Das Kirchenlied des Walfisch

耳の中で音が反響している。

目をつぶっていても、それは鮮明に耳からしみこんで脳裏に緩やかに沁み込み、一つの映像を描いた。

白い卵、その卵を割って出てくるのは黒く小さな鳥だ。胸が白く、首が血に濡れたように赤い。鳥は長い尾を引いて上空を旋回しながら白い丘のまわりを飛んでいた。丘の天辺には噴水があるのか、時折細く水しぶきが上がる。その水を浴びたような気がして、彼はゆっくりと目を開いた。

唇が少し潮の香りを感じているようなきがする。風を切る音に混じって、微かに自分の名前を呼ばれたような気がしてゆっくりと伸ばした手で空を掻いた。



目を開けばそこはいつものテントの中で、自分用に垂らした布で間仕切りされた狭い寝床に大人しく収まっていたようだ。宴は僅かな焚き火のくすぶりだけを残してキャンプは寝静まり、地平線の向こう側から登る陽の光を待ちわびている。

すっかり目が醒めてしまったのは、なにやら懐かしい夢を見たような気がしたからだろうか。少年は隣人を起こさないように上掛けをはぐって体を伸ばすと、テントの外へと這いでた。
まだ頭上は濃い藍の天蓋で覆われていたが、裾の方から薄くすみれ色にグラデーションのかかった地平線を望みながら寝静まったキャンプを見渡せば、ひんやりと冷たく冷えた砂地が素足に触れた。
昼間の熱はすっかり冷め、太陽の愛撫を受けないままの砂は足の裏に心地良い。足音を気にすることも無く、黄色い砂はしっかりと足の裏を捉えて音を飲み込んでくれるだろう。暁に染まる地平線を望んで、少年は静かにテントを離れた。



しんと冷えた空気は寝巻き用の打掛一枚ではやや心細く、焚き火の燃えさしの中からまだ紅玉を残してぬくもっていた小さな塊をブリキのカップへと落とすと布でくるむ。長い間は持たないだろうが、焔の残り香は起き掛けの体を温めてくれるには十分だろう。
いつもであれば夜明けと共に真っ先に目を覚ますのがマツナガで、朝に弱いライデンを苦労してたたき起こす頃には女たちを手伝って彼は朝食をこしらえている。だがまだ夜明けには少し遠く、おそらくはまだテントの中で安穏とした眠りを抱いているのだろう。
滲んだ地平線は冷えた空気のおかげで昼間のようには揺らがず、裾から綺麗な色の移り変わりを見せている。懐に暖かな燃えさしを抱いたままテントを離れると、緩やかな風に吹かれて自分のつけてきた足跡はたちまち砂にうずもれて消えていく。だが、それほど遠くまで離れるわけでもなくキャンプを背にして歩けば迷うことも無い。彼は生まれたての朝の空気を楽しむように軽やかに足を運んだ。
豆を挽いた粉のようにやわらかな黍色の砂丘はずっと地平線まで連なり、距離感を狂わせる。どれだけ昔までさかのぼれば、この土地にまだ緑があふれていた姿が見られるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら砂丘を目指して歩いていると、柔らかな斜面に足を取られて頭から地面へと転がり落ちた。気を抜いていたせいで、懐に抱いていたブリキの缶は腕からすり抜けて斜面を落ちていき、砂に埋もれた片足のせいで開いた打掛から素肌に冷えた砂が流れ込んでくる。砂に埋もれて溺れそうになっていると、ふいに伸びてきたものに腕を絡められて呼吸が楽になった。
それが、砂から引き上げられたのだと気づくまえに、かれを掬い上げた何かは、足の下が砂だとは思えないような足取りで地面を転がり落ちていったブリキの缶を追いかける。
砂にまみれた顔をぬぐって、ローブの中へとたっぷり入り込んだ砂を追い出していると、ほら、と差し出されたブリキを胸元に押し付けられる。乾いた布で包まれたそれは、まだほんのりと熱をもって暖かい。


…ありがとうございます。すみません、ぼっとしていて。
朝の砂漠はトリスが多いのに、裸足で出てきたのか。
トリス?
黄色い蛇だ、毒がある。噛まれたらひとたまりも無いぞ。


砂を払って顔を上げると、頭一つ分は抜けているだろうか、背の高い男が砂の丘の少し下でこちらを見ていた。砂漠のほかの民と同じく目深にかぶったヴェールで表情はうかがい知れなかったが、薄く竜胆の色を刷いた長いローブから覗く指先は長く、ゆったりとした布地に隠れてはいたが引き締まった背中をしなやかな筋肉が覆っている。低い声が、謡っているようだった。


ほら、そこにも。


彼の指が足元を指し示す。驚いて飛び跳ねると、腕に抱いたブリキがころころと音を立て、砂地に足跡を残したが、指をさした先には何も見当たらない。思わずむっとして男を見返すと、彼は少し肩を竦めてみせた。


…一度蛇に噛まれた疵は、また同じ蛇を引き寄せる。一度噛まれたことがあるのだろう。


そこに疵が残っている。彼の指がしめす足首には、言われれば確かに気づかないほどの小さな斑がふたつ、くるぶしの下にうっすらと散っている。だがそれが蛇に噛まれた疵かどうかなど、知る由も無かった。


これは蛇に噛まれた疵なのですか。
覚えていないのか?

…全く。

或いは、彼の言う黄色い蛇の毒牙は確かに自分を捕らえて疵を残したのかもしれなかったが、それがキャラバンに拾われる前のことであれば、自分には確かめるすべも無い。いくら思い出そうとしても、記憶は白い卵に突き当たって消えてしまうからだ。
ひんやりとした風に体温を奪われて肩を抱くと、腕の中の燃えさしがじんわりと暖かい。同じようなローブ一枚でいるくせに、目の前の男はさほど気温に対して不快に思っていることもなさそうだった。
顔にかかったドレープの中、濃い影に隠れた目元が差し込んだ朝日に輝く。夜明け前の地平の色と同じ、淡い菫色をした瞳が光に透けて金灰に揺れた。コンパスにはめ込んだ菫青石と同じ、光に透けると目の中で焔が揺れて色を移り変わらせる、珍しいヘテロクロミアのようだ。
絹を貼り付けたように真っ白な肌は、もしかしてアルビノなのだろうか。色の抜けた目といい、ドレープの中から零れた髪の一筋も太陽の光を浴びて束ねた絹糸のような薄い銀を見せている。自分たちと同じようなキャラバンの商人とは、とても考えられなかった。
朝日に反射する砂は、風に巻き上げられると蝶の燐粉にも似た小さな焔をほとばしらせる。このあたりの砂が輝くのは、大昔この場所に海があったときの名残で、細かくくだかれた貝の殻が混ざっているせいだ。砂はふんわりとやわらかく、足音はたたないが、手のひらに梳くって両手で揉みこむように擦り合わせれば、鼠の啼くような音を立てる。
啼き砂だ。


…貴方は旅のキャラバンなのですか、


一瞬垣間見た菫の色彩は、再び顔に垂れたひだの間に隠れてしまっている。問いかけた彼に対して、男は似たようなものだとあいまいな返事を溢した。不意に、彼の立つ砂丘の陰から生えたように生き物の影が沸いて出る。それは怯む少年をよそに、ぐるぐると男の足元を歩き回ってから甘えるように鼻先を彼の足にこすりつけた。
体の大きなものから、まだほんの子供のようにも見える小さなもので、砂狼の群だ。マツナガと同じ、太陽に当たれば眩く輝く毛並みを持った美しい獣たちは、コウが気づかなかっただけでずっと其処へいたらしい。
日の出前の砂の色に溶けて目視が出来なかったのだろう。男は特に動じることもなく鼻先をこすりつける一頭の背中を撫で、何事かを小さな声で呟いた。公用語ではないらしく、低く呟かれたせいでそれは歌の一フレーズのようにコウの耳に刻み付けられる。砂狼はそれを聞いてなのか、おとなしく冷えた砂地の上へと体を横たえた。
廃墟に残る獣の像のように、地面に両足をそろえて腹ばいになり、しかし何かがあればすぐに矢のように飛び起きれる体勢でもって座り込んでいる。コウがよくマツナガへとするように、黍色の砂をまとった銀の背中を何度も男の手が撫でると、狼は気持ちよさそうに目を細めた。


…貴方は犬養の旅人なのですか。
いいや、ただ砂漠を行き来するだけだ、お前たちと同じ。たまたま砂狼の群に行き交った。それだけだ。


それにしても随分となつかれている気がするが、手のひらの下でおとなしくうずくまる力強く静かな生き物を見ていると、案外彼らは人の言うほど粗暴な生き物ではないのであろう。マツナガを見ていれば良く分かる話だ。
お前は、絹売りのキャラバンの子だろう。しばらく前から行く先に影を見ていた。と、男は言う。前の街を発ってもう一月にはなるだろうか、いつから後を着いてきているのかはわからないが、僅かに身がまえると菫色の瞳がヴェールのなかで僅かに揺れる。


僕たちのキャラバンに手を出されても困ります。身重の女性を連れまわせるほど大きな群じゃないんです。
…私は犬使いはではないし、砂狼でもないのだが。


それに、と呟いた男の腕に手首をつかまれてコウは竦みあがってしまった。白い指は長く、手首をつかまれると手首の裏まで簡単に指が回る。象牙石のように冷えた肌に息を飲めば、間近に覗き込まれる瞳にひざから力が抜けていきそうだ。


砂狼は女だけを襲うわけでもあるまい。性別などただの記号にすぎない、彼らが女だと思えば女にもなるし、男だと思えばそれは男だ。
…それは貴方も?
そうなるな。


不意に笑った口元を見てからかわれたのだと気づき、抗議の言葉を口に乗せる前に手首を捉えていた指はあっさりと離れていった。さほど強くつかまれていたわけではないので、手首には何も残らなかったが、彼の残した体温ははっきりと皮膚の下に刻み付けられた気がする。それは静かに骨へとしみこんで、彼の体に何か刻印を残したようだった。


素直なのだな、コウ・ウラキ。
…どうして僕の名前を知っているのです。
先ほど落としたブリキの缶に名前が彫り付けてあっただろう。それに、お前たちの拾った客人の知り合いだといえば、お前は信じるかな。


客人のことまで知っているのかと少年は驚いたが、白亜の偉丈夫は特に何を求めるでもなく事実だけを述べている。ふわりと吹き上げた暁の風に舞い上げられた生成りのローブが大きくはためき、船の帆のように膨らむと顔に垂れ下がっていたヴェールも巻き上げられて薄日に顔が晒された。
ヴェールから覗いていた一筋の髪は、日の光を吸って蕗にたまった朝露と同じ色の光の粒をたたえている。切れ上がった目の中にはアイオライトが二つ、まっすぐな光をたたえていた。
シャアといい、この国の肌の白いものは彼にとっては宝石と同じだ。どこか現実離れして見え、魅力的に映る。舞い上がったローブを気にする様子もなく、日の出前の淡い色彩の地平線を背中に背負ってたたずんだ男は横たわる狼の隣へと腰を下ろした。
地図は無いが、今までたどってきた道と方向を考えればここはジオンに近くあと1日も歩けば街に着くだろう。どこまでも続くように錯覚する砂丘はなだらかな丘陵が連なっているせいで、おそらく高台にでも上がれば王都のこまごまとした町並みが見えてくるはずだった。
男はローブの下からルタの骨で出来ているような真っ白い櫃を取り出すと、蓋を外して中身を注いでいる。琥珀色の透き通った水色が白い蓋へと広がった。そのまま視線で促されて、ひきつけられるように隣へ腰を下ろすと、その小さな杯を手の中へ渡される。


ただの林檎茶だ、はちみつを入れてある。暖めても冷やしても居ないが、顔色が悪い。少し飲んでいくといい。


戸惑ったままの少年に男が告げ、座ったひざの上へ乾いた泥岩のかけらのようなものを置く。粉と木の実と砂糖を混ぜて焼いただけの簡素なビスケットだ。

そんなに警戒しなくても、毒など入っていないさ。

手をつけずに思わずカップと男を見比べていると、彼は自分でも水筒に残った林檎茶とビスケットをかじって見せた。足元で尻尾を緩やかに振っている砂狼へもかけらを与えている。
そういうわけではないのだけれどと、僅かに気まずくなってカップへと口をつけると、ほの甘い林檎の香りが口内を潤した。ビスケットも砂糖の焦げたいい香りがする。どこか懐かしいような味だったが、どこで食べたものなのかは、頭の端に引っかかったようで出てこない。
思い出せないのはいつものことなので、気にしたことではない、と思っていたのだけれど驚いた顔をして見せたのは男のほうだった。おい、と言って伸びてきた手が頬をぬぐうので、彼はそこで初めて自分が泣いているのだと気づいた。が、そんな自覚は無い上にどうして涙があふれてくるのかも分からずに呆然とビスケットを食べながらしゃくりあげている。なんとも奇妙な光景だ、と彼は思った。


…なぜ泣く。


困ったといわんばかりの声で男が呟くのを聞いて、分かりませんと首を振って見せるものの、何か堰を切ったようにあふれ出した涙は止まらずに、薄いチョコレート色の肌へ行く筋も跡を残して足元の砂へとしみこんでいく。干上がった川に落ちるしずくにも似て、肌を滑った涙はうっすらとした跡だけを残して消えていく。砂地に落ちたものは痕跡を探すことすら難しいだろう。


…わかりません、ただ、何か思い出せそうだったのに、いつも行き止まりにぶつかって終わりです。今日もそうだ、何か、何か大事なことを思い出せそうだったのに。
思い出せないものは、思い出さなくてもいいものだからだ。
………本当にそうでしょうか。


ビスケットのかけらが喉の中に落ちていく。林檎茶と混ざり合って溶けていくそれを確かに体の中に感じながらも、硬く閉じた卵がいつまでたっても割れることなく同じ場所にあるのが、時々どうしようもなく苦しくなることがあるのだ。普段は意識しないものだが、一度気になりだすともうそれしか見えなくなってしまう。
忘れてしまえ。呟いた男の手が、止まらない涙を抑えるように目元を隠される。乾いた木の実のような不思議な香りがして、遠くの方で揺らいでいた微かな景色が少しずつ薄れて消えていった。
手が離れていく、それが酷く名残惜しい気がして思わず男を見上げると、地平から上ってきたばかりの太陽に照らされて紫の瞳が鮮やかな金に燃えた。立ち上がった狼が、光に向かってぴんと尻尾を立てている。
そろそろマツナガが目を覚ます時間だ。キャンプに戻らなければならない。涙は、男の手のひらに吸い込まれるようにして消えてしまったようだ。記憶のかけらと共に。


それならば、私が送っていこう。そんな成りで帰りに砂蟻の巣に落ちられては寝覚めが悪いからな。
そんな成りとは?
…どうも失恋した女子供のように見える。


彼が手を振ると、群れた砂狼たちは名残惜しそうに尻尾を振ってから上り始めた太陽に向かって立ち去っていった。繁殖期ではないから、オアシスを探す旅に出るのだろうと彼は言う。銀色の毛並みが光に溶けて消える様を見ながら、それで名前を伺っては居ませんがと問うと、彼はガトーだと言葉すくなに呟いた。
ガトー、彼の目の色と同じ薄い紫を帯びた砂糖の結晶の名前だ。本名ではないのかもしれない、がそれはとても綺麗な名前なのだと思った。

作成:2012年2月20日
最終更新:2014年4月14日
同人誌「Das Kirchenlied des Walfisch」より
砂漠の民のコウと謎の男ガトー

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