたら、私何してか分からないじゃない?
うふふ、そう妖しく笑う彼女の胸中は知れない。いつものごとく胸元へ大事そうに抱えられた小さな木箱には何が入っているものやら。意外にも金田一を気に入っているらしい彼女の、ともすれば背中から銃で一発。
・・・ありえない話ではなさそうだ。
「そうですね、情けない話ですが・・・今回は私の完全な不注意です」
何を混乱したのだか、取り乱したようにカフェを飛び出した少年を引き止めなかった自分が悪い。
テーブルの上へ置き去りにされた携帯電話を見て、戻ってくるものだと(もしくは後で引き止めて欲しいものだと)高をくくっていた、あの場の自分を、呪い殺してやりたいくらいだ。
テーブルへ勘定を置き、あわてて追いかけた小さな背中が、目の前で跳ね飛ばされ、目の前が真っ白になった。
まるでスローモーションのように見えた、あの瞬間。
名前を呼んだ自分のせいか。
あの時、名前を呼ばなければあるいは。彼はこんなことにはならなかったかも知らない。そもそも、駆け出した瞬間にでも、周りの目を気にしている場合ではなかった。抱きしめてでも引き止めるべきだったのだ。
「・・・君一人守れなくて何が警察ですか・・・」
「そうね、役立たずね」
ぐさり。
日本刀のように研ぎ澄まされたまっすぐな刃が容赦なく降ってくる。
言い訳など出来るわけも無かった。
「・・今更ですよ。悔しいですが、おっしゃるとおりですね、私は。」
当の人物は、いうことを言ってすっきりしたのか、今は顔色もよく眠っている少年の傍らに体をかがめて、耳元でなにやら呟いている。
眠っているのかなんなのか、少年に反応は見られないが、ふと体を離すと蛇のような視線で明智を一瞥した。
「じゃあ、私はこれで」
「・・・もう帰るんですか」
「お見舞いに来ただけよ?それに当の彼が眠ったままじゃなにも出来ないもの。それにせっかくの休み、この子に構ってあげられないなんて、出来ないじゃない?」
かさかさ、と箱の中で音を立てるかすかな音にぞっとしながらも、そうですか、と一言。
気を使って見舞いに来てくれただけでもありがたく礼を述べなければならないだろう。
「・・・すみません、ありがとうございます。」
きもちわるいわ。
素直に頭を下げた自分に、降ってきたそれが言葉だった。
視線を上げた先では、かすかな香水の残り香とともに、扉の向こうへ消えていく細身の影。
なにも出来ないなどと。おきてたら何をするつもりだったんですかと思いながらも、ベッドサイドへ置かれたかごに盛られた鮮やかな果物たちへ視線を移した。
どんよりとした曇り空のもと、艶やかに光る林檎と少し早い苺。真っ赤な果物たちが艶かしくも甘い香りを漂わせている。
高野、と小さく書かれたラベルを見て、随分奮発して買ってきてくれたものだと関心していると、ベッドに置いたままになっていた指先をかすかに握り返す感触に気づいてほっと息を吐く。
「・・・早く目を覚ましてください」
君が居ないとこんなに空気が冷たい。
ねぇ・・・早く起きてください。
顔を伏せて唇が触れそうになるほどに近く、顔をのぞきこむ。閉じられたまぶた。意外と長い睫が密集しているためか、いつもぱっちりと開かれている瞳が、鬱々とした印象を深くしているのかもしれない。
吐息を感じる距離に、一人で心臓を跳ねさせて顔を離す。高校生相手に何をしているのだろうと思いながら。
「ここで裸で踊りでもしたら、君は目を覚ましますかね」
なんとなく、冷たい空気に昔の神話を思い出して小さく笑った。
窓の外で、空気が冷たく暮れようとしている。
冬の日は、短いのだ。
「あけちさん」
目を覚ますと、真っ黒い部屋が見えた。
ええと、どうしたんだけっけか、とわずかに混乱しているらしい頭を振って考える。
手の中に紙の感触を感じて、握り締めた指を解くと、くしゃくしゃになった紙切れ。高遠から送りつけられた、招待状。
そうだ、昼間明智さんと少し話そうって、カフェに連れて行ってもらって。
仕事、立て込んでたんだろうな。らしくも無く、ちょっとカリカリしてた。
でも、そんなのいつものことだから、事件のことはなして、駆る口言って。
・・・それから?
なんだか記憶があいまい。しっかりしろ一、と軽く頭を振って視線を上げる。と、
「・・・明智さん?」
少しはなれたところに、いつもの見慣れたグレイのスーツ。
細身なわけではないはずなのに、すらりと高い身長と長い足のせいで、綺麗なシルエット。名前を呼ぶ、聞こえていないのだろうか、何か楽しそうにしゃべっている白い横顔が見えた。
(明智さんってば!)
叫んだつもりだった声の、言葉が消えていることに気がついて喉へ触れる。なにこれ、苦しい。
まるで黒い部屋すべてにどろりとした冷たい液体で満たされているような。近づこうと足を踏み出しても、わずか先で見える明智の元へたどり着けなくて。
手を伸ばす、指先、こつん、と何かが触れた。
(なにこれ、ガラス?)
伸ばした指先が冷たい壁に触れる。
それでもその先へはいけない。見えているのに、すぐそこへ、明智の姿が見えているのに。
(あけちさん!!!)
声を限りに喉を絞っても、もれ出ているのはごぼごぼという泡を吐き出すようなくぐもった音だけで、楽しげに笑う、明智の横顔だけが映画の中の出来事みたいにスローモーションで流れている。
(なに、なんだよ、なんだよこれ・・・!)
ふと、長身の明智が気遣うように半歩身をずらすと、その影には小柄な女性の姿。
楽しげに笑った、まだ少しあどけなさの残る顔は確かに、綺麗だ。
白い清楚なサマードレスに、つばの広い帽子をかぶって、栗色のやわらかそうな髪が肩口でくるくると揺れている。
(・・・誰?)
幸せそうな笑顔、まるで幸福で溶けてしまいそうだといわんばかりに、体中で幸せを振りまいている女性の、腹部がかすかに膨らんでいることに一は気がついた。
細くて、折れてしまいそうに見えるその手を、明智の大きな指の長い手が支える。
(やめて、)
見たくない、それ以上、見たくない、と思ってはいるのに、さっきとは裏腹に、冷たい部屋の中で体が動かない。水が凍ったように、水槽の中で氷付けにされたみたいに、目の前で繰り広げられるホームドラマから目が離せないなんて。
取られた手に、くすぐったそうに微笑んだ女性が、その腕へと体を預ける。
命を宿した腹部を、愛おしそうにやさしく、何度も何度もなでて。淑やかな、しめやかな、それでいて、なんと濃厚な空気か。
ふわりと鼻先を掠めるのは、そんな外見からは想像も出来ないようなあまったるい香水の香り。
(あけちさん、あけちさん、・・・あけちさん、あけちさん・・・!)
情けなく、視界がにじんで涙があふれる。
暖かいはずのそれは、刺すように冷たく頬を裂いた。
「健吾」
はっきりと、
薄く小さな、桜のように可憐なその唇が。確かに明智の名前を甘く囁くのを確かに聞いた。
(・・・!)
い、やだ・・・
いやだいやだいやだいやだ、いやだ・・・!
聞きたくない、見たくない、どうして、
狂おしく身を焦がす、ああ、これは・・・
嫉妬だ、
と自覚した胸には、深々と、痛々しく鮮血を流しながら、銀色のナイフが突き刺さっていた。

「・・・いやだ・・・!」
ひゅう、っ、と。
急に喉へ流れ込んできた冷たい空気に、鋭い痛みを訴えて、何度か咳き込む。
びっしょりと背中を伝う汗は、部屋の温度のせいでは無いはずだ。ひんやりとさえ感じる外気に身震いして、ぼんやりと覚醒と夢の間を漂っている意識をなんとか捕まえることに成功する。
うすぼんやりした小豆色の闇に包まれた部屋の中、これは夢だろうか現実だろうかと逡巡し、左手に触れたひんやりとした手の感触に視線を追うと、ベッドサイ ドの椅子に身をもたせかけたまま、膝に読み止しの本を伏せ、静かにうなだれている横顔が見えてどきりと心臓が跳ねた。
ふと上げた手で頬に触れると、乾いてひび割れた涙の痕。きつく握られたままの手が、・・・痛い。
何の夢を見ていたのか、おぼろげながらにしか思い出せないのだけれど、と薄い布に包まれた胸に、無意識に触れる。
尖った柄が、はっきりと触れた気がした。
あの時、名前を呼ばれて躊躇して、意識を奪われた一瞬に、車道へよろけて車に撥ねられたのだろう。
笑ってしまうような間抜けさだが、いくら抜けているからとはいえ、そんな不注意、普段の自分からは考えられない。
『全く君も――――――・・・』
あの時、明智さんはなんて言った?
カフェでの記憶はあいまいで、ところどころ抜け落ちてしまっている。
覚えているのは甘いココアの香りと、香ばしいフレンチトースト、そして、あの、
香水の匂い。
不快な香りではなかったはずなのに、どうしてもその甘ったるい匂いが頭から離れない。
あの時、明智さんはなんて言った?
・・・何て、
「・・・金田一くん?」
じっとりと汗で湿った手で、いつまでも明智の手を握り締めているのも申し訳なく、ゆっくりそのつながりを解こうとしていると、澄んだ声にそれをさえぎられてしまった。
「あけ、」
随分情けない声が出たものだと思う。
震えて、かすれて、まるで怯えきったような。実際怖かったのだろうか、無意識のうちに逃げようとベッドを後ずさっていたからだ、ぎゅっと強く引かれると、胸の中へ転がり落ちる。
「・・・!」
反応できずに硬直していると、よかった、と安堵の声と、やわらかい指が何度も何度も髪を撫でる。
何度も、何度も、その感触を確かめるように。
「明智さん?」
その感触を感じたとたん、急に現実が戻ってくるのを感じながら、やわらかい闇へ包まれた辺りを見回す。大きな窓、開け放たれたカーテンの隙間から、煌々と輝く満月。
つんと鼻を掠める、消毒液とやさしい香水の匂い。かぎなれたラルフローレン、もうムスクになってほんの少しだけ残るそれは、香水というよりは一の記憶の中ではイコール明智の体臭ということで落ち着いている。
「良かった・・・本当に、目覚めなかったらどうしようかと、」
思いのほか強い力で抱きしめられて、ずきんと胸が重く疼く。別に大きな怪我なんて無い(はずだ。体のどこにも包帯や添え木は見当たらない。簡単にシップと テーピングで処置されているだけだ)はずの胸。これは疵だろうか、それとも、何か違う痛みなのだろうかと思いながら。
「・・・すみません、私の、」
私の不注意だ。
呟かれた言葉と、勝手に脳内へ生成されていた次の句の差異に、一瞬混乱する。
(全く君も間抜けですねぇ、車に撥ねられるなんて、普段から運動もしないからそういうことになるんですよ。)
一瞬遅れで再生された(無論、脳内で、だ)明智の声。あれ?と首をかしげているうちに、憔悴した顔が目の前にあった。
月明かりに照らされた白い顔は、そのせいかいっそう青白く、眼鏡の向こうで端正な目元へ、痛々しく隈が出来ている。
「・・・あ、明智さん?どっかぶつけた?」
「相変わらず失礼ですね、君は」
つかれきった声、それでもいつもの調子を取り戻しつつある明智に、少し安心して背中を叩く。
どうやら、病院らしい、と薄いパジャマのような患者衣と、消毒の匂いに四角い部屋を見回す。
「あー・・・やっぱ、轢かれた?俺、」
「ええ、それはもう綺麗に轢かれてましたよ。あまりに見事に跳ね飛んだので、無傷に近いようですけど。」
加害車両には私が手続きを取っておきました、とその辺は現役警察官の手際も鮮やかに処理したらしい。
加害車両に申し訳ないことをしてしまったとうなだれる一の頭を、とん、と一度大きな手のひらが叩いてようやく体が離れていった。
「・・・いったい、如何したと言うんですか、君らしくも無い」
そうだ、その話だ。
先ほどから胸の中、奥へ沈んで出てこない一言。
後味の悪い夢と、きしむ胸にいったいどんな関係があるのかと暗闇に目を凝らして月明かりに逆光になった明智を見上げる。
「明智さんが、」
「私が?」
「・・・あんなこというから」
「あんなこと?」
「覚えてない」
なんですか、それ。
ふうっと気の抜けた吐息、緊張の切れた空気。
でも、触れた胸は酷く痛い。
「・・・あまり、心配させないでください」
ほら、まただ。
ずき、と胸が痛い。何かが深く刺さっているように、抉られる様な鈍い痛み。
「・・・やめろよ」
「金田一君?」
駄目だ、と思ったのに、唇は勝手に言葉をつむぐ、そうだ、思い出した。
・・・思い出したくも無い、あの言葉を。
『まったく、君も、もう少し淑やかになれないものですかね』
あきれたように呟きながら、明智の泳いだ視線の先には、美しい女性。しめやかな黒髪をゆるく束ね、さやしげな微笑を唇に称え、派手ではないのに、はっと視線をさらうような、とても美しい。
「やさしくすんなよ・・・」
どう逆立ちしたって、俺はあんなふうにはなれない、とそのときはっきりと突きつけられて、息が詰まる気がした。
いつもの軽口だ、と割り切ろうにも一度混乱した心はそう簡単に静かにならず、ああするしかほかに無かった。あのまま、あのまま目の前にいたら、あの人から視線が戻ってきたら、
きっと自分は泣いてしまっただろうから。
「君は何を言って、」
ほら、まただ。
またこうやって困った顔をさせてしまう。・・・いやだ、やだ、そんな顔すんな。
歳の差、大人だから、こうやって自分の幼さ加減を何度も突きつけられるのが、痛い。苦しいのだ。
きっと分からない、分かってもらえない、なんて身勝手な感情。せりあがる感情を押し殺すためにぐっと息をつめてこぶしを握る。
「ごめん、明智さん、もう大丈夫だから一人にっ・・・」
ぼす、
急に突き倒された体が硬いベッドに沈む。目を白黒させていると、夜中にもかかわらず、少しもくたびれた風も見えないスーツ、目の前が真っ暗になる。
「・・・どういうつもりだよ」
「それはこちらの台詞です。」
静かな台詞が、かすかに不安の色を帯びているのが感じられれた。普段、感情を表立って出すはずも無いのに、珍しいじゃないかと思うまもなく、胸の上に柔らかな銀糸、伏せるように胸元にうずめられた顔、握った手が胸の上で震えている。
「・・・急に飛び出したりして、勝手に車に轢かれたりして・・・!」
「あけ、」
「私がどれだけ心配したんだか、君は分かってるんですか!」
ぱん!
思わず、言葉より先に手が動いていた。
高らかに響いた音と、硬い音を立てて跳ね飛んだ眼鏡。月明かりに、鋭い視線が晒される。
「あ、ご・・め、」
わずかに頬へ赤く痕をつけたまま、薄い視線がひゅうっと細くなる。月明かりに透けた蒼、冷たい色。
「いた、・・・!」
ぎっ、と骨のきしむ音を立てて手首が強い力で握り返され、硬いベッドへ押し付けられる。文句を言う暇も、抗議を告げる間も無く、乱暴とも言える力を加えられた体は情けなく悲鳴を上げて抵抗を封じられた。
反転させられ、消毒液のにおいのする冷たいベッドへ伏せる格好になり、すぐ背後にのしかかる不穏な空気をまとう明智に、全身が恐怖の悲鳴を上げる。今すぐ 逃げ出したいのに、背後から回された手が、器用に患者衣の紐を解いて心もとない薄い衣はいとも簡単に解けて落ちる。
まだ把握できずに真っ白な頭で手をつかむ。なんとかその手を押しとどめようと暴れては見るものの、がっちりと押さえ込まれてはその体格差のもと、身動きすらとることがかなわない。
「明智さん・・・っ」
(怖い、こわいこわいこわいっ・・・)
なにも言わずに押し殺した吐息だけが首筋をくすぐる。その吐息が冷たくて、ぞわりと背筋が泡立った。
「なんだよ、何か言えよっ・・・!怒ってるんだろ、ならこんな!」
「黙りなさい」
ぎ、とベッドの上についた片足に体重がかかり、硬いスプリングがきしむ。
背中越しでは陰になった顔しか見れず、その表情は読み取れない。ひやりと外気に晒された肌、患者衣のしたにはご丁寧に下着はつけられておらず、恐怖と緊張に体を硬くしていると、長い指が容赦なく乾いた入り口を暴き始めた。
「ひ、っいや、や、やめてっやめろよっ」
乾いたからだがそう簡単に指を受け入れるはずも無く、柔らかなつぼみの皮膚を引っ張り、引きずり込むように押し付ける細い指へ神経がいやでも集中してしま う。腰から薄青い布をたくし上げられ、月明かりに青白く晒された自分の体。隠すことも出来ず、ただ屈辱を耐えるだけの。
きしゅ、かすかに響いた衣擦れの音、不審に思って仰ぐと、わずかに緩めてあったネクタイを、明智が完全に解き去ったところだった。いつもきっちりと着込まれているためか、乱れたシャツの襟から除く白い首は長く、精悍で。
顔立ちは美人だと称される類のくせに、とこんなときにも関わらず一はわずかに歯噛みした。
嫌味なほど整った顔立ち。伏せられた睫が瞳を覆い隠し、その表情はうかがい知れない。
「声、あまり騒ぐと見つかりますよ?」
「ん、ぐっ・・・!」
じゃあその体を今すぐどけろ、と叫びかけた口に、今解いたばかりのネクタイが突っ込まれる。シルクのつるりとした感触が舌へ触れ、かみ締めた歯の隙間から、ふんわりといつもの香りが立ち上る。
明智さんの匂い。
この匂いに、いつも俺は縛られている、と思っていると、揶揄ではなく本当に両腕が細い紐で縛り上げられてしまった。
驚いて背中の腕を上げると情け程度に羽織った薄水の衣がそれに合わせて大きくたくし上げられる。どうやら、患者衣の腰で止められていた紐らしい、と気がつ いたときには口へつっこまれたネクタイもまた、顔の後ろで縛られ、もう唇からこぼれるのはくぐもった声だけになっていた。
「・・・心配してきてみたら、」
無理やり腰を上げさせられて、後ろ手に縛られているせいで顔を枕に押し付ける形になり、苦しくてうめき声をもらす。聞こえているのか、聞こえないふりをしているのか、明智は静かな声で耳元へ吹き込み指を止める気配も無く、ぐりぐりと押し込んでくる。
「んっぅぅ・・・!ぅ!」
よだれと歯のあとで傷ついたネクタイは、もう使い物にならないだろう。やわらかく上等な布地についたであろう、無数の傷を思って場違いにもため息を吐く。
「どうやら、君は私の顔も見たくは無いようですので。・・・こちらはこちらで勝手にやりますからお構いなく」
お構いどころか、大いに困ると思いながらも、無理やり閉じたからだを引き裂かれては悲鳴しか出てはこない。
長い指は執拗にねじ込んだ先で胎内を舐り、痛みのためか刺激から守ろうとわずかににじんだ粘液を丹念に内壁に塗りこんでいる。
この状況で何をされるか分からないほど子供でも、明智との付き合いが浅いわけでもない。
ここは抵抗して大怪我を負うより、少しでも自分の体へかかる負担を軽減するのが賢い選択というものだろう。
悔しさと痛みと、やるせなさと、悲しさに息をつめて泣くまいと歯をきつく食いしばる。
「ああ、こんな状況でも・・・感じるんですかね、君は」
ずっ、
一度引き抜かれて出て行くと思った指が、勢いをつけて深くに突き刺さり、摩擦と痛みに脳裏が白く弾ける。
「ひ、っ・・・!」
声にならない悲鳴を上げてのけぞると、一瞬月が窓の外からこちらを見下ろしているのが、はっきりと見えてしまった。
(見ないで、あんなところから、)
・・・明智さん、
重く熱い腰。
いつの間にか指は2本へ増えたらしい。だんだんと粘液だか血液だか良く分からない粘ついた液体が自分の腰から滴っているのに気がつく。晒された太ももが寒く、伝い落ちる液体もまた、冷たい。
自分の体から排出されたとは思いたくないほど、随分機械的な温度だ。
「・・・ぬれてきました。」
ほら、と目の前で開かれた長い指の間には、確かに糸を引いて形のいいそれを濡らす、自分の体液。うつろな視線はしかしもはや映す光は少なく、幾度も打ち寄せる痛みとつめたい熱に翻弄され返す言葉も無い。
胸が、裂けてしまいそうに痛かった。
深々と突き刺さったナイフは、もう柄の部分までもぐりこんで、心臓を2つに引き裂こうとさらに体を裂いてくる。
無理やり抜いたら、きっと今時分は血を噴いて死ぬだろう。何とはなしにそんなことを考え、深く突き刺さった指に、再び大きくのけぞった。
「金田一君」
耳元で囁かれる声。
そういえば、夢の間、夢を見ている間にも、誰かにこうやって、囁かれた気がする。思い出す間も無く、尻たぶを左右に大きく割られ、羞恥と痛みに耳まで顔が火を吹いた。
ぱっくりと開かれ、あらわにされたつぼみへ、布越しの熱が押し付けられる。グレーの肌触りのいいスラックスのしたで、確かに雄の熱が息づいていた。
(一体、何を言われたんだろう)
それにしても、酷い夢だった気がする。深く突き刺さったナイフが抜けないのも。酷く泣いたのか、乾いた喉と瞳も。
「一、くん・・・っ」
熱っぽい声。
先ほどとはうって変わって切羽詰った声。同時に、スラックスから弾けるように取り出された熱が、尻を叩く。背後から覆いかぶさられているため、顔も見え無いまま・・・こんなのは、嫌だ。
「んっ、うう、うっ」
抗議の声を上げようにも、唇からこぼれるのは獣のようにくぐもったうなり声だけで、二三度、試すように腰を叩いていた熱は、一度引かれ、ぴったりと舐られて赤くはれた入り口へと押し当てられた。
(お願い、やめて・・やめてくれ、明智さんっ・・・)
「っ・・・く、」
胸中で叫んだ声もむなしく、酷い熱と痛みを伴って杭が体を引き裂いてくる。不思議と痛みは感じず、ただ溶けてしまいそうに熱い熱だけ。もう感覚もしびれてしまうほどの熱なのだろうか。
普段の明智は、こんな乱暴な抱き方は、絶対にしない。
こっちが恥ずかしくなるくらいに丁寧に、傷つかないように、壊れ物を扱うように。ゆっくりゆっくり体を繋いでくるのに。
ろくに慣らしもせず、潤沢になっているわけでもない膣への無理な挿入に、明智も痛みを感じているはずだ。
がくがくと痛みと恐怖に震える膝、顔を枕におしつけたまま、情けなくよだれがてんてんと染みを作っていく。
「ぅ、うぁ、・・・っあ、うぅ、」
「・・っ金田一くん、っ・・・私は、」
「・・・!」
切羽詰った声を耳元で聞いた、と思った瞬間腕を引かれてからだが大きくバランスを崩す。つこうと思って反射的に差し出した腕は、むなしく空を切り、縛られ ていたことに気がつくまでにさしたる時間は必要としない。がくんとつんのめったままベッドの下へ頭から転落する、と目を閉じた瞬間、今までより深くに差し 込まれた熱に大きく悲鳴が上がった。
「んんーーーッ・・・!」
ず、ぐ。
耳を覆いたくなる卑猥な音を立てて、自分の腰から聞こえる。音。
泣きそうになってゆがむ視界に、今度は目の前から浴びた視線。背後に回った腕が、拘束していた細い紐を解き、バランスの悪い足場のため、反射的に目の前の体へとすがりつく。
とたんに鼻腔を抜ける、明智さんの匂い。
きつくかみ合わせていた唇からも、あっけないほど簡単にネクタイがはずされ、そのとたん下から突き上げられた衝撃に、高く細く、悲鳴が上がった。
「あぁ!っ・・・や、」
あわてて唇を押さえるものの、つながった熱と、痛みと、わずかにおくから滲み出してくるなれた快楽にぐちゃぐちゃにされ、一は言葉をつむぐことすら出来ない。
(死んじゃう、こんなのっ・・・)
そんな切なそうな声を出すなんて、ずるい。
しがみついた背中、震える声で一度、明智さん、と名前を呼ぶと、はじかれたように腕できつく抱きしめられた。
折れてしまうのではないかと、思うくらいに。
「抜いてっ・・・」
水から上がった瞬間みたいな、激しい呼吸を繰り返しながら懇願する。自らの体重をめいっぱいかけ、最奥まで飲み込んだ熱。どくどくと別の生き物のように脈打つ、明智の熱。指先は冷たいくせに、と金田一は生理的な涙でにじんだ視界に明智を捉える。
月を背負って、麗伯な目元が今にも泣き出しそうに見えた。
「・・・抜けるわけ、っ・・・無いでしょう、」
苦しげに答えた台詞は構わず、伸ばした手で、自らの薄い胸につかんだ腕を触れさせる。
「ちが、うっ・・・」
抜いて欲しいのは、
・・・貴方に抜いてほしいのは。
「明智さん、抜いて、」
この、胸に突き刺さった銀色のナイフ。もう、根元まで皮膚にもぐりこんで、心臓を引き裂こうとしている・・・冷たい塊。
これを突き刺したのが貴方なら、
・・・抜くことが出来るのも、貴方だけだから。
「・・・はじめくん?」
胸に触れた指が、自分の心もとない体温に温まっていくのを心地よく感じながら、ぐっと深く腰を押し付ける。羞恥も、痛みも。
もう・・・どうでも良かった。泣きそうな明智、どうしてそんなに苦しそうな顔をするのか。きっと、自分が刺された様にまた、自分の手から放たれた刃が、ここへ・・・明智の心臓へ突き刺さっているんだろう。
「っふ、ぁ・・・っあけち、さ、っ・・・あけちさんっ・・」
一度の刺激で十分だったらしい。ぷつんと何かが切れたように明智の動きが激しくなる。溶けた胎内、耳から犯される音。何度も何度も、痛みも快楽も通り越して、しびれた体を蹂躙する。
眼鏡を通さずに見る瞳は、酷く優しく、綺麗で、・・・残酷だ。
こんなむき出しの感情を叩きつけられて、耐えられるわけなんか無い。
(ごめんなさい)
声には出さず、小さく呟く言葉。
子供じみた嫉妬とわがまま、最初に傷つけたのは多分、自分のほうなのだ。
「一・・・っ」
ぎゅうっと痛いくらい、きつくきつく抱きしめられ、拒む間も抜く間も無く、どろりと熱い精が、何度も傷ついた内壁を叩く。足を絡ませ、背中に腕を回したまま拒むことなく耐えた。
「・・・、」
やがて、荒い息の収まった明智が顔をあげ、腕の中で放心したように脱力した少年の体をいとおしげに抱えなおす。
「・・・怒りましたか」
まだ、酷く蹂躙されたからだの感覚は戻らない。耳元でぽつんと心もとなく囁かれた台詞に、軽く噛み付いてやった。
「・・・あったりまえ・・・、じゃないか・・・」
言葉とは裏腹に絡めた腕は解かない。
今はもう、鮮明に思い出せるようになってしまった夢の、あの幸せそうに微笑む明智の顔。お願い抜いて、本当は心が悲鳴を上げていた。
こんなに、
こんなに自分はわがままで独占欲が強かったのだろうか。あそこで車に撥ねられたのも、わざとじゃないと分かっていても、本当は明智に心配されたかったからじゃないのかと、空恐ろしいことまで考える。
「・・・許しませんよ。勝手にどこかへいくなんて。君は、目を離すとすぐに迷子になるんですから」
「なんっ・・・だよそれっ」
「私の傍から離れるなといっているんです」
分かりませんか、とまっすぐに目を見つめられてどくんと心臓が跳ねた。ナイフで傷ついた心臓。今にも裂けて、血が噴出しそうなのに。
「何でそんなこと!」
「・・・鈍いですね。ここまで私にさせおいて、どの口が言いますか」
ふに。といつもからかわれる唇をつままれ、目を丸くしたと同時にやわらかく唇が重なった。
やさしく、甘く、ただいたわるように触れるだけの、
「・・君が大事だからですよ。・・・好きだからに、決まってるでしょう」
「あ、け・・・」
だめだ、死んだ。
離れた唇から、恥ずかしげも無く囁かれた台詞に、あっけなくナイフは抜け落ちる。音を立てて地面に落ち、粉々になるそれを、確かにはっきりと感じながら大きく見開いた目から、あとからあとからこぼれる涙を止められずに。
「ば・・・っかぁ・・・!」
「その上馬鹿呼ばわりですか。君は」
きつく抱きしめた腕が痛い。痛い、甘い。
悪態をつく声も、今は耳に優しく、ただの恋人の甘言だ。
どうして不安になど、なる必要など・・無かったのだ。盛大に涙と鼻水をスーツに擦り付けながら、何度も何度も名前を呼ぶ。
「不安にさせてしまいましたね」
やさしく抱きしめる腕の中、次は貴方のナイフを抜く番。
「当たり前・・っだろ・・・っ、」
明智さん、ねえ覚えていて。
俺とあんたは、こんなに大人と子供で、俺にかわいげもなにも無いって知ってる。
あんたが結婚を望むなら俺にそれを止める筋は、これっぽちも無いんだ。
でも、
「馬鹿、明智さんの馬鹿っ」
大好き・・・っ
涙ながらに叫んだ言葉に。
ほら、貴方は思い切り甘い顔をしてくれる。抱きしめて、きつく寄せた胸。その広い胸からも、綺麗にナイフが抜け落ちるのを。
確かに、はっきりと見た。










結局のところ。
「・・・貴女金田一君に何か言ってたでしょう」
「何のことかしら」
喫茶店で、回復祝い、と称してケーキをぱくつく一を前にしてにらみ合う(といっても一方的に警戒してるのは明智だったが)茅と明智。投げた質問をさらりと かわされ、さすがの明智も渋面を隠せないでいるところに、生クリームをたっぷり乗せたシフォンケーキを平らげた一までもがにんまりと人の悪い笑みを浮かべ る。
「何ですか君までその顔は」
「え?いっやぁ、俺もついこの間おもいだしちゃってさぁ」
にこにことあどけないといっても支障ない笑みを浮かべる少年に、居心地悪く同僚のミステリアスな笑顔を見比べていた明智が、盛大なため息を1つ。
「で。貴方の答えは?」
「もちろん、NOだよ」
あら、と茅が意外そうに目を丸くするのを見て、首をひねる。この女刑事を驚かせるなんて一体どんなからくりなのだろうかと思いながら。
「巨大な貸しってことにしておこっかなー、ってさ。」
それもそうね。
あっさり引き下がる、相変わらずの笑み。
『許してあげなさい、彼のこと』
ねー、とまるで女子高生のように顔を見合わせてにっこり笑う二人組みのかわした会話を、明智が知ることは無い。
が、これはまた、別の話ということにしておこう。

作成:2009年2月23日
最終更新:2016年12月10日
18歳に手を出す28歳、大人げなし

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