主人と私

私はただ見ている。
主人はただ肩を震わせて泣いているようだったが、私はどうすることも出来ずに足元へ従順に寄り添った。体温の少し低い彼の足に寄り添っていると、言葉は交わさずとも何か汲み取れるような気がした。
どうしたんですか、大丈夫ですか。
不安そうに声を掛けてみても、彼は泣くばかりでまるで要領を得ない。これはしばらく何を言っても無駄だろうと、私は私らしくじっと彼の回復を待つことにした。
もうだいぶ暖かく為ってきてくれて良かったものだと思う。春先の公園では、静まり返った空気の中に、萌え始めたさまざまな命のにおいがする。こんなコンクリートに囲まれたような都会のど真ん中でもこんなに匂いに満ちているなら、もっと土の多い場所ではどうなのだろう。私はおそらく一生見ることがないであろう光景に思いをはせる。
でも、と震える主人を見上げて言った。私は貴方の傍からは離れませんからね。彼は聞いているのかいないのか、肩を震わせてしゃくりあげているだけだ。
昼間、誰かから電話が掛かってきてからずっとこの調子だ。
いつもは背中を撫でる彼の腕が無いので、私は少し心外だ、といいたくて鼻先を押し付ける。
それに気づいたのか彼の手が背中を滑ったが、頬から落ちた涙が次々に背中へとしみ込んでいく。どうしたのですか、私でよければお話なさいな、それで貴方の気がまぎれるのならば。…ごめん、ごめんね。とうとう崩れ落ちた彼が私の背中を抱きしめて肩へと顔をうずめて声を殺すので、私は困惑する。
貴方に謝られる覚えも無いのですが。
…絵鳩が死んだと、電話があったんだ。
彼は私の知らない名前を口にする。
お前は知らないかもしれないけれど、その絵鳩というのは彼の大切な人だったのだろう。
もう逢えない。
息を詰まらせると、彼は私にすがり付いて静かに泣いた。とっくに日付をまたいでいるのだろう、静まり返った公園には私と彼の2人しかいなく、外灯に照らされて浮かび上がった白っぽい地面が視力の余り良くない私の目には、何か底だけ切り取られたもののように映った。
理由を聞いたことに私はたちまち後悔していた。
…すみません。
抱きしめることも出来ずに、私はただ彼の頬をすべる珠を吸った。次から次へと止まることなく滑り落ちる涙は、彼の目を溶かしてしまうようで怖い。
もし、自分が死んだとしても彼はこんなに泣くのだろうか、と考え、わが身を呪う。私が死んだら、彼は一人ぼっちになってしまうのではないだろうか。
…好きだったんだ。多分、好きだった。
でももう居ないんだ、力なく笑った彼が涙を拭いて上げた顔は、先ほどとは打って変わって晴れやかなものだ。私はこれが、彼なりの儀式だったのだと気づく。
付き合ってくれて有難う。…ええ、構いませんよ。貴方のためならば。私は彼を見上げて笑って見せた。
神と言うものが居るのか分からないが、と思う。
もしも一つ願いがかなうのならば、願わくば、彼が泣いているときに抱きしめられるよう、
隣に居られるように、私も彼と同じく人に生まれ変われたら、と。
乾いた地面を温い風が撫で、埃とともに落ちた桜を舞い上げる。
…後幾度貴方とこの桜、見れますかね。
彼の手は優しく背中をなでただけだった。

作成:2011年4月16日
最終更新:2014年4月13日
「深夜の公園」で登場人物が「見上げる」、「犬」という単語を使ったお話を考えて下さい。
http://shindanmaker.com/28927より。

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