雨猫

きれいですね、

ぼそりと耳元で囁かれた声に私は驚いて振り返る。
背が高く色の白い青年がいつの間にかこちらに顔を向けて居た。
随分と綺麗な子だ。
少し伸び過ぎの嫌いがある体つきをしているが、シャツの下には確かにしなやかな筋肉に覆われた体躯がある。
シャツは、今しがた降りだした雨に濡れて肌に張り付き、体のラインを浮き立たせる。
いつからだろう、もう若い男の子にドキドキするほど若くないのだと気づいた私は心のなかで苦笑した。
つま先に流れてきた雨水が怖くて、はり出した庇の中へ1歩下がる。


油断していた。


すぐに帰るつもりだったのに、駅に向かう途中で腕に落ちた雨粒へ顔を上げたのと、轟音を立てて空から水がぶちまけられたのはほとんど同時で、そのスコールのような勢いに駅まで走る気力すら奪われた。
慌てて駆け込んだ公園の喫煙所には人影は無かったけれど、そこらじゅうに落ちた煙草の吸殻と湿った空気にまで染み込んだ紫煙の残り香に私は眉を寄せる。
おまけにびしょ濡れのスーツが肌に張り付いて気持ちが悪いし、止みそうもない雨に気分は最悪だ。



つい、と外れた視線になんとはなしに彼の方へと顔を向ける。
青年は雨をじっと見たままもう一度綺麗ですねと呟いた。私は何のことだかわからずに首を傾げると、彼は雨を見たまま星が、と笑う。
…光がきらきらして、星みたいだ。
公園に1基だけ据え付けられた街灯は、落ちる水を反射してそこだけ光のしぶきを散らしている。
随分とロマンチストらしい。
徐々に浸食する雨を避けようと苦労していると、黙ったままの私を道思ったのか、彼は大丈夫ですよとつぶやく。ただの通り雨です、すぐに止む。
柔らかな都会の闇の中に光の粒が踊っている。水音は耳の中で反響して、まるでバスルームに閉じ込められているようだ、と私は思った。
体、びしょぬれですよ。
ふと差し出された乾いたものに頬を拭われ、私は目を丸くする。
彼が差し出したハンカチが、頬を伝う雫を吸い取ったらしい。慌てて自分のハンカチを出そうとポケットを探るが、出てきたのは丸まったレシートだけだった。
…気にしないで、俺はいいですから。もう行かなきゃ。
こんな豪雨の中を?
半ば無理やりハンカチを握らせられたままいぶかしめば、彼は迎えがきたからと笑って公園の入口へ視線を向けた。
私には何も見えない。
じゃあ、と声をかけるまもなく背の高い青年は雨の中へ踏み出して、あっという間に見えなくなる。街灯のあかりに照らされた小さな影が二つ、塀の上を軽やかにわたって消えていく。
桜の花びらを散らしながら振り続くシャワーの向こうで、にゃあ、と猫の鳴き声が聞こえて私は彼らの恋の季節が来ていることを思い出す。


ハンカチには、微かに麝香の香りが残っていた。

作成:2011年4月16日
最終更新:2014年4月13日
「夜の浴室」で登場人物が「浮気する」、「猫」という単語を使ったお話を考えて下さい。
http://shindanmaker.com/28927より。

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