花色グラス

ぬるい風が頬を撫でた。
あ、と思う。こういう時、人間もやっぱり動物なんだなぁと思うのは、その暖かく潤んだ風
を吸って、雨が降るな。と、そう感じたからだ。
冬が終わり、春を告げる風はあわただしい郵便配達人のようにそこら中を駆け巡って、綻ん
できたばかりの梅を散らす。それでも残った蕾が膨らみ、やっととろとろと溶けるように優
しい色をした花を、咲かせたばかりだった。
花嵐がくる。
桜が咲く頃になるといつもそうだ。強い風が列島を駆けて、咲き盛りの見事な花を吹雪へと
変える。そして直後に訪れる花冷えは、春の陽気に浮ついていた人々も、そして花たちも。
からかうように凍りつかせることだろう。
それでも、それが終われば春がくるし、やっぱりどうしたって心は浮ついてしまうのだ。
不穏な空気が垂れ込め始めた空を見上げ、コウは胸に抱えた荷物を一層しっかりと抱きしめ
て、帰途を急ぐ人波を泳いでいつもの場所へと急ぐ。
ぱたり。
とその鼻先に冷たい滴が落ちてきた気がして、急ぎ足はやがて駆け足へと変わっていた。








「やあ、ギリギリ間に合わなかったねこうくん」
ラヴィアンローズは繁華街の横にひっそりと、静かな佇まいをもつ小さなバーだ。コウ・ウラキはバイトとして、しかし今は実質的な進路先として、この居心地の良いあなぐらで見習いとして働いていた。
薄暗い、けれども居心地の良い玄関を抜けると、そこにいたのは珍しく開店前に支度を整えた店の主ことクワトロだった。
最も、彼の手元には勝手に出されたであろう、ロックグラスとウイスキーの瓶が鎮座していたが。
開店にはまだ幾分早すぎる時間だった。頭に雫をいくつもこしらえて入ってきたコウは、店内を汚さないようにシューズマットの上から動けずにいる。
「でもまだガトーさんは」
メインのバーテンダーの姿はまだ見えない。首をかしげたコウに、そういう意味ではないよと笑ったクワトロは、手元のグラスへと黄金色の艶やかな酒を並々と注いだ。氷なども入ってはいない、ジムビームのストレートだ。微かに湿気を含んだ店内に、ふわり、と木の樽の
馨しい芳香が漂ったようだった。
「開店には間に合っているよ。でも、雨雲にね、ほら、風邪を引いてしまうから早く着替えておいで」
顔色一つ変えず、まるで水でも飲むような勢いで、この綺麗なひとは酒を飲む。ガトーは言う。マスターは昔、バーテンダーだったのだと。しかし彼がカウンターの中でシェイカーを振る姿を、コウはまだ一度も見たことがない。
どうしてもう店に立たないのですか、とそんな質問をするには、まだ彼の領域に踏み込んではいないし、踏み込んではいけないような気がしていた。フロアマットの上から動けないコウに気づいたのか、クワトロはグラスを置くと「ちょっと待っていなさい」と軽やかに階段を登って店の二階へと上がっていく。二階は事務所になっている。
カウンターに取り残された飲みさしのグラスと、半分ほどに中身の減ったウイスキーのボトル。春の雨。
店の外では雨脚が強まり、帰宅ラッシュの中で傘を忘れたサラリーマンたちが途方に暮れているのかもしれない。今日は混むかな、とそんな彼らを思い、コウは濡れた頭からしたたる水を拭う。間も無くクワトロは大きなバスタオルを抱えて階段から降りてきた。
「後でモップくらいかけるから別に構わなかったのに、こうくんは律儀だな」
断る間も無く、眼前で広げられた腕にすっぽりと体を抱え込まれる。柔らかなバスタオルが僅かに体を冷やしていた雨を吸い込み、洗剤の、あまったるい香りがはなをつく。沈丁花、とコウは目を閉じた。
クワトロがこうしてコウにいちいち世話を焼きたがるのは、犬を飼った時と同じようなものだ。というのはここ暫くこの店、クワトロがマスターを勤め、強面だが腕のいい、物静かなバーテンダーが居る店「ラヴィアンローズ」で見習いを務めるうちにわかっていた。
はじめの頃こそ、何かにつけては「こうくん、こうくん」と嬉しそうに懐いてくるこの綺麗な顔をした謎のマスターを警戒していたコウだが、要するに犬、なのだ。
まだ見習いであるコウはメインバーテンダーであるガトーほどこの店に貢献は出来て居ない。ともすれば迷惑をかけることの方が多く、ならば主であるクワトロの気の済むようにさせてやろう、というのが今の所の見解で。
あらかた湿気を吸い込んだバスタオルを受け取り、コウはすみませんと素直に頭を下げた。しっかりと水を吸い込んだ靴は重く、歩くたびにがぽがぽと不満げに濡れた音を立てる。
「すぐ着替えてきます」
気恥ずかしい沈丁花の香りを纏ったまま、濡れた靴で階段を上がる。肩越しに振り返ったクワトロはもう、カウンターに戻って飲みさしのグラスを手にとったところだった。多分あの人は、何か探しているんだ。なんて、そんな詩人めいた感傷は柄でもない。
重く濡れた上着をハンガーに掛け、帰りまでに乾けばいいけど。とコウは制服に袖を通しながら微かにため息を吐く。事務所に置いたテレビはつけっぱなしで、ニュースキャスターが突然の雨にご注意ください、と間抜けな警告を繰り返している。
起きてしまったことはもう取り返しなどつかないのに。






腕に抱えたまま運んできた紙袋は、雨に濡れたせいで所々破け、今にも底が抜けそうだった。よくもまあ途中で落とさなかったものだと今更がならにホッとしながら、制服に着替えたコウは階段を降りてカウンターの下にその濡れた紙袋を下ろす。
先ほどまでカウンターに座ってぼんやりしていた店主は、そんな「見習い」の姿を見て準備の邪魔にならないようにさり気なくテーブルの端へと避難しているようだ。そういえば、と自分で使ったグラスを綺麗に磨き直しながら彼は顔を上げた。
「こうくんはいつも早いけど、今日はまたどうしたんだい。準備があるにしろいつもより二時間も早いじゃないか。ガトーが出てくるまでまだ一時間以上あるよ」
「すみません、ちょっと試したいことがあって」
私が居なかったらどうするつもりだったの、とあきれ顔で笑うクワトロに、それもそうだとコウは動きを止める。店の鍵を預かっているのはクワトロとガトーだけだ。もし誰も店に居なかったら、全くの無駄足だということになる。
「その時は……まあ、その時です」
「こうくんは野生だねぇ」
野生、の意味を捉えかねているとワイルドだよ、と続けていったマスターの声にさらに謎が深まっただけだった。ボーントゥービーワイルド、クワトロは歌うように繰り返す。
しかしそう言いながらもカウンターの上に並べた瓶に、呆れ顔だったクワトロの目が輝いた。なんだいそれ、と好奇心もむき出しに近寄ってきた長身の男に見えるよう、薄暗いカウンターの照明の下でぽってりとした瓶を傾けて見せる。謎な部分は多大にあるにしろ、だ。結局のところ、彼のこういうところがコウは好きなのだ。純粋で単純。クワトロは美しいものを愛している。悪い人ではないのだろう。
綺麗な指に持ち上げられた桜色の細身の瓶は、カウンターの明かりを受けてとろりと輝く。
「ロゼワイン?」
「ハズレです。ちょっと、飲んでみますか」
コルクではなく、スクリューキャップをぱきぱきと回してワイングラスに傾ける。こぼれ落ちるのは桜色、花咲くような甘い香り。
「驚いた、日本酒かい、これ」
グラスに注がれた桜の雫を鼻先に翳したクワトロは、感心したようなため息を漏らす。ワインボトルによく似た細身のボディと、レースをあしらったラベルからはとても日本酒だとはわからなかっただろう。あたりです、と満足げに笑ったコウはキャップを閉める。
クワトロの初見をかわせたなら、まずまずだ。
「知り合いに教えてもらって。もうすぐ桜の季節でしょう、邪道かもしれないですけど、お花見っていうとどうしても日本酒のイメージが強かったので。どうにかしてお店でも一種類何か出せないかな、と思って」
「それで『試して見たいこと』かい」
「ええ」
では一口。
くるりとワインを嗅ぐように、グラスを一周させたあと、薄い唇へと桜が吸い込まれて行く。「おや」と、目を丸くしたクワトロに、コウは口元が緩むのを我慢出来ずに「でしょう?」と笑った。
「これは日本酒系のリキュールなのかな」
「いいえ。正真正銘、米と麹だけの日本酒です。びっくり、でしょう」
驚いたな。と相変わらず瓶を持ち上げて内容表示を読んでいたクワトロは、何度もそればかりを繰り返す。
「正直、私はあまり日本酒が得意じゃないんだよ。独特の香りが苦手でね。でもこれは、……飲みやすいな、甘酸っぱくて。色も綺麗だ」
「発酵の過程で、酵母にストレスを掛けると、そういう綺麗な桜色になるそうですよ。……ってこれは、蔵元の方の受け売りですけど。」
桜が咲く。
一年に一度、春がくる。
そわそわと温む空気に浮き足立ち、花が咲いて盛大に祝う。そんな毎年繰り返される単純な喜びが、お祭り騒ぎが、コウは好きだった。
「桜のシロップは有りますけど、桜そのものよりお花見の席でも飲めるような、気軽なものが出せないかなって思って……やっぱり、ダメですか日本酒は」
「私は別に構わないよ。あとはそう、あの鬼瓦を懐柔できるかだねぇ」
美味しい美味しいと、喜んでグラスを開けるクワトロの手元から瓶を避難させながらコウも「そうですよねぇ」と肩を落とす。ラヴィアンローズはどちらかといえばオーセンティックなバーで、あまり変り種の一杯を提供するような場所ではない。ガトーが師と仰ぐ今は無き先代の作り上げた、素直なバー。最近は日本酒を使ったカクテルもあるとはいえ、今まで店に置いた事はなかった。
ましてや店主のクワトロにすらメニューへの直接的な決定権はないというのに、コウが進言したくらいでガトーが首を縦に振るか、という話である。
「まあでも、ガトーはこうくんに甘いから」
というのがクワトロの意見だが、結局それで絆されてしまうと言うのも何をか言わんやで。
「そういうのが嫌なんですってば……」
「複雑な乙女心ってやつかな」
ああ美味しかった、ご馳走様。なんて、楽しそうな顔をしてグラスを片付けているクワトロの、少し楽しそうな背中を見つめながら、コウはため息を吐いてボトルを握りしめる。突き詰めるまでもなく単純な思いは一つ。ただ、美味しい、と。そう言って欲しいだけ。
誰でもない、ガトーに。
「ようし、頑張るぞ」
誰にでもなくただ自分に言い聞かせるように小さく呟いた一言は、楽しげにモップをかけ始めたクワトロに見守られて桜色の雫と共にグラスに溢れた。






「で」
カウンターには一足先に春がくる。
色とりどりに咲き乱れた桜色のグラスを眺め、雨の中濡れしずくで店にたどり着いた大男は、困惑気味の声をあげた。
まるで春爛漫の河原のごとく、ずらりと並んだグラスはすべて桜色。雨の気配に混じって、柔らかな甘い香りが立ち上っている。
「こうくんがね、春用にメニューをね」
相も変わらずスツールに腰掛けたマスターは、顔色一つ変えないままに、その並んだグラスを端から綺麗に飲み干して行く。貴様何をしている。子供位なら声だけで殺せそうな響きで落ちてきたそれにも、クワトロはどこ吹く風だ。何って、味見だよ。そう言いながらも手の中に有る小さなグラスの中の春は、するりとその白い喉へと消えた。
「あ、ガトーさんおはようございます」
お早う、な時間でも無いが真剣な面持ちでカウンターの中でグラスに酒を注いでいたコウは、雨の気配を纏ったままカウンターへついたガトーを見上げて、きちんと折り目正しく頭を下げる。これがまた、ガトーがコウを憎めない理由の一つなのだが、コウは知る由もない。
礼の心を忘れず、常に正しくあれ。おそらく育ちが良いのだろう、彼を育てた人間の真っ直ぐさが透けて見える、それは彼の美徳だ。とガトーは思う。美しいと言ってもいい。
そんなことはおくびにも出さないけれども。こちらもお早うと律儀に挨拶を返したガトーが、しかしマスターとコウの間で繰り広げられていたであろう、何らかの戦いの跡を眺めて面白い訳がない。眉間にシワを寄せたまま、相も変わらず状況を把握すべくカウンターに並べられた桜色のパレットを観察する。
漂うのは、嗅ぎなれない甘い香り。コウの手元におかれた背の高い瓶を認めて「ロゼワインか?」と呟けば、待ってましたとばかりに青年の頬は輝く。やっぱり、ねー、などとまるで女子供のように顔を見合わせて笑っているマスターとコウに、思わず不機嫌な声が零れるのもいた仕方ないというもので。
「マスターも分からなかったんですよ。これ、日本酒です」
店にきたばかりの頃はぎこちのなかった手付きも、徐々に様になって来ている。まだ滑らかとは言い難いが、コウの手元に注がれた桜色の液体は、グラスに落ちてふわりと香った。どうぞ、とワイングラスで差し出されたそれを、口に含めば甘酸っぱい春の香り。ほう、と思わず声が漏れる。
ガトーはあまり酒が得意ではないが、鼻先に香ったのは柔らかい香りだ。日本酒、とその香りの先を思い至って思わず目を閉じて味わう。日本酒、というよりもベリーのリキュールを飲んでいるような。舌に甘い。
「バーで日本酒を出すのは邪道かもしれないですけど、お花見の季節って言ったらどうしてもこれしか考えられなくて。せめてカクテルにならないかなぁって思って……駄目ですか」
まるで待てをされた犬のよう。コウは素直だが、
素直だがこういうところがどうも狡い、とも思う。コウの恩師である(そしてガトーの尊敬するバーテンダーでも「あった」)古株のマスターから彼の今後を託され、これではまるで父親だ。とむず痒くなりなが、彼の「お願い」に気おされている。
自分が彼にどうしても甘くなるのは、それはまあ仕方がないが、コウの狡いところはそんな事はこれっぽっちも自覚していないところだ。人の感情を当の本人に押し付けるのなど、お門違いだと判ってはいるが。
「……どうせ引き下がる気も無いのだろう」
それでも素直に了承してやるのはどうにも悔しくて。
なんとか選んだ言葉を、なるべく冷静に呟いたつもりが、随分と嬉しそうに響いたかもしれない。コウの顔はみるみる笑顔になっていく。
「ガトーさん!」
有難うございます、と顔を輝かせて頭を下げたコウに、頬が緩む。嬉しそうだね、などとカウンターについたまま笑ったクワトロが当てたのは果たして何方への言葉だったのか。その言葉には気づかないふりをして、雨の中抱えてきた荷物をカウンターへと上げた。
「おや、ガトーもお買い物してきたのかい」
「買い物、というか」
ひら、
黒いビニールで包まれた無骨な包みから、零れたのは春。
そのコントラストに目を奪われたコウが、あ、と声をあげたのと、その欠片が滑るようにグラスの中に零れたのは同時で。どうしたの、これ。クワトロの声にも僅かな驚きが混じっている。
その中から現れたのは、まだ殆ど蕾が硬く閉じたままの一本の桜の枝。根元が千切れたように毛羽立っているのは、それが花屋で切られたものではないという事を伝えていた。
「ガトー、いくら綺麗だからって公園の桜を手折ったりしたらいけないんだよ」
「誰が折るか。……恐らく今日の風のせいで折れてしまったのだろうな。このまま地面に捨て置いても仕方が無いから、公園の管理者に貰い受けてもいいか聞いて引き取ってきた。水を含ませてやれば、花は咲くらしい」
「いい枝ぶりなのに勿体無い」
「だから私が折った訳ではないと言っているだろう!」
顔を赤くして怒っている所をみると、恐らくは公園の管理人にも同じような疑いを掛けられたのだろう。ガトーが桜を手折る訳はないと、そんなことは分かっている。花瓶とって来ますね、と子供の喧嘩のようなじゃれ合いじみた(にしか見えない)ガトーとクワトロの言い合いを背に、コウは折れた桜の根元を鋏で揃えて活け直す。偶然だとは分かっていても、花見がしたいとぼんやり考えて思わず日本酒を買い込んできてしまった所へのこの差し入れは、嬉しくも気恥ずかしかった。
花嵐、花冷え。
これが過ぎればきっと春がくる。
この小さなバーのカウンターの上にも、細やかながらも美しい春がやって来るのだ。
「どうしたのこうくん、嬉しそうだね」
ニヤついていたのを見られてしまったのか、花を活ける手元が浮き足立っていたのか。このクワトロという男、妙に鋭いのだ。
「えっどうしてです?そう見えました?」
態とらしくとぼけて見ても、サングラスの奥底で何を考えているのやら。白面のマスターは、何と無く、などと食えない返事だ。
「ウラキ」
どうしよう、嬉しい。
頬を揉んで表情を殺していると、薄手のセーターの袖をまくっただけの身軽な格好で、ガトーは先ほどコウがカウンターに並べたグラスの吟味を済ませたところだったらしい。ロックグラスに注がれた春色カクテル。氷の代わりに、グラスの中で鮮やかな赤が揺れている。
「折角の日本酒なら、下手に混ぜたり薄めたりしない方が良いだろう」
目の覚める紅玉は苺。鮮やかな赤を吸って、グラスの中の日本酒は少し色を濃く深めて一層春めいて見える。それは?と聞けば、凍らせたデザートカクテル用の苺を入れただけだと言う。飲んでみろと差し出されたグラスを受け取り、口をつける。
あ、
「……美味しい」
元々の甘さに苺の華やかな甘酸っぱさが溶けて、ふわ、と鼻先で花が開くような。何も混ぜていないのに、グラスから立ち上る気配は満開の桜だ。
「春になれば、花を見ながら外で飲んで。夏になれば冷やしで、冬になれば温めて。同じ酒を、まぜもせずそのままで此れだけ色々な飲み方をするのって、多分日本酒くらいなんじゃないかなぁって思うんです。温度によっても名前が変わるんですよ」
ただ酒を楽しむだけではなく、それを呼ぶ名前も場所もとりまく物々も、すべてひとまとめにして愛でる。そんな民族性をまた、コウも愛している。
「好きなのか、日本酒」
季節を愛でるように、昔から大事にされて来たもの。ごく当たり前すぎて気づかないもの。言われて初めて、そうか、好きなのかと。
「……はい、好きです」
ぽつりと独り言めいた言葉に素直に頷けば、ガトーはそうか、と言ったまま何やら考え込んでいるようだった。ピックに固定された凍った苺を齧っていると、態とらしく咳払いをしたクワトロの楽しそうな顔が覗き込む。なんです、と目を丸くするコウに、しかし男はにんまりと笑っただけで「何でもないよ」とスツールから立ち上がってしまった。
「こうくんは良い子なんだけど、まっすぐすぎるのが玉に瑕だね、ガトー」
何でそこでガトーに話が飛ぶのかと怪訝な顔をしていたコウだが、ガトーは聞いているのか居ないのか、酒のボトルをじっと見つめたまま、上の空で返事を返している。新しいメニューを考えているのだろうか、珍しいこともあるものだと散らかしたグラスを集めて流しへと持っていく。
罪な男だねなどと、クワトロの謎の一言に首を傾げ、淡く色づいた春は流しの中で泡と混じってふわふわ、川に流れる花びらのように。制服に着替えるために、階段を上がって行くガトーの耳が、桜色に染まっていたのに気づいたのはクワトロだけだったけれども。
「あ、沈丁花」
空気が流れてかすめた風に、甘い沈丁花の気配を感じて顔をあげれば、それはガトーが雨の中連れてきた春の気配だったのか。そういえば店に続く道すがら、小さな星屑を集めたような、沈丁花の植え込みがあったことを思い出して納得する。白い星に、濃い紫色の星が混ざるそれは、
(ガトーみたい)
雨、沈丁花、折れた桜の枝と春を連れてくるガトー。
「早くあったかくなるといいですね」
磨いたグラスを綺麗に棚へと並べ、コウは満足げに息を吐く。一人張り切る背中を見つめて、頼もしい意気込みに笑いながら「春だねぇ」とクワトロも笑った。
早く桜が咲くといいい。ガトーが拾ってきたミニチュアの春も、小さな花は冬の空気を押し流し、店の中にとろとろと春を満たしてくれるだろう。
「あの強面にもやっと春が来たじゃないか。ねえこうくん」
開店まであと少し。
クワトロの独り言はコウの耳には届かなかったけれども、楽しそうな背中を見てまあいいかと微笑む。好きです、と真っ直ぐに微笑んだ彼が飲んだのは春待ちグラス。
まあまあ幸せそうな顔しちゃって、ご馳走様!今頃制服に着替えながら、必死に何時もの表情を作っているのであろう、不器用な友人を思って看板へと明かりを灯す。
雨は止み、雲の切れ間から春待ちの月が笑っていた。






春がくる。

作成:2016年12月10日
最終更新:2016年12月10日
お酒をテーマに作った本へ寄せたお話でした。

桜色の日本酒は、広島県賀茂泉の「COKUN」です。
女性ターゲットに開発された、甘口の綺麗なお酒。アルコール度数も低めなので冷やしてそのまま、やソーダで割ってもとても美味しいので、日本酒が飲めない、という方にもおススメ。

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