ベイカー・ストリート・スキャンダル

 たっぷりと棉の詰められたクッションを幾重にも重ねて、身体を沈める。どんよりと霞ががかったように煙る室内は暗く、そこかしこに洋灯の光りが揺れていた。
 いくらかかすんだ視線の先には、部屋の中央に作られた台座の上に、若い女の白い裸体がくねっている。はぁ。息を吐く。甘酸っぱい不快臭があたりの空気を満たしていた。
「…どうぞ」
 焦点が合っているかも怪しい。どうもピントの合わないオペラグラスを覗いているような心持でクッションに身体をうずめていると、恭しく白いパイプを捧げ持った成年が目の前に膝をつく。半分開いたままの唇に差し込まれた吸い口から、深く息を吸って……吐く。たなびく紫煙の向こう側で、青年の顔が僅かに歪んだように見えた。
 幾度も使いまわされて精製された葉は、焦げた匂いと独特のえぐみを残して脳髄には浮遊感を運んでくる。こんなことは狂っている、と、頭では分かっていても自然と身体がそれを求めて疼いた。
 象牙で出来たパイプは長く、寝転んだまま身体を横に向けて何度も煙を吸い込めば、脳裏に絡まっていた思考の糸は、心地よくゆっくりとほどけていく。浮遊感と開放感につつまれ、瞼の裏にさまざまな映像が浮かんでは消えた。ホワイトチャペルの薄汚れた通り、暗がりで僅かなチップのために体を売る娼婦たち。罵声、饐えた匂い。どこかで酔っ払いが壁を叩いて喚いている。
「あとは自分で」
 青年から受け取ったパイプを手で支え、枕に沈んで何度も煙を肺へと送り込む。
 ――……一週間前。
 今、自分が寝転んでいるベッドで、一人の男が死んだ。そしてまた自分も、同じ死の床に横たわってゆっくりと同じ道を歩もうとしている。手の中で二枚の銀貨がチャリ、と音を立てた。
 彼は、無事に対岸へと渡れたのだろうか。




「ホームズ!」
 頭上から怒声を浴びせかけられて、死んだようにソファへと沈み込んだ彼は、うめき声を上げて眉を寄せた。うるさい、とそう声を上げる前に濡れた布巾で顔をぬぐわれ、目を開ける。まだぼんやりとした視界の中、顔に押し付けられた布巾をぞんざいに払い捨てると、険しい顔をしたワトソンが見える。なんだ、と呟いて再び目を閉じようとしたが、肩をつかまれ揺さぶられた。
「寝るな、起きてろ!」
 頭に疼痛が走り、眉を寄せると無意識にパイプを探す。だが、目を開いた先は見慣れた天井で、目を閉じる前までに居たはずの光景が見当たらない。あの如何わしい雰囲気、立ち込める煙と許された忘却の。
「あー……ワトソンくん?ご機嫌いかが」
「君よりは大分マシだけどね、何を考えてるんだ、全く!私とミセスハドソンがどれだけ心配したと思ってるんだ?」
「心配?」
 今日は何日だ、と呟いた先にカレンダーを見つけ、日付に目を見開く。最後に彼と口を利いた日からもう三日も過ぎているようだった。以前同じような事で驚いていた男が居たが、まさか自分が同じヘマを踏む羽目に至るとは思わなかったものである。
「ホームズ、何が必要だ?」
体を起こそうとして、上手く力が入らないことに気づき、呻きながらもなんとかヘッドボードに背中をもたせ掛けることに成功する。酒を、と呟いてから酷い疼痛に蝕まれ、ふらつく足で起き上がる。血が頭に巡らないのか、立ち上がった途端に眩暈に襲われワトソンの腕に崩れ落ちた。
「おい、ホームズ!」
「…大丈夫だ」
何が大丈夫か、と眉を寄せるワトソンに支えられて気付け用のアブサンを棚から引き出す。グラスにスプーンを乗せ、角砂糖を一つ。
「阿片窟に三日もこもって、何をしていたのか知らないが、気でも違えたのかと思ったぞ」
 腕を組んだまま不機嫌そうに呟くワトソンが背を向ける。角砂糖に、スポイトで吸った薬剤を数滴落としてマッチで火をつけた。青白い炎を上げ、スプーンの上でじりじりと角砂糖は形を失い崩れていく。半分ほどに小さくなったそれを鮮やかな緑色をした酒の中へと落とし、ぞんざいにじゃくじゃくとかき混ぜる。
 匂いの強いアルコールを一気に喉の奥へと流し込めば、今までの疼痛が僅かに和らいだような気がした。
「眠れなくてね」
 溜息を吐いてグラスを置くと、振り向いたワトソンに腕をつかまれる。何をしている!と、彼は悲鳴を上げた。
「君は!」
 彼が机から取り上げたのは、小さな茶色の遮光瓶に入った、
「鎮痛用のアヘンチンキだぞこれは!私の鞄から勝手に出したな?」
「少し借りただけだ」
 ホームズ、と気が抜けたように呟くワトソンの腕をすり抜けてベッドに腰掛ける。アルコールを含んだアヘンチンキは間をおかずに脳髄に吸収されたのか、身体は再び浮遊感を取り戻す。
「……娼婦の連続殺人事件はもう諦めたらどうなんだ、ホームズ。あれは無駄だと君が言ったんじゃないか」
「そうだ、そうだ無駄だよワトソン君。あれは解決しようとして出来る事件じゃない。それに、」
 刻みタバコを詰め込んだパイプを片手に火をつける。匂いの強い紫煙がふわりと立ち上り、ダンパーでくすんだ葉を押さえていると、背後から伸びてきた手にパイプを奪われた。
「もう犯人は手の届かないところに居るはずさ」
 パイプを、と手を差し出すものの、彼は眉を寄せただけだった。それで?と促されて手持ち無沙汰に指を組む。
「ユダヤ社会は何より仲間うちの秩序を重んじる。われわれ『よそ者』が介入できる隙間などないということだ。」
「なら余計に君が考えるべきことは何も無いだろう?どうしてこんな馬鹿馬鹿しいことを繰り返す。コカインの忠告には従ってくれたじゃないか」
「……言っただろう、眠れないんだ」
 見えない煙を吸って、吐くようにゆっくりと呼吸を繰り返す。そうすれば阿片の恩恵を少しでも受けられるとでも言うように。甘い煙の誘惑と、解ける思考ともたらされる確約された眠り。その僅かな眠りが欲しくてすがりついた。
「殺された娼婦を見たことは?」
「私は検死に関わっていない」
「それは幸運だった」
 見たのか、と驚いたように目を見開いたワトソンの前で肩をすくめて見せる。メアリー・J・ケリー。忘れようにも忘れられるはずなど無い。暗く湿ったアパートの一室、赤く塗り上げられた壁一面、空っぽの体、机の上に投げだされた内臓が一式。削り取られた顔。
「あれは人の世界じゃない、紛れもない地獄そのものだった」
「今までは平気だったじゃないか、何故今になって苦しむ?」
 黙ってベッドに体を投げ出すと、名前を呼ばれて手を取られた。かざした腕の隙間から、不安げに揺れる友人の視線が透けている。
「グリーヴランド通りの男娼館事件は知っているだろう。随分センセーショナルに取り上げられたからな」
「…それは。だがもう解決した事件だし、それと君の不眠がどう関係あるんだ?」
 怪訝そうに呟く彼に、ノートを投げてよこす。小さな新聞記事がスクラップされたそれは、ロンドンの日常に埋もれてしまった屑のような些細な出来事ばかりだ。だが、そんな屑のような記事の中でも人の生き死にというのは繰り返される。ここだ、と指で指し示した記事の中には、阿片窟での死亡記事が書かれていた。
 阿片窟で死んでいく人間など今更珍しくもなんとも無いが、記事になったのは死んだ人間がいささか特殊な職についていたからだろう。
「あの事件を担当していたフレデリック・アバーライン警部の検死を担当したのは、確か君だったな。ワトソン君」
「……そうだが、まさか……彼は阿片窟で死んだのか」
「アバーライン警部は、あの連続切り裂き魔の初動捜査を担当していた。もともと阿片中毒の気はあったようだが、捜査の後から頻度は比べ物にならないくらい上がっていたようだな」
 死因は中毒死だろう?と立ったままスクラップを読んで眉を寄せているワトソンを見上げると、彼は苦々しい顔のまま「そうだ」と言った。
「あんなものに関わっていたなら仕方ない。苦しまずに逝けたなら幸せだったんじゃないか」
 緩く笑って振り仰げば、怒りを滲ませたワトソンに肩を掴まれる。強く指が肩に食い込み、そこだけ現実に繋ぎとめられているようだった。
「ホームズ君は……、君まで後追いをするつもりだったとでも言ってみろ、私は許さないぞ」
「別に私は死にたいだなんて言ってないだろう」
「白々しい嘘をつくな、こんなものまで持って阿片窟にこもって、何だ、私への嫌がらせか?あてつけなのか?」
 金属音を立てて床に二枚のコインが落ちる。死への船賃。唇が歪んだ。これは見え透いた言い分けすぎただろうか。ワトソンは馬鹿じゃない、と怒りと悲しみがない交ぜになった表情を浮かべる彼を見上げて手を伸ばす。 頬に触れると、見えない涙をぬぐうように指で掬い上げた。
「……悪かったよ」
 君が探しに来てくれる気はしていたんだ、と。その一言は飲み込んで、首を抱いてキスを強請った。




 ここ数日で確実に彼の体は薄くなってしまったようだ。
 よれたシャツをはだけた中で震える肌に指を触れさせ、浮いたあばらをなぞりあげる。体温の低い肌は乾き、触れた指先の体温を吸おうとでもしているようだった。
 唇からは、甘いような酸っぱいような独特の薬剤のにおいがする。さっき彼が口にしたアヘンチンキの匂いだ。どれだけ摂取したのかは分からないが、どこか焦点の外れた視線に浮ついた言動は明らかに中毒者のそれで。背中を抱いて持ち上げてやると、子供のように駄々をこねる。
「ワト、ソン」
 途切れ途切れの声に名前を呼ばれて、乾いた唇に自らのそれを押し付ける。水を欲しがるような、そんなキスだ。甘さを求めるよりも、渇きを満たす性急さで服を脱いだ。すがりつくようにつかまれる指には痛みすらも感じたが、彼の必死さを前に振り払うことも出来ずに好きにさせてやる。
 短く浅い呼吸と、震える指は薬の効果が切れかけていることの禁断症状か。こんなときまでもつぶさに観察してしまう自分の性分に苦笑が毀れる。
「何、を笑って」
 互いの腹部で擦れ合う性器にもどかしく声がかすれた。足が絡みついてくる。強請られるたびにキスを与え、くしゃくしゃになった前髪を漉いてやる。
「何でもない。……ちゃんと見えてるのか?」
 どうも焦点のあやしい視線に手を差し出すと、掌に唇が触れた。覗いた舌が、ぬるりと指の股を舐めていく。はやくはやく、と無言の声がそう熱を欲しているようだった。腰に乗り上げた身体は軽い。やせ細った背中を支え、彼が欲しいようにさせてやれば、震える手でスラックスを開かれる。
「よく、見えない、」
 わざとらしい誘い方だ。それでもきっと、プライドと羞恥のせめぎあいなのだろう。ならばおいでと首の後ろを撫でて引き寄せる。唇に触れるように押し当てた指をしゃぶる顔は、薬と快楽に溶けて酷く扇情的だ。いつも感情を押し殺した上にかぶせるような、作られた笑みはそこには無い。本能のままに自分を欲して乱れる様は、目に毒で。
「…ッあ、……あ、ジョン…!」
 濡れた指を除けると、物欲しげに開いた唇を一度ふさぎ、腰に乗り上げた臀部へと押し込む。期待のせいか、蕾は抵抗もなく指を飲み、彼は背中をしならせて声を上げた。
 その声はまずいな、と思う。薬よりもよほど毒ではないのかというような。箍が外れると彼はファーストネームで自分を呼ぶ。ベッドを共にしていても、数えるほどしかないことのはずだが、それだけ切羽詰っているのだろう。
「あ、や、嫌だ、嫌だ…そこっ、」
「いいのか、嫌なのかどっちなんだ。痔になりたいわけじゃないだろう」
 人間不思議なもので、酒の席にしろセックスにしろ、片方が正気を失うほど乱れると意識が醒めていくものだ。おそらくここで自分まで正気を失えば、きっと後戻りできないと思う自衛が働くのだろう。
「良すぎて嫌だ……」
 処女じゃあるまいし、と目の前で快楽に解けている顔を見上げて苦笑する。冷たい肌とは対照的に指を押し込んだ胎内は熱く、奥へ引き込むようにうごめていた。指を引き抜くと、スラックスから抜かれたペニスを掴んで彼は自ら腰を沈めていく。一気に堕ちてくる熱に上がりそうになる声はキスでごまかした。
「っ、ホームズ」
 同性愛は、罪。もし社会に露見すれば二年の懲役と重労働は免れない。社会からも見捨てられ、自分たちはもうロンドンでは否、イギリスでは生きていけなくなるだろう。それでも危険を犯して身体を繋ぐ。まるで中毒者のように。アバーライン警部が暴いたのもまた、そういったロンドンの闇だ。
 名前を呼んで頬をなでると、あからさまにほっとした顔でホームズが目を伏せる。腰を支え、肌のぶつかる音を立てて身体が弾む。上がる声を耐えるために指を噛む手を取って、キスをした。深く繋がる舌は、アルコールを深く吸っているせいか阿片のせいか酔わされてしまいそうだ。
「気持ち、……いいか?」
 鼻先をすり合わせて呟く言葉に、どろどろに溶けきった視線は僅かに頷く。もう薬は必要ない、と耳の後ろをなでながら呟けば、ホームズはやっと安心したように身体の力を抜いた。
 自分の意思でしか動かないくせに、こういうときは決まって外からの言葉を欲しがる。まるで懺悔だ。罪の行為にふけって、気休めのような懺悔を欲しがる彼は声を絞って限界を訴えた。
「っは、あ……だめだ、外に」
 ぎゅっと痙攣した腰に慌てて身体を浮かせようと支えたが、首を振ったホームズがすがり付いてくる。
「嫌だ、中、に」
「ホームズ…、っ!」
「あ、あ…!ジョン……!」
  首を振るこちらを抑えて、噛み付くようなキスがおちてくる。悲鳴を上げたホームズの胎内へ流れ込んだ白濁に、彼は満足そうに一度微笑んで目を閉じた。




「私は麻薬か?」
 隣で満足そうな顔で眠り込んでいるホームズを見下ろして溜息を吐く。
 結局彼が満足するまで散々に強請られ、腰は悲鳴を上げている。手癖の悪い彼が爪をたてるものだから、きっと背中は見るも無残なことになっていることだろう。
 人々が阿片に溺れるのは、薬は人に優しいからだ。苦痛を和らげ、許しを与えてくれる。確かに麻薬かもしれない、と彼は苦笑した。
「……君のほうがよほど阿片のようだよ、ホームズ」
 きっともう、この依存症からは逃れられないのだろう。傍らで眠る癖のある髪を漉きながら呟けば、彼が幸せそうに笑ったのは、
 ワトソンのあずかり知らぬことだが。


 溺れたのは、果たしてどちらだったか。


作成:2016年12月10日
最終更新:2016年12月10日
フロムヘルを混ぜつつ。

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