秋空とカレーライス

 ポストにまとめて投函されていた、ダイレクトメールの束に交じってそれはいた。
 ぺかぺかとし安っぽい光沢のほかの封筒とは違う。触った瞬間に指先にざらりと触れた感覚は、布にも似て、それだけで手をかけて作られた逸品だとわかる。厚手の真っ白い封筒に、控えめな金で《F》と見覚えのある飾り文字の印刷されているそれを手に持ったまま、ロキは小さくため息を吐いた。ミッドガルに来て早二年。ここでの暮らしにもだいぶ慣れ、最近はどちらかといえば楽しい、と思えるようにもなってきた。のに、
 ついに来たか。
 こればかりは仕方ないのは分かっている。けれど心構えもなく舞い込んできたその一通の手紙は、彼女の心持を突き崩すには十分すぎるほどだった。
「ロキ~、かえったぞー!なあなあ聞いてくれ聞いてくれ、さっき商店街でな、」
 ポストから回収した手紙の束を抱えたまま、リビングでため息を吐いていると、ばたばたとあわただしい足音と共にキッチンに飛び込んでくる人影。少しハスキーな声、と、もう秋だというのにシャツ一枚に薄手のジャケットを羽織った姿だ。外に出るときはせめてきちんとした格好をすること、なんていくら言い聞かせても聞かない相手に、ロキはもう注意するのをあきらめてしまった。
 ただ白いシャツからうっすらと透けて見える、紺色の下着はいただけないと眉間にしわを寄せたまま。きちんと下着をつけることをなんとか習慣づけたのはいいが、下着の色などお構いなしにいつも薄手の格好をするせいで、盛大に透けブラというやつだ。
「姉上、またブラジャー透けてる……」
 どうせこんな小言、彼女が聞くことはないと思いながらも呟けば、案の定「そんなことより」と笑顔で巨大な紙袋をテーブルの上に置いた姉、ソーはジーンズのポケットをごそごそとまさぐって、くしゃくしゃになってしまった一枚の紙切れを取り出している。
「あのな、これを、」
 その先に彼女が何を言いかけたかはわからないが、丸まった紙切れよりもよほど大事なこの手紙をどうするべきかと考えあぐねていたロキは「後にして」と、すげなく手を押しやると手紙を手にクローゼットを開いた。
「どうしたロキ?アスガルドに帰るのか?」
「……母上から手紙が来たんだ。近いうちに帰ってきてほしいって。宛名に私しか書いてなかったから、姉上にもそのうち届くと思うけど」
 個別での呼び出しということはつまり、姉には聞かせられない個別の話があるということだ。
 着慣れてきた柔らかなシフォンブラウスとフレアスカートを仕舞い、こんなところで着ていたらただのコスプレになってしまうようなアスガルドでの衣装を引っ張り出す。しばらく袖を通す機会もなかったから、少し皺になっているかもしれないなと思いながら。
「魔法で着替えればいいのに」
 もたもたと気乗りしない手つきでファスナーを上げ下げしていると、不思議そうな声で首をかしげた姉に「わざとに決まってるでしょ」と何気ない顔を装いながらも大分こちらの生活に慣れてしまったことに気づき、ロキはまたため息を吐いた。






「ああロキ、お帰りなさい」
 久しぶりに帰るアスガルドに変わりなどあろうはずはない、と思っていたが。頭上に輝くばかりに青い葉を茂らせていた黄金樹が、その葉までを黄金に染め上げていて彼女は言葉を失った。
 母の抱擁に答えながらも「なんです、これは」と目を丸くすればフリッガは口元に手を当てて「お父様がね」と少し困ったような顔をする。
「……父上が?何か具合でも?」
 オーディンは過去にも何度か過労なのか心労なのかで倒れたことがある。その一端はまあ自分にもあることなので、滅多な事では口に出さない母がその話をするのも珍しい。また何かあったのかと眉をひそめるロキに、彼女は安心してお父様は元気だがらと手を振った。
「そうじゃないのよ。最近あなた達から届くでしょう、お手紙が」
「?え?ええ……」
 急に飛躍する話に、どうにもついていけずに歓迎しながら宮殿内を歩く母子に、あちこちから歓迎の声がかかる。「お帰りなさいロキ様」「お帰りなさい姫」その声にどうにも居心地の悪さを感じてしまうのも長くミッドガルドに居たせいだろうか。
「この間届いた手紙に、紅葉のことが書いてあったから」
 気に入ったみたい、とほほ笑む母の真意は知れない。何より勝手に黄金樹の葉を色づかせていていいのかと思ったが、彼女が落ち着いているところを見ると葉の色が変わったところで差支えはないのだろう。季節感がなく、よく言えば年中燃えるような緑の葉を茂らせるユグドラシルが一面金色にけぶっているのは確かに美しい。美しい、ものではあるが。
「……それで、お父様は?」
「年頃の娘たちをのぞき見で監視するような真似、お父様はしませんよ。後でご挨拶にいらっしゃるでしょう。あなたを呼んだのは私なの、ちょっと用事があってね」
 てっきり母の口を借りた父からの呼び出しかと思っていたが、その可能性を否定されて面食らう。ロキと姉であるソーが現在ミッドガルドに暮らしているのは自分たちがいずれ統治する世界を知るため、という名目上のものだ。姉であるソーなどは皆目その役割がわかっているのかいないのか、ずいぶんと現在の生活を謳歌しているようだがいつまでもそうしていられるわけでもない。
 いつかは父から呼び出しを受け、いったい次はどちらが王座を背負って立つのか。または王女である二人にしかるべき相手をあてがうのか。そんな日が来るはずなのだ。
 今はその可能性がないと知り、少なくとも安堵している自分に、ミッドガルでの姉との平穏な暮らしが終わってほしくないと願っていることに驚く。ここに帰れば少なくともこうして王族として迎え入れられる必然が、あの小さくも美しい、豊かな星に暮らすうちに心苦しいものになっていたのだろう。
 初めはアスガルドから厄介払いを受けたのかとさえ思っていた。けれども認めたくは無いかもしれないが、自分は確かにあの星を愛しているのだろうと思う。それはきっと、口には出せないけれど隣で姉が笑っていてくれたからだ。
彼女がまた、愛してやまぬ場所だから。
「ロキ?」
「え、あ、はい母上」
 どうしたの、ぼうっとして。と、ほほ笑む母はそんなことは最初からお見通しだったのかもしれない。昔から自分の思いは隠さずすべて口に出す姉とは違って、なかなか人に思いを告げるのが得意ではない自分の心を真っ先に察してくれたのはいつも母だった。
 そんな母のように、彼女を喜ばせる娘でありたいと願ってきた。
「緊張しないで。私があなたを呼んだのは、個人的な理由なの」
 ソーと父上には内緒ね。とほほ笑む母の真意は知れない。いったい何事かと戸惑うロキを尻目に、楽しげなフリッガは彼女を伴って王宮の廊下を進んだ。






「遅い!」
 気を張っていたせいだろうか、妙に疲れて姉の元に戻った時には、日はとっくに暮れ沈んでしまっていた。話だけで済むだろう、とそんなことを思っていたのが仇となって、昼食の支度をしようとした矢先に出てきてしまったのだ。ソーは空腹を耐えかねたのか、キッチンはごちゃごちゃと散らかり、見るも無惨な姿に成り果てている。
「姉上、」
 咎めるつもりのため息はしかし、ふわりと漂った美味しそうな香りにさえぎられた。この匂いは紛れもなく、先ほどまで散々思い描いていた。
「……カレーライス?」
 見ればキッチンには鍋が一つ。慣れない料理で苦戦したのか、あちこちに飛び散ったいびつな形の野菜くず、と開封された食材のビニール袋。先ほどまで彼女が何をしていたのかなど一目瞭然だ。
「そうだぞ。ロキと一緒に食べようと思って」
 屈託のない笑顔に、思わず「ごめん」と口をつくのは謝罪の言葉で。ソーの目はきょとんと見開かれた後に「どうして謝るんだ?」と伸びてきた手に頬を撫でられた。高く澄んだ青。秋空に似た姉の瞳。あたたかい手。
 幼いころより泣くということが苦手で、感情をため込んだまま黙り込んで一人閉じこもる自分を溶かしてくれたのは、いつも母や姉のこの、あたたかい手で。いつか自分たちに重くのしかかるともしれない重圧など、微塵も感じさせない大らかさでソーは笑っている。
 その笑顔に、どれだけ安心をもらえるかなんて彼女は分かっていないのだろう。悔しいような、うれしいような。むず痒い気持ちのままに次げない言葉を探していると、皿にこんもりと白飯を盛りながら彼女は口を開いた。
「母上との話、なんだったんだ?」
「……カレーライス」
「ん?」
「母上、カレーライスのレシピが知りたかったんだって……、」
 そう。何を思ったのか母からの呼び出しの理由は「カレーライスのレシピを教えて」だったのだ。面食らうロキに向かって母が放った一言は、
 「あなた達のお手紙によく出てきて、美味しそうだったものだから」である。姉は父に似ているとばかり思っていたのだが、もしかして母の血も随分強いのだろうかと思う。無論、カレーライスは口実で、彼女なりに遠い地で暮らす自分達を慮っての行動だったのには違いないのだけれど。
(それにしたって、カレーライスって)
 脱力してリビングに座り込むロキに向かって、ソーは「おいしいもんなぁカレーライス」なんて呑気に笑っている。あの母にしてこの娘。差し出された皿には、確かにおいしそうなカレーライスが並々と盛りつけられている。
 こんなにたくさん食べきれない、とそんな言葉も不格好に切られた野菜を見た瞬間吹き飛んでしまった。彼女なりに、自分を元気づけようとしてくれているのは痛いほどにわかる。
「……ありがとう」
「ロキみたいに綺麗には作れないけどね」
 いただきますと手を合わせて姉の作ったカレーライスを口へ運ぶ。人参はまだ少し硬いし、肉なんて塊で入っている。けれど、
「どう?」
 まだ自分は口をつけもせず、ニコニコとこちらを眺める彼女の顔を見ていたら。なんだか何もかもどうでもよくなって、ロキは「おいしい」と口に出した。不思議と、そう呟いた瞬間に笑顔がこぼれていた。
「そういえば、姉上、出がけに何か言いかけてなかった?」
 美味しいの言葉に満面の笑みになったソーが、一口にしては多すぎる量を器用にスプーンに盛り付けながら口へ運ぶ姿を見て、出かける前の彼女の姿を思い出す。下着のお説教は今度にしよう。そんなこともついでに思い返しながら。
「ん、そうだ、忘れてた」
 食べさしの皿を置き、スプーンを持ったままに立ち上がった彼女は、冷蔵庫にマグネットで止めてある小さな紙切れを持ってくる。「じゃじゃーん」と恭しく捧げ持ったそれは、
「……オンセンリョカン?」
「そう。昼間ロキに頼まれて買い物しただろう?商店街で。そしたらフクビキとかいうのがやっててな」
 そこで当たったんだ。とその紙きれはどうやら旅行ができるチケットというものらしい。「オダワラ!」と謎の言葉を叫ぶ姉を見て脱力しながらも、ロキは母が昼間言った言葉を思い返していた。
 ……あなた達には好きなだけいろいろな世界を見てきてほしいの。
「焦る必要は無い、か」
 父も母も。
 口には出さなくとも、やがてはあの国を支えていかなければならない娘たちの重圧はとっくにお見通しなのだろう。それはあのカレーライスにしろ、この、フクビキとやらにしろ。
「旅行だぞロキー!」
「わかった、わかったから姉上、カレー飛ばさないで!染みになるでしょ!」
 ここは、ミッドガルドの小さな島国の小さくて平和な町。
 そこには不思議な異国の姉妹が住んでいる。喧嘩をしたり、仲直りをしたり、ずいぶん流暢な言葉を操る二人組は、今日もにぎやかに暮らしているようだ。
 オンセンとやらに行ったら、美味しいものでもたくさん食べよう。とロキは秋深く、美しく澄んでいく空を思って小さく笑った。姉と二人、まだもう少し。
 この幸せな生活が続きますように、なんてささやかな願いを胸にしまいこみながら。

作成:2016年12月10日
最終更新:2016年12月10日
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